黒い足跡、白い汽車



音別町は釧路管内最西端。
「日本一明るい街づくり」を目指し、町内の道路に町花(エゾリンドウ)をデザインした
199の街路灯が設置されている。 朝日


旧尺別市街地に入ってすぐ、緑町一区の廃ガソリンスタンド跡である。
「危険物給油取扱所」の銘板がいまだ残る。
先に栄町と呼ばれた丘の上の炭住街を確認しよう。 ガソリンスタンド


市街地の南西に残る炭住跡である。
2階建て2軒のアパートが牧場の一角にひっそりと残存している。
内部も確認してみよう。 炭住


片方の炭住は劣化激しく、
周囲を覆うコンクリートが脱落している。 浦幌炭鉱の炭住と酷似している。
かつては集会所や浴場もあったようだが・・・。 旧炭住


内部は積年の風雪の影響か、
かなり風化し、床もない状態だ。
生活の痕跡も皆無だ。 旧炭住


もう一方は比較的新しいようで、
壁の脱落も少ない。
しかし、すでに巨木が育っている。 新炭住


かつては多くの炭住がここに並んでいたようだが、
今はこの2軒のみの残存だ。
牧場の片隅にひっそりと残る。 外部


尺別川に沿って遡ると、緑町二区付近に浴場の廃墟がある。
一度に数十人が入れる浴場は、丸い浴槽が2個並んでいる。
蛇口や湯留めなどその他の設備は何も残っていない。 坑口浴場


旭町付近の尺別川左岸の土手には、腐食した鋼管が抜き出ている。
炭鉱は多くの場合24時間営業で、1番方・2番方・3番方の3交代だ。
安全灯室でランプ、 「繰込場」くりこみば=入出坑を管理する「鑑札」かんさつ=鑑札番号の記された木札 を受け取る。 パイプ


繰込場付近には何も残っていない。
鉱員は入坑時に受け取った鑑札を出庫時に返却、それをもって操業の管理を行った。
また 「捜検」そうけん=爆発事故を防ぐため火源の所持をチェック にてうっかり耳に挟んだタバコを注意される場合もあったという。 繰込場


機電工場は尺別川を挟んだ右岸だ。
昭和17年(1942)完成の尺別炭鉱総合選炭場だ。
東洋屈指と言われた選炭場は大幅な 「出炭量」S15 20万t/年ーS18 38.3万t/年 の増加に貢献する。 渡渉 



ここから選炭場跡へ向かうためには橋が無く、
渡渉の必要がある。
400m程上流へ行けば、橋がある。 選炭場


倒壊した尺別炭山駅跡である。
当初 「狭軌」レイル幅が狭い(762mm)、JRは1067mm で開業した石炭輸送軌道11.7kmは貨車への積換え、
索道経由の浦幌炭鉱 からの原炭搬出等、昭和20年当時、輸送能力は限界となる。 尺別炭山駅跡


在りし日の尺別炭山駅である。
そこでレール幅を広軌し、国鉄貨車が直通乗入可能となったのが昭和25年(1942)である。
「尺別鉄道」〜昭和45年4月16日廃止 は専鉄と呼ばれ、貨車と客車を連結した『混合列車』であり、釧路の霧が入る谷間を走ったという。 尺別炭山駅


巨大な選炭施設跡。
ジンマスクリーンと呼ばれたふるいを、
通らない大きさの原炭は、人の手によって選炭された。 選炭場




付近のベルト運炭設備。
大きすぎる原炭は『割方』と呼ばれる鉱員がハンマーで割る。
そしてコンベヤーに載せられ手作業でズリを除去する。 選炭場




選炭場は斜面にあり、上部から原炭を落とす重力を利用したカスケードシステムであった。
ズリの手選は主に女性が活躍した。より分けられた原炭は
そのまま塊炭として出荷するか、粉砕後水選機に掛けられる。 選炭施設


積込施設には巨大な氷柱ができている。
坑内の発破作業で使用された導線が原炭に混入している場合があり、白色と赤色のケーブルを見つけると、
それは『脚線拾い』と呼ばれ、廃品回収の小遣い稼ぎとなった。 ホッパー




積込施設内部から俯瞰する。
ピークの昭和22年、従業員数は1,828名に及び、
中心駅の新尺別駅の乗降客数は1日2,000人を超えた。 積込ビン


索道の動力プーリーが残る。
石炭貨車は根室本線に直通、乗客は社尺別駅で降車し、
徒歩5分の国鉄尺別駅への乗換えが必要だった。 プーリー


ベルトコンベヤーの斜坑内部である。
新尺別着11時頃の列車は釧路からの「ガンガン部隊」と呼ばれる行商人が多く、
新鮮な魚介類の販売、また商店の仕入れや買い物代行の『便利屋』も多かったらしい。 隧道


選炭所ピーク付近の遺構。
6月には尺別炭鉱あげての行事『野遊会』、別名スズラン狩りが催された。
尺別海岸にて宝探しに釣り、宴会とすし詰め状態の臨時列車が増発された。 遺構




