「樹下の二人」詩碑。
智恵子抄を代表する詩の一つ「樹下の二人」の詩碑は二箇所にある。先ず昭和35年に二本松市・霞ヶ城址に建てられた。城址を登ってゆくと頂上近くで、光太郎好みの連翹が咲く草原に出て展望が開ける。木々の間に安達太良連峰が横たわる。牛が寝そべった形の自然石が二個寄り添って並んでいる。手前の石には「
あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」と自筆の詩句が弟・豊周の手で銅板になって嵌め込まれている。後側の石には「
阿多多羅山の山のうえに毎日でている青い空が智恵子のほんとうの空だといふ」と詩「あどけない話」の一節が安達太良山(1700m)とその上に広がる空を見上げている。
もう一つの詩碑は智恵子・生家の裏山(鞍石山)の山頂の松の根方に昭和58年に建立された。そこは安達太良山と阿武隈川の両方が見通せる場所で光太郎と智恵子が実家に帰るたびに散歩した場所。詩に描かれたパノラマが広がり、風が二人の愛の情感を運んでくる。小松石の磨かれた碑面は光を反射して読み難いが、良く見ると「ほんとうの空」が愛唱詩を飾っていた。私の碑写真の傑作?の一つである。
「あどけない話」の詩碑。
この詩碑も二箇所にある。先に出来たのは霞ヶ城城址公園のもの。もう一つは昭和51年にJR二本松駅の外壁面に嵌め込まれて旅人を慰めている。碑文は城址公園のものと同文で詩の後半部分を抜粋している。グレーの大理石板の素朴な感じが詩の雰囲気に似合っている。
(写真は左から「道程」詩碑・霞ヶ城址「樹下の二人・あどけない話」詩碑・鞍石山「樹下の二人」詩碑)
* この時期の写真は次のアルバムをクリックするとご覧いただけます。「福島・二本松編」
私の暗愚小伝 2 −先憂後楽−
大井町の社宅は平屋の2k、共同風呂の壊れそうな玩具の家。安い家賃と通勤の便が取柄。 「
三畳あれば寝られますね/これが小屋/これが井戸/山の水は山の空気のように美味・・」(詩「案内」)と呟きながら、何とかしてフランスに行こうとフランス語の勉強を始めた。光太郎達と同じく「内部財産」の蓄積を目指した。が、和歌山の家の大黒柱で、私たち孫が密かに「マッカーサー元帥」と呼んでいた祖父が逝き、その生まれ変わりにコウノトリが雨漏りする屋根に止まって、フランス語は中断した。
昭和41年の寒い朝、長女を授かった。「少し首を傾けて無心に食べる、ただひたすらに食べる、集中の一時これほど美しいものはない」と後年ノートに書きつけた若い命との同居は日当たりが悪い家の中に太陽を運んできた。隣家には独身寮でも隣室だった親友一家もいて、何かと心強かった。
商家に育った母の口癖は「若い時代の苦労は買ってでもせよ」で、これを子守唄に育った私は「先憂後楽」(尤も、私の憂いは天下ではなく小さな世界ではあったが)を掲げて親子三人懸命に時を紡いだ。
司馬遼太郎が、「坂の上の雲」を目指してひたすら登って行った、明治時代の気分を新聞に発表し始めた時期で、昭和の「坂の上の雲」に憧れていた若者として、それが当たり前の時代でもあった。
国を挙げて経済大国の建設に邁進していた中で、会社も新時代に漕ぎ出そうとカタカナの名前に変更したものの、労務問題の処理でつまずき無配に転落、一時鳴りを潜めていた「水俣病問題(MD問題)」も足音を高め始めた。製造業では製品製造現場から社会人をスタートするのが通例であった。しかし、急坂を登り始めた時代は新兵を直接最前線に配置することを求め、第1号に選ばれた。本社の営業部という会社の最前線で外を向いていた私には労務問題やMD問題の足音は届かなかった。
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