終戦前後にかけて、先生も、しばしばこの地を訪ねておられる。ここ中国山地の印象は小説「通夜の客」、詩「高原」、「野分」などに見ることが出来る・・・」と当地と井上靖のゆかりが説明されていた。中に入ると、ゆかりの原稿、書籍などが整然と展示されていた。事前に勉強してきたので、ざっと見渡して、外に出た。
  天体の植民地の住人は「遠路お越しいただきありがとうございます。稜線の向こう側はもう岡山県です。あの集落の赤いトタン屋根の家近くに井上先生ご一家が戦火を避けておられました」と遠くで光る集落を指さした。指の先には今年の豊穣を終えた田畑が美しく輝いていた。
  一段下の園地には二つの碑が館を見上げていた。押し寄せる感動を隠して、中国山脈の稜線を見上げるように、背高く設計された文学碑の碑面(ここは中国山脈の稜線 天体の植民地 風雨順時 五穀豊穣 夜毎の星欄干たり 四季を問わず凛々たる秀気渡る)を見る。写真では感じられなかった作者の想いが御影石から伝わってくる。今一つの詩碑には、ふみ夫人の細かな文字で散文詩「ふるさと」が彫られていた。青御影石の碑面は逆光で読み辛かったが、「ふるさとという言葉は好きだ。古里、故里、故郷どれもがいい」で始まり「ああ ふるさとの山河よ、ちちははの国の雲よ 風よ」で閉じられていた。
ここまでの遠い道程を想い、書き写してきた「詩篇・井上靖 天体の植民地を詠うクリック出現など思い起こし、地元の人々の熱意に感動し、胸に迫るものがあった。持参した井上靖の言葉「年齢というものは、元来意味はない。若い生活をしている者は若い。老いた生活をしている者は老いている」を胸に刻み込んで、明るく光る“天体の植民地“と別れた。
  北に山一つ挟んだ、日南町矢戸部落に、松本清張文学碑がある。そこは、松本清張の父・峯太郎の出身地で、その縁で、文学碑が建てられた。山一つだが神福部落の井上文学碑からは10kmと大回りしなければ届かない。途中にある「石霞渓」の紅葉で一休みして、県道・183号線を辿った。
  矢戸郵便局の近くの三叉路のバス停が目印。そこで車を路肩に寄せて、脇の短い石段を登る。小さな園地が開かれ、清張さんが座っていた。自然石に銅板をはめ込み「幼き日 夜ごと父の手枕で 聞きしその故郷 矢戸 いま わが目の前に在り」と清張の筆跡がいた。碑文は、故郷に帰ること出来なかったに関らず、終世この地を愛し続けた父に代わって、この地を訪れた清張の言葉で、その事情を知ると、短い言葉ながら迫るものがあった。
     
        (日南町・井上靖文学碑:同・詩碑と野分の館:日南町松本清張文学碑)


  神々の首都・松江再訪し、出雲大社へ御礼詣り


日南町から、安来市を通り、懐かしい松江に着いた。新松江大橋の袂に、立派な美術館が出来ていた。お昼時なので、美術館のレストランで宍道湖を眺めながら、パスタを頬張った。展示品見学は遠慮して、湖畔の風に吹かれながら、松江の代表的な文学碑を訪ねる。
  再訪した湖畔公園には、小泉八雲文学碑「神々の首都 松江」が健在で、「耳なし芳一」の像が新設されていた。すぐ近くには、生田春月文学碑(藍黒色は 鋸歯状の連山の背と上空とを・・・−小説「面影」一節
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