近くにある東金九十九里道路駐車場(下り線側)には「光太郎・智恵子記念像」が建てられているが、こんな記念像を作るくらいなら、小さな田村別荘を保存して欲しかった。
「レモン哀歌」詩碑。
この碑は智恵子が永眠した東京都品川区南品川の ゼームス坂病院跡に建っている。昔は、直ぐ近くまでは品川の海が迫っていたそうだが今は人の匂いばかり。JR大井町駅を降り、南東側の商店街を抜けた先の下り坂左側である。2m近い黒御影石の詩碑だから道路からも見える。
「そんなにもあなたはレモンを待っていた」で始まる詩「レモン哀歌」の全節が、自筆原稿を拡大して刻まれた見事な詩碑。何時も花が絶えず、時にはレモンも供えられている。碑を建て、守っている「品川郷土の会」の熱意が伝わってくる碑である。智恵子抄の絶唱ゆえに訪ねる人も多い。
(写真は左から九十九里浜「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑・同療養跡地の歌碑・ゼームス坂「レモン哀歌」)
*智恵子抄には「愛の賛歌」「愛の歓び」「愛の美しさ」といった愛の陽画と「愛の苦しみ」「愛の残酷さ」「愛の困難さ」「愛の悲しみ」といった愛の陰画が並んでいる。多くの人々に読まれてきた詩集の秘密は愛の二面性を見事に描き出している所にあると思う。この詩集は主に光太郎の視点で詠われたもので、智恵子の声は小さい。作家・津村節子は「智恵子飛ぶ」を書いて主に智恵子の声を拾った。そこには光太郎の気付いていない「智恵子抄」があり興味深い。
*この時期の写真は次のアルバムをクリックするとご覧いただけます。「裏磐梯・九十九里浜・彫刻」
私の暗愚小伝 3 −漂えど沈まず−
展開は何時も病魔が先導した。
倉敷市の郊外で、私達は幼年期に経験した田舎暮らしを再開、子供達は初めての蓮華畑や小川で自然の驚きを体験した。家族全員新鮮な日々であったが、またもや病魔がやって来た。結婚以来大病もせず、専ら看護専門であった家内にやって来た。
昭和48年4月、二人は倉敷の病院のベッドで互いの手を紐で結んで大手術の後の痛みに眠れぬ夜を過した。和歌山と東京から二人の母が来て子供達の面倒を見てくれた。
漸く、立ち直ったら、急に東京に呼び戻された。1年半の短い工場勤務はあっという間に終った。
昭和52年。子供達にも故郷を贈るために横浜に新居を求め、長かったデラシネ生活から脱却した。
会社はMD問題の処理と事業の再建の両輪を忙しく廻す中で、専ら事業の再建に関って、事業企画、会社全体の総合企画・・・と仕事は次第に難しさを増した。深夜・午前様の帰宅ばかりで新築の家も亭主不在の日々、会社やホテルに宿泊のことも多かった。義父の永眠、義弟の事業不振、義母を引取り同居・・と私的にも多忙を極めた。
銀婚式を迎えた平成元年、思いもしなかった財務部門の責任者に転属した。会社はMD補償に多額の支出を余儀なくされ、民間金融機関・政府の支援を受けながら命運を繋ぐ時期であった。従って、会社の台所は火の車。身を削る日々に終りは無かった。何時の間にか好きなパリの市民憲章「漂えど沈まず」が合言葉になった。
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