雄武威鉱山跡  探検: 北の細道 雄武威鉱山

雄武威鉱山で辛うじての痕跡を見る



北海道雄武町

   大正10年から昭和10年にかけて、北隆鉱山鴻之舞鉱山に代表される網走地方の産金額は、
全道比56%から63%を占め、それでもなおまだ無尽蔵の金鉱脈が眠っていると考えられていた。

勃発した金鉱熱により、金銀銅の産額は毎年増加の一途をたどるが、
その上での金銀の高騰、政府による産金奨励策に伴い他鉱業の追従を許さぬ発展ぶりで、
特に昭和12年の中華事変は更に金の増産に拍車をかける。

事変発生から二年目、昭和13年には 「産業報国運動」鉱山・工場等を総括し戦時下の鉱物の増産を計る統制運動 により鉱山景気と増産奨励の波に乗り、
石炭・金銀その他各種鉱物の試掘出願が札幌鉱山監督署に殺到する。

その反面、戦時の地下資源活用の合理化をはかるために、
重要鉱物増産法に基づいて不合理鉱区の整理分配も促進されるなど、
戦時統制強化の兆しも垣間見えることとなる。


雄武威鉱山は明治32年ころからの枝幸砂金の盛名を背景に、
それら砂金の出る渓流上流には必ず、豊富な金鉱脈が眠っているであろうと、
幾多の試掘を経て、大正10年に有望な鉱脈に到達し14年から採掘が開始された。

当初鉱石は秋田県の小坂鉱山に船で送り製錬を行った。
その後、50馬力のガスエンジンを設置し、現地で火力発電を行い
掘削にも機械掘りを加えて効率化を計った。

雄武市街との間には鉄索を結び、鉱石の搬出、物資の輸送は一段と便利になった。
このように発展を遂げ、漁業、林業と並んで、重要資源の一角を担った鉱山であったが、
鉱業権、そして乱掘により昭和3年には一旦閉山となる。

昭和8年からは再開されるに至るが、往年の盛況を再現することなく、
昭和16年の太平洋戦争勃発に伴う、 「金山整備令」金の国際的価値が無くなり、戦力に必要な重要鉱物のみを増産する政府奨励 により昭和18年、
付近の大小30の金鉱山とともにその歴史に終止符を打つ。


今回は地質図幅に明確に記載された鉱山であり、
その到達は容易だと想像されたが、実際にはかなりの山中で
しかもその痕跡は皆無に近かった。
産金王国の一端を訪ねてみよう。








山中・産金景気・終焉・・・



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