残業で家に帰れなかった朝、母危篤の電話に眠気は吹っ飛んだ。母がくも膜下出血で倒れた。「人様にご迷惑をかけないこと」と生涯言い続けた母は、3日3晩周囲を心配させたが、自らの戒めを守った。平成3年5月のことであった。
   みちのくの金融機関を廻る車中で母への鎮魂歌を書き、二度目の欧州出張では団体に先行して二日間のパリ単独滞在の我侭を通し、ノートルダム大聖堂で薔薇窓の神秘な光を浴びながら母への祈りを捧げた。
                               
                                         詩「てんまり」−クリック拡大−
   余談ながら私の精神の病についても書いておきたい。
   豊中の下宿で、植物的な人生をモットーに生き抜いた堀辰雄が病床で描いた手製の「パリ市街図」に魅せられ、動物的な人生を歩んだ光太郎の詩「雨にうたるるカテドラル」の強烈な洗礼を受けて、パリ症候群の病原菌が私に住み付いた。社会人としての責務を果たすためにすっかり底辺に追いやられていたが、数十年の時を経て眠りを覚ました。
   昭和59年、初めてのパリ訪問はおずおずと名刺を差し出すだけで終ったが、二度目は二日間、三度目は一週間、フランス語も話せないまま独りパリとその周辺を闇雲に歩き回った。光太郎やその頃夢中になっていた辻邦生の足跡は無論、フランスの著名な文学者・画家の足跡を探して歩いた。擦り切れ、我侭の紙魚の跡を残す、何枚ものパリ地図は、合計5回のパリ訪問の名残を懐かしく留めて重い。
   平成4年53歳の秋、長女にキューピットが現れ「花嫁の父」を経験した。 旅立つ娘に「
ちょうちょうが いっぴき 太平洋を越えようと/コスモスの咲く山下公園で小さな羽根を休めている/ゆくさきは と問えば 南極よ と答える/私達の情熱で氷を解かすの と大層なことを云う/あまりのことに せめて房総のお花畑ではといったものの/一緒に飛び立つ もういっぴきに託すことにする・・・」と祝福の言葉を贈った。50歳を越えて家内が運転免許を取ったのもこの年で、それを諦めていた私は、試験合格に飛び上がって拍手した。
   ピーターの法則の通り、理事・常務理事・取締役待遇と位が上がるにつれて無能のレベルに近づいた。MD問題は終盤戦の様相を見せ始めたが、抜本的な支援策は実現せず、会社の事業再建は資金不足で苦しみ、借金は増えるばかりであった。
   入社した時、定年まで勤めあげて第二の人生へ・・と考えていた55歳に何とか辿り着いた。
                     

   
第四章 天然の素中へ (s.14−s.31)
    「
智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さえその目標を失ったような虚無感にとりつかれた幾箇月かを過した」と自伝に記した光太郎は三年の空白期間を経て、昭和16年「智恵子抄」を世に送り出すことでようやく再生の一歩を踏み出した。
   二人が結ばれたのが第一次世界大戦前夜であったが、引き離された時も第二次世界大戦前夜と戦争が二人に大きな影を落した。そしてまた、智恵子挽歌に取り組み、戦災でアトリエを失うまでの光太郎の足跡もまた戦争の影の中で思わぬ方向に印された。
                               −P.09−