昭和32年4月2日早朝、前日からの珍しい四月の大雪が降り積む中、74歳の光太郎は「天然の素中」に帰って行った。
   パリのアトリエで同居した画家・梅原龍三郎は弔辞に「
たとえ一点の作品がなくても君は君の人格と生活態度によって高邁なる芸術家であった」と書いた。常に寄り添ってきた詩人・草野心平は「・・・裸像のわきのベッドから/青い炎の棒になって高村さんは/天然の素中に帰ってゆかれた/四月の雪の夜に・・・」と追悼詩を書いて慟哭したという。 山本健吉は詩集の解説で「人間形成を遠い目標に置き、生涯の一刻一刻をその「道程」とした光太郎。・・・彼の作品は何時も彼の人間性の並外れた巨大さによって補われ、むしろそのこと自体が、彼の詩のもっとも大事な属性である」と書いている。
   今にして思えば「智恵子抄」を「私の智恵子抄」とするために本棚に並べ、「人生の詩集」としてずっとそばに置くという私の選択は正しかったようだ。

   この時代の光太郎の足跡を3つのいしぶみでご紹介(今春に再訪した時のメモで)しよう。
    「雪白く積めり」詩碑。
   昼食は賢治が良く通った花巻の老舗「やぶや蕎麦店」を選ぶ。賢治の「下ノ畑ニ居マス」をもじって「このお店に居ます   賢治」のステッカーが貼られた扉をあけた。注文は賢治の好みの「天ぷらそばとサイダー」
   花巻市街を離れること10k、山口部落の高村山荘に着く。冬の眠りから目覚める直前で、山の木々は裸のまま眠っていたが、水芭蕉が春を告げていた。所々の残雪がこの地の冬の厳しさを示す。
   山荘と立派そうに呼ぶが今にも倒壊しそうな小屋である。内部は訪れた人を驚かす。杉皮屋根に天井なし、荒壁が四囲を囲み、囲炉裏付の4畳半と土間が屋内を二分する。壁に本棚があることだけが家主の教養を物語る。前回裸のままであった別棟の「来客用トイレ」(主は自然に任せたが客人には不便なので後に増築)まで山荘同様に覆い屋根が被せられて保護されていた。
   トイレの柱の彫刻「光」は光太郎の「署名」であり、文字通り「明り」でもあり、光太郎の「待ち望んでいたものの象徴」でもあろう。人はみな終戦直後の貧しさを通り越した時代を回顧しながらも、あまりの酷さに仰天して、高名な人が何故にここに沈殿したのかと不思議に思う。この環境で傑作を物にしたその生命力、創造力・・・には脱帽するより無い。「老いに自然は味方か敵か」と考えながら賢治に倣って手を後ろに組んでうつむきかげんに林を歩いた。
    「雪白く積めリ」の詩碑(下には遺髪埋葬)は小屋から200m先の「高村光太郎記念館」への途上にどっしりと腰を下ろしている。原稿を拡大して鋳造した銅板(弟・豊周制作)が自然石に嵌め込まれている。原稿だから推敲の跡まで残されていて光太郎の気持ちが伝わってくる。碑文の「
雪白く積めり/雪林間の路をうづめて平かなり/・・・/わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何せん・・・」を辿ればこの地で初めての冬を迎えた光太郎の姿がくっきりと浮かんでくる。
   裏山の山頂は「智恵子展望台」と名付けられている。自伝にはこの山頂で「智恵子、智恵子と何度も呼んだ」と記されている。この場所に立ってヒューと音を立てる風が光太郎の絶叫を運んできた初回の訪問を思い出した。山裾に、貴重な水場であった、小さな泉の跡がある。傍らに「
山の水は山の空気のように美味」と詩「案内」の詩句を記した白御影石の石柱が建っている。前回見逃した「非常の時」詩碑、などの写真を撮って山荘を後にした。
   「松庵寺」詩碑。
   花巻の町の真ん中を南北に走る広い通りに面して宮沢賢治の旧居がある。戦災を免れた隣の土蔵だけが往時の俤を残す。南に向い右手に曲がると松庵寺があった。ここは何度も両親や妻・智恵子の法要を執り行った浄土宗の古刹。門を入って直ぐ左手に、椿の花に囲まれた一角、手前に歌碑、奥に詩「松庵寺」の詩碑がある。詩碑には「
・・・限りなき信によってわたしのために/燃えてしまったあなたの・・・」と智恵子を偲んだ詩「松庵寺」全節が刻まれていた(賢治や光太郎の主治医・佐藤隆房が揮毫)。右手の歌碑には「花巻の松庵寺にて母に会ふ はははりんごをたべたまひけり」と母を偲んだ歌が椿の花に囲まれていた。
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