智恵子は福島県二本松市の郊外、安達郡安達町(旧油井村)漆原の酒造家の長女だが、土地の高女を卒業して上京し日本女子大に学びデラシネ(故郷喪失者)の道を目指した。小学校時代から大学まで常にトップクラスの成績で通したが、病弱であった。結婚後も病を得ては故郷に帰り数ヶ月の養生を余儀なくされた。一方、光太郎は心身強健、若い時分から欧米に渡り数々の修羅場を潜り抜けてきた。そんな彼だから、どうやら智恵子のこの時期の苦しみは十全には理解できなかったようだ。周囲が男尊女卑の世界で巨人を愛し、愛されて寄り添う道を選んだ智恵子の不幸であった。
愛する伴侶が別の世界に行くという苦しみを光太郎は敢然と受けて立った。智恵子は自分を破滅から救ってくれた恩人と考え、智恵子の発狂は己の人生の破滅と考えた光太郎は全てを擲って介護を尽くす。
智恵子入籍、東北各地温泉療養、九十九里浜転地、品川の精神病院入院・・・と智恵子抄の詩以外の作品は何も産み出さず、ひたすら智恵子に奉仕した。経済的な困窮、自身の喀血、常に庇護者であった父の死・・・「己が先か、智恵子が先か」という大嵐の中で光太郎は懸命に生きた。人間の言葉を忘れた智恵子がその芸術的才能を一番発揮し「ゆたかな詩」「生活記録」「その中でのみ健康に生きた」と光太郎が評した「紙絵」を二人で眺める時だけが二人の優しい休息であった。だが、病魔は決して優しくなかった。
昭和13年10月5日夜、智恵子は53歳の生涯をレモンの香に洗われて、美しく閉じた。
「まだ死んでいないことにして兄が智恵子を抱いてそっとアトリエまで連れて帰った。長椅子に寝かせる時『あれだけ帰りたがっていた家に、いよいよ帰ってきたけれど、死んじゃって』とポツンと言った」「『骨をあげに行くのは嫌だ』と光太郎は行かなかった。骨壷を渡すと『こんなに小さくなっちゃった』とたった一言、そう言った」と弟・豊周は回想する。智恵子の死に直面した光太郎の短い呟きがそのショックの大きさを示している。言葉を自在に操る光太郎でさえ、平凡な、それでいて、周りの人を凍らせる一言しか吐けなかった。愛するものとの別れは人を凍らせ、黙らせる。有名な「レモン哀歌」の絶唱を書くには半年近くの時間が必要であった。二羽の白文鳥が寄り添っている彫刻の完成から、智恵子が「レモンをがりりと噛む」(「レモン哀歌」)まで7年の歳月が流れていた。
この時代を三つの碑でご紹介したい。
「千鳥と遊ぶ智恵子」詩碑。
智恵子が療養のために転地した九十九里浜の海岸に建っている。千葉県山武郡九十九里浜町真亀の国民宿舎「サンライズホテル」北側の小公園は直ぐ前の自動車専用道路が海岸の砂浜を隠しているが.昭和36年地元の有志が建立した時は百メートル先の波打際を眺められるように、広い砂浜に小高く土を盛って詩碑を据えたという。
碑面には「千鳥と遊ぶ智恵子」の自筆原稿を転載しているが、18行の全文を記した故に字が細かく読み難い。「松の花粉が飛ぶ」と詠われた松林は低い小松に変って、壮観な風景を見ることは叶わぬが、「銚子の先から南方大東岬に至るまで、殆ど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里に亘る平坦な砂浜の間、眼をさへぎる何物も無いやうな、豪宕極まりない浜辺」(「九十九里の浜の初夏」)は健在で、海水浴の季節以外は哀切極まりない詩境を味わうことが出来る。
二つ目の碑は光太郎の唯一の歌碑。
「千鳥・・・」の詩碑から500m程南に離れた所、北今泉部落には智恵子が療養生活を送り、毎週一度東京から半日かかって光太郎が訪れた「田村別荘」があった。私がこの地を訪れた平成7年には別荘とは名ばかりのあばら家ではあったが何とか保存されていた。が、平成10年に光太郎唯一の歌碑が建てられたと聞いて、平成16年に訪れた時は散々苦労して,海難地蔵横空地に、探し当てたものの草ぼうぼうの荒地と化していた。膝まで夏草に埋めながら、漸く、草の陰に埋まっている歌碑を発見した。歌碑には光太郎の自筆を写して3首の歌が刻まれて、小さなお地蔵様が置かれていた。碑は草に守られてか「いちめんに松の花粉は濱をとび智恵子尾長のともがらとなる」他の絶唱は、はっきりと読み取れた。
−P.07−