落合直利、その語源は



愛別ダムの北、
マタルクシ愛別川に沿って伸びる徳星林道に入る。
ゲートは施錠され、事前に入山許可が必要だ。 徳星林道


林道には路面決壊か所が3か所あり、
車両での走行は困難である。
最初の決壊か所から製錬所までは約5.4qの徒歩となる。 路面決壊


廃橋を超えて林道を歩く。
鉱床の露頭は大正12〜13年(1924)頃発見されたものの、
探鉱自体は昭和初期から始まったらしい。 廃橋


マタルクシ愛別川は最上流域の様相で、
露頭の隙間を流れる沢のようだ。
鉱床図によると付近には火薬庫などの記載がある。 マタルクシ愛別川


火薬庫付近だが平場が残るだけだ。
人工的な池もある。
青化精錬所へ向かう。 火薬庫


再訪の精錬所に到達だ。
苔むした石垣がおよそ8段。
杜に眠る神殿だ。 索道


昭和11年完成、処理能力200t/日の青化精錬所だ。
砕いて泥状にした鉱石と青酸ナトリウムを2昼夜撹拌し、
金とシアンを結合させる。 青化精錬所



選鉱所も上部に残存する。青酸ガスの発生を抑える石灰と反応させた後、
亜鉛(Zn)粉末を投入、これがシアンと結びつくことで金が析出する。
これが青化精錬のメカニズムだ。 選鉱所


精錬所を後にし、大規模な土石流の痕跡の上流へ進む。
昭和9年(1934)に日本鉱業(株)が買収、
以後、昭和18年(1943)の金山整備まで操業が続く。 土石流


人工物が皆無の山中だが、碍子が朽ちている。
休山当時で徳星1坑の他20余りの坑道があり、
坑道総延長は15qに達していた。 碍子


ここからは支流 丸山沢に沿って遡る。
当時の主力坑道は徳星3坑、4.5.6坑で、
粗鉱を6,000t/月(Au2.6g/t,Ag39g/t)出鉱していた。 丸山沢


写真では判りにくいがヒグマの足跡である。
ラジオや熊鈴、電子笛と獣よけ線香など
対策を駆使して入山する。 ヒグマ


かなり登ると明らかな平場と廃道がある。
かつて施設があったようだ。
通洞坑と精錬所を繋ぐ輸車路の跡かもしれない。 平場


コンクリート製の柱のような廃祉が残る。
精錬所完成までは上鉱を愛別駅から、
茨城県日立鉱山に送り製錬した。 遺構


更に沢に沿って上流を目指す。
普通鉱は紋別港より、
大分県佐賀関精錬所に輸送した。 沢登り


延々とこのような沢を遡る。
鉱脈ごとの平均金品位で大きいところは、
山神鉱脈で17.7g/t、160m鉱脈で16.2g/tであった。 廃道


沢は時によって登れず、高巻く必要がある。
他鉱の金品位は現役の鹿児島県 菱刈鉱山が40g/t、
恵庭鉱山が12g/t、 大盛鉱山が3.5g/t であったがここ徳星も平均品位は0.7〜2.1g/tであった 。 廃道


かなりの斜面を高巻き、高度を稼ぐと
鉱山の沢は遥か眼下だ。
脇に見えるのはズリ山ではないだろうか。 ズリ山


これは人工的に捨石が積まれたズリ山だ。
滝のように流れる鉱山の沢最上流部。
この上が恐らく通洞坑だ。 ズリ山


これは尾鉱、つまり選鉱の過程で廃棄される不用の鉱石達だ。
ここの尾鉱は一個の大きさがかなりある。
しかも簡単に崩れる状況だ。 ズリ山


赤い汚泥と共に滝のように流れる鉱水。
本坑の従業員数は昭和9年(1934)で69名。
精錬所完成の翌昭和12年(1937)には396名と大所帯となる。 滝


滝は自然の地形に過去から存在した感じではない。
長い年月をかけて自ずから堆積した土手を流れる様相だ。
ただ土手の表面は強固で滑るような場所は無い。 飛泉


やはり滝口は相当量の汚泥が堆積し自然のダムと化している。
昭和14年(1939)には付近に住宅220戸、児童数147名の小学校が建設、
上流から沢沿いに4か所の集落が形成されていた。 汚泥


「シルト」 砂と粘土の中間の大きさをもつ土壌堆積物 なのかそれとも 「ローム」 砂と粘土、シルトがある重量比で混ぜ合わさった土壌 なのか硬く泥岩の雰囲気もある。
昭和18年代まで付近には「採鉱」と呼ばれる集落があり、
鉄工場、6戸建長屋10数棟、単身者用三浦飯場と呼ばれる建物があったようだ。 汚泥


滝口の上流には神秘的なブルーの池がある。
恐らくここが通洞坑の成れの果てだ。
自ずから吐き出す鉱水で埋没したようだ。 平場


池の脇にはそこに注ぎ込む小川がある。
青い池からの融水も相当量あるが、
複雑な流れのようだ。 鉱水


くねる小川を上流に追うと、
そこは地面の底から湧き出す鉱水の泉だった。
水温は16.5℃の冷泉だ。 湧水


通洞坑と思われる付近には、
積出設備のようなコンクリート遺構もある。
かつての鉱山設備の要衝であったようだ。 鉱山の沢


アンカーボルトの残る廃祉。
資料によると上下各坑道間は15m〜30m、
必要に応じて中間坑道を設けたとある。 アンカーボルト


徳星6坑、徳星5坑及び戊辰1坑へ向けての登攀だ。
坑道内での採鉱は 「上向き階段法」 上向きに掘り進め切羽面が階段状になる採掘法 が用いられ、
両脇の岩盤が比較的強固なため、支柱は必要としなかった。 廃道


通洞坑付近から標高約45m登った徳星6坑付近。
そこだけ植生の無い平場があり沼地がある。
恐らく埋没した坑口のようだ。 兀山


戊辰1坑方面へ更に登るが、
藪に覆われた完全廃道だ。
このままピークまでの登攀は無理そうだ。 溶岩


徳星5坑近辺には輸車路のような路が残る。
残念ながら坑口の発見には至らず、
標高657m、ここで撤退する。 徳星5坑



落合(おちあい)とは一つ所で出合うことであり、
例えば二つの川の流れが一つに出あう合流地点のことだ。
鉱脈に例えればそれらが複数交わる地点となる。 青い池


慶長4年(1599)に秋田県鹿角市の尾去沢鉱山において、
南部藩藩主 南部利直が国境見分のために派遣した南部十左衛門が金鉱を発見、
奉行となり開坑したのが尾去沢鉱山の始まりと言われる。 登攀


鉱山の発見により、山中の寒村が一夜にしてエルドラドと化し、
南部藩躍進の後ろ盾となったことから、
『利直』の名前を転用し、鉱脈を『直利』大鉱脈を『大直利』と呼ぶようになった。 ズリ山
(足尾銅山起因等諸説あります)





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