原炭を保管した未選ビンの廃祉が頂上付近に残る。
尺別鉄道の運炭列車の音は農家の時計代わりであり、収穫した農産物を線路わきに保管、
専用貨車に積込みそれは尺別炭鉱購買会へと納入された。 未選ビン 


製錬所のピークから見下ろすと、遠くにシックナーが見える。
ここでは 「重液選別」石炭(比重1.4)と岩石(比重2.5)の中間比重の液を作り、 その比重差をもって選別 は行われていなったので、
このシックナーは選炭水の精製に使用されたようだ。 マウスon 昭和32年 


転車台とも見えるが、当時の画像ではレイルが側部を通過しており、満水の状態はやはりシックナー跡のようだ。
シックナーにてバウムジグ選炭に使用した水を精製し、微粉炭を回収、
豆炭として鉱員各家庭の暖房用燃料となった。 シックナー

2021.1.9追記 1961年の鉱床図より本施設は『用水池』と確認されました。

付近には電気ストーブのような製品が朽ちている。
昭和40年(1965)、道内の暖房は石炭ストーブが主流。生産の1/3が暖房用と言われた。
出炭不良の昭和47年、生命にかかわる道内優先の陳情書が特約店からメーカーに出されたという。 マウスon ロゴ


付近には廃墟が散らばる。
昭和37年(1962)の石炭鉱業調査団の答申に基づく 「スクラップアンドビルド政策」能率の悪い炭鉱の閉山促進、残る炭鉱の合理化機械化 は掘進や採炭の能率向上を即した上、余剰のズリの発生を意味し、
「切羽」坑道掘削の最深先端部 の深部・奥部化による運搬能力の機械化を意味する。 廃墟


運搬設備の廃墟が残存する。
空の「炭車」石炭を積込むトロッコ「空函」くうかん 1.6立米 と呼ばれ、 「トロリー」電気機関車 に連結し、いかに効率よく坑内に向かうか、
「操車の神様」と呼ばれる大先山(配置段取りをする鉱員)がいた。 遺構


そして到達したのは尺浦隧道(しゃくほずいどう)坑口である。
昭和17年(1942)、浦幌炭鉱と の間にそれまでの索道に代わり延長6kmの本坑が開通した。
浦幌採掘の原炭は尺別で選炭、その石炭だけでなく人や物資の往来にも尺浦隧道は利用された。
「山の中の炭鉱」であった浦幌炭鉱は選炭を行わず、選炭水で川が汚染されることは無かったという。 尺浦隧道


隧道内はすぐに閉鎖されている。人車には一車両8〜10人が乗れ、片道45分、
走行中は騒音で何も聞こえない。隧道内に明かりは無く、
車両の電球のみで向かいに座る人の顔すら見えなかったらしい。 尺浦隧道  


明かりの差し込む坑口付近。
浦幌炭鉱は昭和29年(1953)閉山。
その後、尺浦隧道を通る通勤電車で尺別に勤務した方もいたようだ。 坑口


更に上流域にも通気に関する遺構が残る。
炭鉱では休みなく坑外の『主要扇風機』が毎分数千〜一万数千立米もの空気を坑内から吸出し通気を確保する。
そのメインとなる目的は湧出するメタンガスの希釈と排出だ。 通気


到達したのは昭和36年掘削を開始したベルト斜坑坑口である。
原炭の搬出を目的とした延長1,927m、斜度16度の坑道である。
もちろん現在は密閉され内部はうかがい知れない。 ベルト斜坑


煉瓦製の遺構はコークス炉かボイラー室のようだ。
コークスは炭素を含む石炭の多孔質物質で発熱量が高く、製鉄時の酸化を防ぐ効果などがある。
石炭を炉の中で1,200℃ 20時間蒸し焼きにすることで完成する。 コークス炉


更に上流の人工的な土留めの超えた先には小さな遺構が見える。
輪車路からは見えない位置に、囲まれて存在する火薬庫跡だ。
古地図からの推論の位置であったがピンポイントでの到達となった。 火薬庫


小さな火薬庫は外部こそ原型を留めているが、
内部の荒廃は著しい。トレパナーという英国製の採炭機械が導入されるまで、
発破による採掘が一般的だった。 火薬庫


火薬庫はT字型の土留めを挟んで2か所存在する。
その2か所を連絡するのがこの隧道だ。重厚な扉は既に無い。
トレパナーは削る・切る・崩す・積込むの1台4役の採炭機械だ。 火薬庫


もう一方の火薬庫は少し大きな建屋で、
発破を追加工する火工所であった可能性もある。
採炭技術はやがてトレパナー、そしてドラムカッターと発破不要を目論んでいく。 マウスon 内部


そして残るヒグマの黒い足跡だ。
最近では無いようだが、悠々と闊歩したようだ。
安全に配慮し、ここで退散だ。 ヒグマ


これは昭和44年晩秋に撮影された「ホワイトフリーザー」と呼ばれた家庭用冷蔵庫のCM撮影風景だ。
同じ釧路炭田の炭鉱鉄道の機関車をなんと白く塗装しての撮影だ。
しかも撮影後、しばしこのままの姿で通勤列車として走行したという。 ヒグマ







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