徳星鉱山跡  探検: 北の細道 狩布鉱山

徳星鉱山 坑口群、泥濘の飛泉





 盛岡藩は現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を統治した藩で、
慶長時代から明治維新の廃藩置県までの期間、 南部一族が藩主だったために南部藩とも呼ばれた。

盛岡城下町の整備や直線的な遠野街道の建設など、 現在の岩手県周辺の礎を築いたその推進力は、
鉱山開発による財政安定に起因したと言われる。
盛岡城を築城した南部藩27代当主、南部利直は南部藩初代藩主となり、
鹿角の白根金山をはじめ、周辺の鉱山開発に非常に積極的であった。

特に花巻市大迫町付近では、22か所の金山を開発、
1300年の歴史を誇る鹿角市の尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)においては、
南部藩が派遣した金山奉行が大量の鉱脈を発見した。


尾去沢鉱山
尾去沢鉱山 写真提供は chisa_ruins様

鉱山採掘において富鉱帯の存在状況を確認せずに採掘を進めてしまい、
莫大な資金と労力を費やし、結果的に富鉱帯に着鉱することなく、
採掘中止そして廃山となる鉱山も少なくない。

古来から富鉱帯の鉱脈ことを『直利』(なおり)と呼び、
かつては山相からこの『直利』を演繹し、鉱脈の発見に至ったという。
伝承によると小高い平地または傾斜地の底に『直利』は存在するとされ、
「走向」(そうこう)傾斜している地層面と水平面が交わってできる磁北に対しての直線の方向 の異なる複数群の枝脈が交差する鉱脈を『落合直利』と呼び、
ここは特別の富鉱部としてその発見が望まれる。


徳星鉱山 製錬所については 以前にレポートしている。
今回は精錬所から更に丸山沢(通称鉱山の沢)を約500m進んだ通洞坑の探索だ。
通洞坑から更に丸山山頂(823.7m)にかけての700m間には
かつて稼行した坑道が数多く存在したはずだ。

地形図で見ると精錬所は標高475m付近、
そこから通洞坑が580m、徳星一坑に至っては780mと、
付近の勾配から一坑までの到達は困難だと推論したものの、
鉱床図にある12か所の坑口を追って道なき山中に入る。


滝・鉱泉・汚泥ダム・・・





鉱泉
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