、山口誓子句碑(鴨群れて浮くことほどの奢りなし)なども秋の優しい光線を浴びていた。
  湖からの心地よい風を味わっていると、晴れた空の一片の黒雲からぽつりと雨粒。慌てて美術館の駐車場に引き返した。車なら雨が降ろうが・・・と寺町に繰り出し、老舗・和菓子屋・風流堂で店の前の山口誓子句碑(世を継ぎて鳴きつづけたる呼子鳥)を見学、折角だから、とおやつを仕込んだ。
  芥川龍之介が「薄暮 雨にぬれて光る大橋の擬宝珠を、灰色を帯びた緑の水の上に望み(松江印象記)」と描いた旧松江大橋や松江城を車窓見学しながら小泉八雲旧居へ。八雲旧居は再訪なので、玄関先の高浜虚子句碑(くはれもす八雲旧居の秋の蚊に)の写真だけ撮って、最後の訪問地・出雲を目指した。
  放映中のNHK朝のドラマ「だんだん」の舞台だけに、来年は観光客が増えるのではないかと話しながら、宍道湖の北岸を走る。雲間から時々銀色の光が湖面を走る。「秋鹿なぎさ公園」で一休み。風流堂で仕入れた菓子を頬張る。茶道と和菓子で名を成す松江だけに、洗練された甘さが爽やかな後味を残して喉を通って行った。
  出雲市遙堪(ようかん)は小説家・阿部知二(*7)が幼い時を過ごした所。その縁で431号線・出雲街道の新道と旧道(天平古道)の分岐点に文学碑「自然の中に美しきものを探り 人間の中に善きものを求める−“出雲の思い出”一節」が建っていた。あわや通り過ぎてしまいそうな、目印とてない、忘れ去られた碑であったが、今回のいしぶみ紀行にはぴったりであった。
  出雲大社の大駐車場に駆け込んだ時には、黒雲から驟雨が襲ってきた。舞楽殿の千家尊福:唱歌「一月一日」(♪年の始めのためしとて♪)碑(*8)を見学。次々に押し寄せる参拝客に交って、山陰紀行が無事に終わりを告げた御礼の参拝をした。目下、式年遷宮中の仮本殿の前で、雨宿りしながら、生野の里から始まった“いしぶみ紀行”を、順を追って辿りなおした。
  宍道湖西端の出雲空港へ。無事を祝って杯を挙げた。総走行距離600km、100基を越した訪碑、450枚の写真。私の「山陰土産」は予想を越える重量となった。JALから、超過料金を請求されるかと心配しながら、飛行機に乗った。
     
   (松江湖畔公園・小泉八雲文学碑:小泉八雲旧居:出雲街道・阿部知二文学碑)
(*5)生田春月(1890-1930):米子生まれ。大正6年、処女詩集『霊魂の秋』を新潮社から刊行。一躍流行詩人となる。社会主義傾倒するも、自身のあり方にも苦悩し、昭和5年、瀬戸内海に投身自殺。米子市内の合同庁舎前に代表作「相寄る魂」一節を刻んだ文学碑が建つ。
(*6)白井喬二:明治22年横浜市に生。両親は共に鳥取県人。明治35年米子市に転入。小学校・から高校までの青春を米子で過ごす。代表作「富士に立つ影」を持つ時代小説作家として名を成す。米子市湊山公園の一角に「生命のともしびとなる文学」と刻んだ文学碑がある。
(*7)阿部知二:明治36年岡山県勝田郡湯郷村中山(現・美作町中山)に生。中学教師であった父の赴任により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、9歳まで在住。東大英文学科卒業。昭和5年、27歳で「日独対抗競技」を発表してデビュー。同年、「主知的文学論」を発表。代表作『冬の宿』。昭和48年永眠。69歳。長男はボードレールの権威・阿部良雄(仏文学者・東京大学名誉教授、)
(*8)お正月にはよく聞かれる唱歌「一月一日」の作詞者は第80代・出雲大社宮司の千家尊福(せんげたかとみ)。貴族院議員、東京などの知事、司法大臣などを歴任した政治家でもある。

p.05へ                      −p.06完−             アルバムへ