小樽築港
下り「C62ニセコ」を牽いて小樽に到着したC623は、客車を解放して単機で小樽築港に帰ります。小樽〜ニセコ間72.8km、その間に横たわる3つの峠を往復した疲れた体を休めるために・・・。
(↓1989年5月 南小樽〜小樽築港)
小樽築港機関区には、かつて巨大な扇形庫がありました。C623とともに鉄道文化財として残されるのでは?という話もあったのですが、その願いはかなわず、運行3年目の秋に無残にも取り壊されてしまい、扇形庫に見守られるようにして転車台で回転するC623の姿は見ることができなくなってしまいました。
(↓1989年5月 小樽運転区)
扇形庫が取り壊された翌年の春には残ったこの転車台も撤去されてしまい、1991年の運転からはC62は運転の都度DE15に牽引されて苗穂まで回送され、苗穂運転所の転車台で方向転換をして築港に戻ってくる、という日課を繰り返すようになりました。1991年以降、運転日が急激に減少したのは、資金的問題の他に、このことも一つの要因になっていたようです。
(↓1989年5月 小樽運転区)
小樽築港でのC62のネグラ。夜の苗穂回送まで、疲れた体をここでしばし休めます。
(↓1992年10月 小樽運転所)
小樽運転所(1990年3月改称。それまでは「小樽運転区」)。
昼といわず深夜といわず、「C62を見学させてください!」と訪れる私たちに、「気をつけてね。」の一言で快く見学を許可していただいた職員の方々には頭が上がりませんでした。
(↓1993年10月 小樽運転所)
苗穂回送が実施されるようになると、C62は運転終了後夜が更けてから築港を後に苗穂に向かい、運転のある日は深夜に苗穂を出て0:30過ぎに築港に着く、というハードなスケジュールをこなさねばならないようになります。少なかった乗務員にとってその負担は大変なものだったでしょう。連日運行は相当キツかったようです。最後の頃、祝日である5/5の運転がなくなってしまったのもこうしたことが原因でしょうか。
苗穂に向かって出発する寸前のC623。消されていた前照灯が点灯します。
(1993年10月 小樽運転所)
庫を出て、牽引役であるDE15の待つ側線まで100mほど自走。
DE15+C62の回送列車は札幌駅の10番線を22:20頃に通過していました。夜行列車を待っていて「え?」と思った人も多いのでは・・・。
下の写真は、「C62ニセコ」運行最終日の苗穂への出発前、最後の自走です。この時ばかりは正直、涙が出ました。
(1995年11月 小樽運転所)
苗穂から小樽築港に戻ってくるのは深夜0:30。
庫に入っても乗務員はすぐには解放されません。機関車の各部をひと通り点検し、それからやっと休息・仮眠となります。足回りを点検していく乗務員がもつ小さなライトが、まるで蛍の光のようにC62の前を横切っていきます・・・。
(1995年10月 小樽運転所)