八年越しの大盛奉還



森町は渡島管内中央部にある人口16,000人の街で、
北海道内で唯一「ちょう」ではなく「まち」と呼ぶ自治体である。
毎年ゴールデンウイークにはさくら祭りが開催、花火や歌謡ショーもある盛況な祭りだ。 桜並木


市街地から鳥崎川に沿って登る。
この道々は冬季通行止め期間が長く、注意が必要だ。
「八景」と呼ばれる景勝地が随所にある。 鳥崎川


紅葉の名所でもある駒ケ岳ダムは
1970年着工1984年竣工の重力式コンクリートダムで、
「緑とロックのひろば」という公園が併設されている。 駒ケ岳ダム


ダム以降は冬季閉鎖区間となり、
ここから約2.5qの徒歩となる。
クマの出没に十分留意しての登攀となる。 徒歩


鉱山名と同様の『大盛橋』を渡る。
冬季閉鎖終了時は初夏となり、恐らく激藪により現地到達は困難となる。
奇しくも冬季閉鎖期間のアクセスが必要となる。 大盛橋


鳥崎川は清流で、雪解けによる増水でも水は濁っていない。
付近には大盛鉱山と別に39名の鉱夫により稼行した、
『森鉱山』の記述も資料にはある。 鳥崎川


雪解けの季節と言ってもご覧の激藪だ。
推論した標高290mに向けて道なき道を登る。
沢も古道もない崖だ。 藪漕ぎ


ここからはGPSを駆使しての登攀となる。
等高線の緩い傾斜を使い、
遺跡を確認しながら廃道を登る。 GPS


そして散々藪漕ぎを行った結果、到達した第一の遺構は石垣。
これは恐らく、昭和14年〜16年まで稼行した第一青化精錬所の廃祉だ。
小さな石垣のみが往時を語る。 石垣


付近は道の痕跡もない、笹薮に阻まれる斜面でしかない。
青化製錬は金銀鉱を粉砕、摩砕後、泥鉱を青化(シアン化)液中で撹拌浸出する。
青化液は通常0.1〜0.3%の青化ソーダ液(シアン化ナトリウム)と言われる毒物である。 廃道


再び笹薮の彼方に人工物の出現だ。
濃密層の浸出液で撹拌沈静、上澄みの金含有貴液から真空中で亜鉛を投入する。
亜鉛は金銀と置換して溶け、金銀が沈殿する。 マウスon 



これも人工の石垣で、第一精錬所の遺構に違いない。
最後の工程は沈殿物に重曹・ホウ砂などの溶剤を加えてるつぼで溶解、粗金銀を抽出する。
青化液は回収されるが、万が一流出すれば公害問題となる。 精錬所


さらに東方に向かい藪の海を泳ぐ。
大盛鉱山における従業員の推移は昭和9年に42名だったものが、翌年には70名となり、
森鉱山の吸収や精錬事業の発展により昭和16年には約600名に達した。 笹薮


足元が辛うじての廃道の様相となった途端、RC造の遺構である。
従業員数の推移に従い、鉱山街が形成されるに至り、
ここから上流2q間に3か所の市街があったという。 遺構


先ほどの石垣と異なりRC造となった遺構は恐らく後半の第二精錬所の近隣だと思われる。
形成された市街地は最下流のここ、『精錬所』と中間の『学校前』、
2q最上流の『元山』と呼ばれた。 精錬所


そして目の前に現れたのは巨大石垣。
昭和16年11月竣工の第二精錬所に到達だ。
推論の標高290m附近、想像以上の体躯だ。 選炭場




5m以上ある石垣が1~2段目となる。
750t/日に拡張された精錬能力に合わせて、
元山からの索道も半t積みから1t積みバケットに改築された。 一二段


1段目南方には装置の基台らしき構造物もある。
この750t/日という精錬能力は昭和17年当時、
鴻之舞の3,000t/日 静狩の1,200t/日に次ぎ 千歳と並んで道内第三位に位置する巨大なものだった。 二段目

