水力採掘の見果てぬ夢



白糠町はアイヌ語のシラリ(磯)、カ(上)または、
シラリイカで波が磯を超えてしぶきが立つ場所等の語源からきているとされる。
特に白糠漁港周辺にこれら岩礁地帯が広がる。 庶路


庶路の街から庶路川に沿って遡ると、
危ないつり橋がある。
街から炭鉱跡までは直線で6.5km程度である。 吊り橋跡


中庶路の街から道々脇に本岐炭鉱跡はある。 遺構がすぐに見え、それは選炭施設のもののようだ。
奥へ進んでみよう。 中庶路


最も入口に近い設備は浮選機に関する建物のようだ。
当初の選炭は 炭鉱専用運炭軌道を用いて庶路炭鉱側で施工していた。
これら選炭設備は昭和37年10月以降に完成したものだ。 浮選機


脇にはシックナーが残存している。
これは特粉炭をろ過したり、
浮選機用の溶液を再利用するための装置だろう。 シックナー


これは再選機からの余剰特粉炭を貯炭した、
特粉炭ビンのようである。
バケットエレベータを用いてこの中に粉化した石炭を貯めたのだ。 特粉炭ビン


特粉炭ビンの脇には階段があり、
上部はかなりの高さだ。
約20mはあるかもしれない。 マウスon 


付近には巨大なボイラー用の煙突が残る。
昭和39年には472名の鉱員が在籍し、労働組合も結成、
特に福利厚生や施設は充実してたという。 マウスon 


ここは再選機の原炭ポケットのようだ。
ローヘッドスクリーンにて粒の大きさを選別した後、
再びそれを繰り返すのだ。 内部


原炭ポケットの下部には、 滴った水滴で大きな氷柱が完成している。
11月下旬、この時期ならではの景色かもしれない。 マウスon つらら


原炭ポケットは幾何学的な造りで、
どこまでも複雑な構造だ。
廃止後約45年でも、その劣化は少ない。 マウスon 


これは秤量器が接続されたズリポケットのようだ。
創業より閉山までの出炭を確認すると、
昭和36年までは庶路坑が本岐坑の3倍程度で推移していた。 秤量器


ここが主選機のようだ。
再選用、ズリ、中塊等に選別したのだ。
かなり巨大な設備で築別炭鉱美唄炭鉱に匹敵するかもしれない。 マウスon 



選炭工場の2階に登ってみる。
ここも幾何学的で、
油倉庫の表示等も残っている。 マウスon 


奥には巨大な積込ビンが見える。
出炭量が大きく変化したのは、昭和38年以降で
庶路鉱業所の管轄を離れ、水力採掘を採用したことに起因する。 積込ビン


内部の貨車への積込施設である。
水力採掘が功を奏し、昭和38年以降も20万t/年以上を確保し、
庶路閉山後も存続できたのは、この効率の良さが有効だったようだ。 ホッパー


さらに奥には封鎖された斜坑が残る。
出炭量は確保されていたものの、
石炭審議会の答申は厳しいものだった。 斜坑


本岐一坑と呼ばれた斜坑口。
昭和40年代も出炭量こそは上昇気配であったが、
昭和44年以降、関係者の陳情もむなしく閉山へ加速する。 マウスon 昭和40年


坑口が点在する。
炭鉱最盛期の白糠町の人口は昭和37年で2万2589人であった。
庶路・本岐・上茶路とすべての炭鉱が閉山するとその人口は1万5482人まで減少した。 マウスon


1本のベルト斜坑内部である。
ベルト、そしてアイドラーも残る。
まだ稼働してもおかしくない雰囲気だ。 ベルト斜坑


付近には施設跡が点在する。
「産炭地街ごとの人口落ち込み」昭和35年3月と昭和51年3月の比較 としては、白糠町がこれでも全道第24位。
釧路管内では阿寒町が全道3位、音別町の6374人減が全道5位にあたるという。 マウスon


旧市街地を目指して、木の墓場を進む。
白糠町の人口減が食い止められたのは、
やはり炭鉱撤退後の企業誘致の努力の結果だと言える。 廃道


市街地付近の廃道を進む。
付近には興親寮と呼ばれた寄宿舎や、
信和会館と呼ばれる300名収容の集会所もあったらしい。 廃道


社宅跡、寄宿舎跡を進む。
明治鉱業鰍ェ白糠炭田に進出した企図は日中戦争の軍需景気の影響を後ろ盾に、
釧路炭田の財閥系炭鉱に対して、橋頭保を築く意図があったのかもしれない。 マウスon 







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