花巻の光太郎山荘

花巻には二人の巨人が居たのでこの地には訪ねるべき所が多い。また、二人共に花巻でとても慕われていたので、その遺跡は大事にされている。いや、昨今はそれが昂じて観光化されてしまった観がある。


s.36年の親友との東北旅行では主に宮澤賢治の足跡を訪ねただけで交通不便なこの山荘はパス。s.45に釜石の親友を訪ねる途上漸く永年の念願か叶った。
左の写真は銀婚の記念旅行で二度目の山荘訪問を行った時のものである。



花巻の光太郎山荘内部と来客用トイレ

写真左手は山荘内部で四畳半ほどの板敷きの場所。この右側が土間。主亡き後、この囲炉裏の灰の中に野兎首の彫刻(未完成品)が埋められていたとの話は感動を誘う。花巻での唯一の彫刻である。



右手の便所はこの時は倒壊を防ぐ覆い屋根が無かったが、今年の春に訪れた時には付けられていた。良く見ると中央の柱に「光」の文字が見える。ファンは「月光殿」と呼ぶが洒落がきつすぎて気に入らない。




「岩手の人」詩碑と「一億の号泣」詩碑

花巻市本館の花巻北高校玄関前には「岩手の人 沈深牛の如し 両角の間に天球をいだいて立つ・・・」と詩「岩手の人」を刻んだ記念碑がある。上部は .高田 博厚 制作の光太郎胸像で詩は台座に嵌め込まれている。(写真左手) 直ぐ近くにもう一人の巨人・宮澤賢治の童話「ポラーノの広場」を彫った文学碑があって、そこには「光太郎.賢治の出会いを思い諸君の幸いな出会いを願ってこの碑を建立する」とある。


写真の右手は花巻市城内 の鳥谷ヶ崎神社にある詩「一億の号泣」を刻んだものだが「戦争詩」のため遺族他より撤去要請があって一時撤去された。幸い、訪れた時にはで再建されていて写真に残せた。




「開拓に寄す」詩碑
高村山荘への取り付け道路の入口近く に上太田山関振興会館があり、「開拓の精神を失ふとき 人類は腐り 開拓の精神を持つ時、人類は生きる。精神の熟土に活を与へるもの 開拓の外にない・・・」と自筆で記した記念碑がある。s.51年に当地開拓30周年記念事業として建てられたもの。記念碑から解るように光太郎がこの地に山荘を持った時期は漸くこの地に開拓の鍬が入り始めた時期であった。所在地を発見するのに大変苦労した思い出の詩碑である。
碑の前の旧山口小学校(S.45廃校)は旧校舎を利用して現在山口民俗資料館となっている。入口には光太郎が「教訓」として書き与えた「正直 親切」の言葉と「光」を復刻した木碑が建つ。
本来、光太郎はよそ者であったが、7年間当地の文化水準向上に多大の貢献をし、地元民に慕われた。
山荘や記念館は今も当地の人々によって運営されている。

尚、この詩碑は智恵子の郷里近くの福島県の開拓地にもあるらしいが未見である。
「十和田湖畔の裸像に与ふ」詩碑

銅とスズとの合金が立ってゐる
・・・・・
いさぎよい非情の金属が青くさびて
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪えて
立つなら幾千年でも黙って立ってろ



十和田湖畔には智恵子に関する詩としては最後の詩が最後の彫刻の背後の林の端に静に横たわっている。
黒御影石に全文14が自筆の原稿を拡大して彫られている。
十和田湖には二度も出かけたが、碑が建てられた平成6年以前のために残念ながら実物はまだ見ていない。
十和田湖畔「乙女の像」

光太郎の最後の彫刻作品が十和田湖の休屋の浜辺に建っている。今では十和田湖の名所で訪れる人々はみんなこの前で写真を撮る。
顔は智恵子さんそっくりだと説明されているが私にはそう見えない。彫刻家高田博厚に言わせれば「無残な作品」だが智恵子抄の読者には出来栄えは如何であれ光太郎の執念の作品だと言うだけでいい。
この像の除幕式にも参列した像の生みの親である佐藤春夫は「湖畔の乙女」(天降りしか水沫凝りしかあはれいみじき湖畔の乙女ふたりむかひて何をか語る)という詩を作った。歌謡曲として作曲されて十和田湖に向うバス中でガイドが紹介してくれる。歌謡曲にしては格調高い。
                                               
私の智恵子抄文学散歩  花巻・十和田湖