二段目


1段目は幅が150m近くもあり、端部には水槽がある。
全国的に見ても串木野1,600t/日、鯛生1,200t/日に匹敵する処理能力を有していたこととなる。
皮肉にもこのような処理能力の拡張は低品位鉱の大量処理の必要悪からだった。 水槽


青化処理に付随する化学反応処理の棟が残存する。
産金量としては第一精錬所完成の昭和14年に対前年比約40倍という飛躍的増大があり、
翌年には更に前年比2倍以上の約240sという記録を残している。 水槽


2段目から3段目の石垣を望む。
当時の膨大な産金量の結果は金増産政策に乗っ取って
3.5g/tという低品位鉱を大量処理した結果である。 石垣




3段目は穴の連続する遺構である。
昭和16年には鉱石量が前年対比で増加しているにも関わらず、産金量は大きく減少している。
これは品位が2.13g/tへと更に低下したことに起因する。 3段目


4段目も下部同様に7m程度の石垣がそびえ立つ。
精錬所完成以前の昭和9年の新聞による関連記事では『大成鉱山』との誤記があり、
後日の記事訂正においても『おおもりこうざん』とのルビを振るという追加の誤記があったようだ。 石垣 


5段目から4段目を見下ろすとその高さに圧倒される。
ここ『精錬所』と呼ばれた区域には、用度係建物や商店、住宅棟があったようだ。
付近は200名が暮らす市街地となっていた。 石垣  


5段目は構造物が最も多い。
森町史に残る唯一の当時の精錬所写真。
この写真を見てから、到達そして実際に目にするまで8年の歳月を要した。 マウスon 昭和17年当時




アンカーボルトの残る架台。
多くの従業員、労働者を容した本鉱山は子弟の教育機関として、
昭和11年に児童数22人の森尋常高等小学校大盛特別教授場が開校した。 アンカー  


選鉱所は斜面を上部から下部へ重力を利用して処理する典型的なカスケードシステムだ。
鉱山の繁栄と比例して児童数は増加の一途を辿り、霞台尋常高等小学校として独立、
昭和15年には教員3名、児童数110名、二階建て四教室の新校舎となる。 カスケード


6段目に立つ。更に石垣は続く。
昭和16年4月、全国一斉学制改革に伴い、校名は霞台国民学校と改称した。
この時の児童数223名、6学級に及んだ。 遺構


7段目からはもう下部層が目視できない。
国の金鉱山整理統合政策以降、昭和17年11月から新校舎取り壊し、
翌年4月、児童数35名、7月には15名をもって廃校となる。 7段目


8段目には数少ない金属の遺構、ワイヤーが残存する。
昭和14年の精錬所建設後、少なくとも2回の鉱害が発生しており、
青酸カリの島崎川への流出により、魚類の大量死が報告されている。 ワイヤ  


9段目に残る巨大水槽。
鉱害発生後、地元漁業組合は直接鉱山に出向き、独自の原因調査、
青酸カリ貯蔵タンクの配管装置不備を指摘している。 水槽




最上段の10段目に登坂する。
ここから2q上流の『元山』には鉱山事務所と小頭以上用の一戸建て住宅、
鉱員用四戸建て〜八戸建て住居、飯場等が立ち並んでいた。 10段目


10段目の平場から上には何もなく、アンカーのようなRC構造物だけが残る。
ここ精錬所と上流の元山中間地点の『学校前』は言わば中心街で、
小学校・診療所・派出所・郵便局・浴場等が密集していた。 最上段


最盛期の人口は最上流『元山』が700〜800名、
『学校前』が1,200〜1,300名、『精錬所』が200〜300名と、
これだけの街が忽然と消えたにもかかわらず、精錬所だけはその壮大な廃祉を残す。 下部







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水槽
水槽

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