藪の奥の滑り台
余市は積丹半島の基部にあり、石狩湾を望む街だ。
余市港には水産研究所があり、丘陵地はリンゴやブドウの産地である。
近隣には余市鉱山や
然別鉱山
などが存在し銅や硫化鉄の産出があった。
畚部(フゴッペ)川を遡り、農家の路地を進む。
農家の方々に挨拶をし、駐車と入山の許可を頂く。
今回は傾斜の緩い南側からのアクセスだ。
すぐに廃道となり、地形図の徒歩道の痕跡はなくなる。
かつて麓には事務所と選鉱場があり、積出駅である函館本線蘭島駅までの4q間は、
当時から道路が整備されていたようだ。
足元には配管が埋没、選鉱施設の一部かもしれない。
鉱山時代から電気が通じており立地条件は良かったと言える。
昭和20年(1945)当時、職員5名、労務者20名で経営してたという。
ここからは
初音鉱山
にも匹敵する激藪となる。
昭和25/26年度の産額は600mt/年だが、昭和17/18年度は120mt/月に達していた。
鉱石品位はMn35〜40%であった。
【単位mtは質量単位メトリックトン、日本では1Mt=1t】
鉱石の埋蔵分布範囲は山頂から麓にかけての東西600m、南北300mと推定されており、
そのうち採掘跡の面積は300m×80mに及んでいる。
鉱床は深さ15mまで及んでいることは試錐によって確認されていた。
藪の奥に建物が見える。
当時の工業試験場での分析によると、
品位はMn45.49%,Fe4.43%,P0.21%,SiO29.25%であった。
これは鉱山事務所を後に農家として使用した建物かもしれない。
坑道はなく露天掘りで、削岩機を使用していたようだ。
なだらかな斜面を利用して驚きの鉱石運搬法が採用された。
20HPおよび15HPのポンプで河水を揚げ、
頂上付近の採掘現場から鉱石とズリを、
鉄板製の掛樋を利用して麓の選鉱場まで押し流したという。
選鉱場では冒頭で紹介したジガーを用いて、
土砂と鉱石を分離し、
更に手選にて精鉱としたようだ。
付近にはリヤカーのような運搬機が残っている。
農地もなく、開けた牧場のようでもない。
やはり選鉱場とその施設跡のようだ。
その上でさらに藪は深くなり撤退を決定する。
恐らくあと70m程度で露天鉱床となるはずだが、
足元に鉱床のような地質は現れない。
金属マンガン鉱の用途は、
95%以上が製銑、製鋼、合金添加用で、
残り数%が溶接棒や肥料などに充てられた。
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