開花前の流動製錬


大別苅峠の南側、断崖上の海岸線。
橋梁が連続し駐車帯があるが諸施設は何もない。
5月の日本海は珍しく凪で、淡いブルーの海は非常に静かだ。 雄別


海岸線までの標高差は50m以上、
付近で下降できる個所は2か所程度。
帰路の登攀も考慮し、よくよく注意して下る。 崖


直線距離140mで54mの降下。
逆tan54m÷140mで角度は約21°。
道は無く、雨水が流れたガリーの爪痕がある。 ガリー


しばしの時間をかけ、海岸線まで下降した。
そこは人工的な痕跡があり、
整然と並んだ木材や平場がある。 日本海


付近に残る廃村の風景。
村の建物はすでに無いが、植樹された樹木や、
如何にも建物があった痕跡はある。 廃村


付近には生活の痕跡が色濃く残る。
石垣や畑の跡、陶器やビン類が散乱している。
昭和46年まで、ここには暮らしがあったのだ。 陶器


村の南部には平屋の大きな建屋がある。 歩古丹小学校・増毛中学校歩古丹分校跡である。
明治25年(1892)公立岩尾簡易小学校として創立。 学校


廃校の損壊は激しい。
昭和12年には歩古丹尋常小学校となり、
歩古丹水産青年学校を併設した。 学校跡



屋根は抜け落ち、RC製の壁が絶え間ない潮風にさらされている。
昭和13年の在校生数13名がピークで、
昭和41年在籍数3名ながら学校給食が開始された。 廃校


教室からは海岸線を望む。
昭和46年3月には地域住民の転居により、
在校児童がゼロとなり閉校となる。 海岸


集落付近には金属製の機器も残る。
これは手動の巻上装置のようだ。
ラチェット式の手動ウインチのようで漁船を陸揚げする際に使用したものだろう。 巻上機


日本海を望む海岸線に到達した。
旧い地形図では更に北部にも集落があったようだ。
鉱山跡を目指して浜を進む。 海岸線


海岸線に沿って歩くと石垣などが残存している。
人気のない海岸線だが、
かつては漁村として賑わっていたのだ。 石垣


集落近くには木製電柱も残る。
旧地形図ではマッカ岬の北部にも
建物が記載されている。 電柱


ここからは海岸を背に登坂する。
やはり石垣や集落の平場が続く。
前方の山並みは露天鉱床かもしれない。 登攀


付近には鋼製の水瓶が残る、
地形柄、各戸では水の確保が重要だったと推察される。
当時の生活の痕跡が垣間見れるのはありがたい。 水瓶


沢を挟んだ対岸には鉱床のような一角がある。
阿寒、そして 押野 といい
硫黄鉱山は鉱害による地元との軋轢が発生する。 鉱床


傾斜が厳しくなった斜面には、
階段状に石垣が続く。
当時はどういった暮らしだったのか空想が膨らむ。 階段状


更に登坂した傾斜地に煉瓦製の遺構がある。
直方体のような珍しい形状だ。
これは硫黄製錬に関わる痕跡だ。 煉瓦


これは恐らく流動炉の一部で、
1,400℃に高めた熱風を利用して
鉱石から硫黄を抽出する流動製錬の諸設備かもしれない。 流動製錬


昭和27年に千代田鉱業という企業が介入し、
発見された硫黄鉱床の採掘製錬を予定したが、
地元ニシン漁に悪影響が懸念されるに至った。 熱風炉



水利に関する施設に大木の根が絡む。
村では誓約付きの稼働を認めた矢先、
硫黄炭価の下落により、採算確認後の稼働予定となった。 水利


付近には崩れた煉瓦の遺構もある。
熱風炉では温風が渦流となり、鉱石中の水分そして硫黄分を蒸発させる。
発生した焼滓ダストはコンデンサー(沈殿缶)を通り硫黄分を濃縮分離する。 煉瓦


カスケード状の石垣施設が残る。
試掘状態から採掘に至らなかった鉱山跡。
村もニシンも、そして鉱山も寂しい状態となってしまった。 石垣



今回は 日本の過疎地様より多数の情報を提供いただきました。
この場をお借りしてお礼申し上げます。
ありがとうございました。






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流動製錬
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