鉱区ラッシュ


常呂町は北海道北東部、網走管内常呂川河口西岸。
地名はアイヌ語『トーコロ』、
沼・湖水のあるところを語源とする。 常呂


日吉市街から1.3q南西の谷沿いに入る。
地形図上では道は記載されていないが、
実際には通行止めの林道が存在する。 日吉


蟹沢と呼ばれる沢の右岸には、
エゾシカの毛と骨が大量に落ちている。
恐らくハンターによるものだと思われる。 鹿


4月下旬はまだ北斜面に残雪がある。
大正5年の『常呂村状勢一斑』によると、将来の交通機関完備に伴い、
経営者を見るべくとその将来性を提唱していた。 残雪


奥山鉱床の中心部に向けて廃道を登る。
昭和11年の東湧網線の開通と軍需による鉄鉱石の需要増により、
鉱区は本格的な開発が進む。 奥山七号坑


奥山七号坑を目指す。
昭和18年に常呂鉱山 が操業を開始した後、
『常呂鉄道組合』による常呂〜手師学22qの軌道敷設が計画されるがこれは頓挫する。 探索


キタキツネの歯だろうか。
当時、常呂・国力・北見東亜・報国と含マンガン赤鉄鉱の鉱山が相次いで開坑する。
品位はマンガン10%、鉄鋼40%で採掘は各鉱露天掘りであった。 歯


山中に鋳鋼の部材が朽ちている。
開坑ラッシュは戦時下の増産体制を後ろ盾としたもので、
終戦後、状況は一転する。 鋳鋼



その斜面上には鋼管とぽっかり開いた坑口だ。
これは奥山七号坑のようだ。
相当な傾斜上に存在する。 坑口


坑口は下部へ続いている。
終戦後の鉱区は、需要減と運送コスト増から、
北見東亜・報国鉱山の本格操業を見ないままの閉山と相成る。 坑口


坑道は水没し、支保工も確認できる。
常呂鉱山は昭和22年、年産3万t、従業員390名と国力鉱山より規模が大きかったが、
昭和23年に運送コストによる採算性の問題で閉山を迎える。 坑道


坑道内の水位は相当に深い。
管内鉱山が淘汰された中、国力鉱山のみはその鉱業所の資金力と
辛うじての便宜な輸送によりその後も隆盛を続ける。 坑道内部


再び蟹沢まで下り遡上する。
左岸が前山鉱床、上流が蟹沢鉱床だ。
昭和23年度の『常呂村勢概況』による生産額を見てみよう。 蟹沢


標高50m附近からは大荒れの廃道となる。
村内産額は農産・水産がそれぞれ全体の33%、工産が14%、
鉱産がその15%を占め、いかに鉱山の役割が大きかったかを物語っている。 廃道


沢沿いに大きなRC製の遺構が現れた。
鉱床図から追うとそれは蟹沢鉱床のポンプ室の廃祉だ。
昭和25年からは更に企業化が進み、生産体制の拡充が図られる。 ポンプ室


水門があり川の水をポンプで鉱区へ揚水していたのだろう。
ネックとなっていた輸送問題は、昭和27年に国鉄湧網線の全通に伴い、
共立駅を積出駅とすることで増産体制に対応できることとなった。 水門


当時は簡易なダムであったようだが現在はその機能は無い。
3万t〜4.5万t/年を維持していた生産量だが、昭和29年のみ2.5万tを下回る。
29年は海外鉱石の輸入増に伴い、2,000t/月の生産制限が発布されたからだ。 ダム


更に蟹沢鉱床を目指して登坂する。
昭和31年からの4万t超/年の生産量は、
納入先である室蘭富士製鉄所(現新日鉄)からの資金援助の影響が大きい。 蟹沢鉱床


蟹沢鉱床上部で如何にもの人工的な切通しが存在する。
再び坑口、蟹沢南坑に期待が膨らむ。
更に登坂して周囲をくまなく歩く。 蟹沢鉱床


やがて岩の裂け目のような坑口に到達した。
恐らく蟹沢南坑。
付近から軌道の敷設があったようだが・・・。 蟹沢鉱床


坑口は激しく崩れており、
内部には入れない。
本坑が埋没し、上部が崩れたようだ。 蟹沢南坑


付近には植生の少ないズリ山のような一角もある。
明らかに人工的な部分だ。
下部に向けての軌道敷を追ってみよう。 蟹沢六号坑


すこし下ると切通しかスイッチバックのような場所がある。
仁倉柴山 などを含む常呂町全体の鉱山鉱区は1万6.337haにも及び、
これは常呂町面積の実に57%にも及ぶ。 軌道


平場にはレールの遺構がある。
6s級のか細いもので、
鉱石の搬出軌道が存在していたようだ。 軌道


付近には一斗缶や金属部品も散在している。
ここは建屋もあったのかもしれない。
輸入鉱石の値下がりと高品位の影響が出てきたのは昭和37年以降である。 平場


太いワイヤーが斜面を跨いでいる。
簡易な索道があったようだ。
これだけの斜面に資材を搬入するのも苦労だったと思われる。 ワイヤー


斜面に苔むしたレールがある。
産業遺産としての確かな痕跡だ。
国力鉱山が閉山したのは昭和39年10月、その街への影響は大きかった。 レール


斜面にはズリが重なる。
最盛期の昭和35年には鉱山関係者が92戸404人を数え、
これは常呂の人口の4%に達し、79戸が鉱山内に暮らしていた。 ズリ山


ズリ山付近には鋼板製の部材も残る。
当時の鉱業の年間産額は2億3,500万円。
これは常呂町全生産額の14.8%を占める。 鋼板


これはベアリングを使用しないブッシュタイプの滑り軸受だ。
当時の鉱業所の一般職員だけで190名にのぼる。
これだけのおおきなウエイトを占める鉱山の閉山はその影響も大きい。 軸受


廃坑にエゾシカの脚が残る。
閉山は児童の減少、市街地商店街の購買力、運送サービス業への大きな損失を招き、
ひいては離農や人口減少の引き金となってしまった。 鹿










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