詩「山麓の二人」 

二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野遠くなびいて波うち
芒ぼうぼうと人をうづめる
半ば狂える妻は草をしいて坐し
わたくしの手に重くもたれて
泣きやまぬ童女のように慟哭する
――わたしもうぢき駄目になる
意識を襲う宿命の鬼にさらわれて
のがれる途無き魂との別離
その不可抗の予感
――わたしもうぢき駄目になる
涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
わたくしは黙って妻の姿に見入る
意識の境から最後にふり返って
わたくしに縋る
この妻を取り戻すすべが今の世に無い
わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃として二人をつつむ此の天地と一つとなつた

s.13年の作。魂を二つに引き裂くような慟哭の歌。絶望や悲嘆のほか、何の救いも与えられない絶対の場。過酷な運命と明るい日差しがそこにあった。人の世に生きるとはこうした運命の深淵を覗くこと、そしてそこから蘇生することだと考えさせられる。

写真は二枚共に福島県裏磐梯の五色沼からの裏磐梯山と瑠璃沼。光太郎は精神に異常を来たし始めた智恵子を連れて東北の温泉に療養の旅をした。この地もその一つ。まるで人の世のように磐梯山は見る方角で烈しく変る。
詩「千鳥と遊ぶ智恵子」

人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友達が智恵子の名を呼ぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子に寄って来る。
・・・・
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。


s.12年作。機関車の如く驀進してきた病状の悪化に転地を決意して九十九里浜海岸を選んだ。写真は広い浜辺と詩碑の合成。波打際に座る智恵子の姿が見えれば貴方の「智恵子病」も相当進行しています。
詩「風にのる智恵子」と田村別荘

狂った智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
・・・・
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ



「千鳥と遊ぶ智恵子」「価ひがたき智恵子」との三部作。智恵子の母と妹が住んでいた。田村別荘(写真左側)に智恵子は転地し、光太郎は毎週半日かけて東京から来る。そして二人で海岸の松林や砂浜を散歩。だが、二人の間に通じる言葉は最早失われていた。この別荘は取り壊されて今は無い。敷地跡に光太郎の歌碑がお地蔵様と一緒に草に埋もれている。
「幻の彫刻家」
あれほど彫刻に打ち込み、日本の近代彫刻の創成期を切り開いた光太郎だが、意外と作品は少ない。寡作であった上に、、作品の多くが戦災で焼失してしまったからだ。同じ道を歩んだ弟・豊周は「彫刻家として油が乗り始めた時期に智恵子の病気に遭い、智恵子をなくして制作一途に生きたい時に戦争に遭い、花巻で空白の時代を余儀なくされた。悲劇の連続であった」と回顧している。

借物の写真ではあるが、二点の彫刻をご紹介しよう。
左側はt.6年作の「手」。巨人・光太郎の手の如く大きく逞しい。それが又、真直ぐに天をさして見るものに勇気を与える。
右側がs.6年作の「白文鳥」。s.6年といえば智恵子に精神異常の兆候が見え始めた時期。この作品を包む袱紗には「小鳥らはなにをたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん」という短歌が記されているという。二人の運命の転換点の作品だけに忘れられない彫刻である
荻原守衛「坑夫」

長野・安曇野の「荻原守衛(碌山)」美術館は展示品の素晴しさと蔦の絡まる教会風の建物で評判の高い所です。

あまり知られていませんが、直ぐ隣りの穂高中学校の方も是非訪れてください。こちらは入場無料です。
オープンな門を入ると、玄関前には良く手入れされた芝生か広がります。そこにこの彫刻がさりげなく置かれているのです。彫刻の右手の方には、当校に縁の尾崎喜八「田舎のモーツアルト」の詩碑もあって、日本一贅沢な中学校です。
                               
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