昭和42年、長男を授かった。これを機に狭い大井町の社宅から東京郊外・保谷市富士町の借上げ社宅へ転居した。そこは町名通り大きな富士が見えた。毎朝、その独立峰の姿に子供達の未来を託しながら駅に急いだ。
  駆け足で過ぎてゆく日々に病魔が訪れたのは昭和44年春で、幼い子供達で狭い家の中が大混雑、てんやわんやの最中であった。病名は輸尿管結石。左腎臓に出来た小さな石が臨月を迎えて生まれ出る直前に、細い管中で急停車。痛みに七転八倒しながら出産(結石を排出することを医学用語でこのように言う)を試みるが難産で自然出産を諦めた。
   アポロが月面に到着し「人類の小さな一歩」を踏み出した映像を病院のTVで見ながら、発病の引金を引いた「新工場建設経営会議議案」の無事決裁の朗報に安心して、開腹手術のために搬送車に乗った。大手術だと聞かされて密かに書いた遺書を枕の下に隠した。大黒柱?の入院・手術は周囲を嵐の中に巻込んだ。家内は2人の幼い子供を抱え、限界ぎりぎりの日々を駆け回った。
   MD問題が昭和43年の公害病認定を契機に大きく新聞の社会面に飛び出した。和解に応じず自主交渉を求める人々で株主総会は大混乱し、東京・本社前での座込みが始まった。応援団の無謀な振る舞いは度々警察官を動員させ・・・と会社との攻防戦は激化した。平凡なサラリーマンを目指した人生設計は思っても見なかった渦の中に巻込まれ右往左往した。昭和45年3月次女を授かり、家内も右往左往であった。
   昭和45年、転機を求めて釜石市に友人を訪ね、帰途花巻の光太郎山荘を初めて訪れた。流謫独居の光太郎に思いを馳せながら「不器用な生き方」を選び、曲り角を曲がらずに通り過ぎ、再び「愚直な道」を歩き始めた。
   昭和48年。工場勤務志望の念願が叶って、その開業の一端を担った倉敷市の水島工場に転勤となった。私が34歳で事務部門の責任者、家内が32歳、長女は入学したばかりの小学校を転校、長男と次女は幼稚園の世界に活動範囲を広げ・・・と夫々が旅立ちを迎えていた。新しい旅の記念の詩を残した。

                               
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第三章 智恵子飛ぶs.6−s.13)
   昭和6年8月、運命が烈しく扉を叩いた。請われて光太郎は三陸地方への旅に出ていた。一ヶ月近く家を空けたのは結婚以来初めてであった。独り取り残された智恵子に精神の異常が現れ始め、翌年の夏には寝室で睡眠薬自殺を図るまで急速に病魔が勢力を広げた。
   その原因について、光太郎は「智恵子の半生」に詳しく分析しているが、詩人・北川太一は光太郎の年譜に「その大きな部分は光太郎と共に選んだ生そのものが負わねばならない。一組の男女が全ての人工の権威にそむき、人間の名において生きることを欲したとき、窮乏はたちまち二人を襲い、俗声は四囲に満ちる。その中でのあくなき精進、錯綜する要因、きしむ内部、しかもその選ばれた生を二人は避けない。そして張り詰めた糸が切れる」と厳しく詩的に述べている。

                            −P.06−