「ブランデンブルグ」の詩碑。
   国道39号線。通勤の車は北上市街に向うが、私達は反対に花巻・東和町を目指して北上する。市街から5kmの北上市二子町の部落で左折し、桜並木の道を二子(飛勢)城址目指して登る。小高い山の頂上に城址があった。朝露を踏んで高村光太郎の詩碑を探すと、柳青める北上川を見下ろす展望台の直下に朝日を浴びていた。「
高くちかく清く親しく/無量にあふれ流れるもの/あたたかく時にをかしく/山口山の林間に鳴り/北上平野の展望にとどろき/現世の次元を突変させる」昭和23年秋、光太郎は花巻郊外の廃屋で極貧の日々を送りながらこの詩を書いた。「ブランデンブルグ協奏曲」はバッハの代表作で光太郎の愛好の曲。山荘の秋の日に自然からその音を聴き、この曲のように純粋に生きることを考えたという。碑面にある一節だけでは充分に読み取れないが、57行に亘る長詩には「おれは自己流謫のこの山に根を張って/おれの錬金術を究尽する」との決意が漲っていて感動呼ぶ。
 
                     (写真詩碑は左から光太郎山荘「雪静かに・・」・花巻市街「松庵寺」・北上市郊外「ブランデンブルグ」)
   *高村光太郎の文学碑は全国で38基を数える。今回ご紹介出来なかった主なものは「草津温泉」「山梨県増穂町」「岩手・北上市や三陸海岸」などである。
   *
この時期の写真は次のアルバムをクリックするとご覧いただけます。「花巻・十和田湖編」
                 

   
私の暗愚小伝 4 −同行二人−
   平成7年2月。同居していた義母が永眠した。春3月、「
これからのフライトに夢ふくらませ/まだ見ぬ世界に心ときめかせ/みんなに支えられてあなたは出発する/さあ 元気に旅立っておくれ/全てをあなたのパイロットに託して」と嫁ぐ次女に餞の言葉を贈った。
   寂しくなった我が家に病魔がやって来た。今度、体を壊したら引退しかないと恐れていた病魔がやって来た。会社の定年は60歳に延びていたが、私の定年は55歳のままであったようだ。3回の手術の何れで感染したかは定かではないが、体内に潜り込んでいた「C型肝炎」が眼を覚ました。恐れていた病魔の再来に動転し、肉体的にも精神的にも燃え尽きた。重大な時期を迎えている会社の激務には耐えらそうになく転属を願い出た。最後の勤めは古巣の総合企画室で治療と養生を兼ねながら月給泥棒を続けるよりなかった。
   平成9年7月。長男の旅立に際して「
生まれたばかりの小さな命よ/いまはただ まっすぐに歩いてゆくだけでいい 光る風の中へ/渡されたバトンをしっかりと握りしめ//君たちの前に道があるわけではない/道は君たちがひらくのだ/たとえ細い 細い岨道であっても/何時かは広い道に通じると信じて・・・」と激励の詩を贈った。やっと三人の子供達を無事に旅立たせたが、三人共「贈る詩」以外には何も持たせてやれなかった。
   平成11年2月。還暦を機に戦線を離脱した。共に歩んできた人々が再生への最後の戦いに明け暮れている最中で後ろ髪を牽かれる思いであった。 送別会では「最後の授業」と称して『今回の転機の詩は「風立ちぬ いざ生きめやも」です。私の人生の恩師・堀辰雄から教わった詩句です。ご存知の小説「風立ちぬ」の題名を発想させた詩です。この詩句はフランスの叡智と呼ばれるP・ヴァレリーの「海辺の墓地」という有名な詩の一節で、安藤元雄の訳文では「
風が立つ!生きる努力をせねばならぬ!」と強い意志をもって未来に立ち向かう姿勢を強調した翻訳になっています・・・』と結婚当時の詩句を繰返して決意を述べた。記念の詩は「同行二人」で「同行」は家内でもあり肝炎ウイルスでもあった。
                               −P.12−