鎌倉十井
棟立の井・・・現存しません
鎌倉駅より大塔の宮行きの京急バスに乗り、終点の大塔宮にて下車します。鎌倉宮の鳥居の前を左に800m進むと、 正面に見えてくるのが覚園寺の山門です。覚園寺(かくおんじ)は鷲峯山真言院覚園寺(じゅうぶせんしんごんいんかくおんじ)と号し、宗派は古義真言宗です。吾妻鏡の建保6年7月9日の条に「源実朝が鶴岡に参拝し、随行した北条義時が参拝後に家に戻り、一眠りした際に、夢の中にて薬師十二神将の戌神が現れてお告げがあり
翌朝にこの地に薬師堂を建立しました。この薬師堂が現在の覚園寺になったのは、北条貞時が永仁4年(1296)に心慧上人を開山としたことによります。境内の薬師堂裏の山際に棟立の井(むねたてのい)があります。
井戸の形が家の棟の形をしていることからこの名がついたといわれています。 また、屋根の形から破風の井(はふうのい)とも言われています。新編鎌倉志によると「棟立の井は覚園寺の山上にあり。相伝えるに弘法此の井を穿て、
閼伽水(あかみず:仏前に供える水)を汲と云う。鎌倉十井の一なり。」とあります。 現在は山崩れのために土中に埋もれてしまい見ることが出来ません
甘露の井
北鎌倉山ノ内地区にある”浄智寺”参道入口の石橋のほとりにある”甘露ノ井”は鎌倉十井の1つとして名高いです。文献によると”甘露水”とは、「観音菩薩が所有している浄瓶(じょうへい)に湛えられている水で、どのような仙木でも生き返らせる事ができる」と記載がありました。
瓶ノ井
鎌倉十井の1つ、あじさいで有名な「明月院」境内にあります。岩盤を垂直に堀り貫いて造ったとみられ、その内部が水瓶のようにふくらみがあることから「瓶ノ井」と呼ばれ、鎌倉十井の中でも現在使用できる井戸としては数少ない貴重な存在である
泉ノ井
泉ケ谷”浄光明寺”近くの個人宅(飯田様)の門前に小さな井戸があります。
この井戸が「泉の井」で鎌倉十井の一つです。十井の中では比較的原形がよく残されています。こんこんと清水がわき出た往時の勢いこそありませんが、今でもきれいな水が出ています。
扇の井・・・現存していますが、個人の屋敷内にありますので、見学はできません。
頼朝の長女大姫(おおひめ)に縁があると云われる「岩船地蔵」(いわふねじぞう)があります。
この道の近くに「飯盛山」(いいもりやま)と云われている小さな山があり、この山の麓に岩盤をくりぬいた「扇の井」(おうぎのい)と呼ばれる井戸があります。新編鎌倉志に「この地に、
飯盛山と云うあり。山根に岩を扇地紙の形に鑿、内より清水湧出。扇井と名く。鎌倉十井の一なり。」と述べています。
扇の井の名称の由来には、新編相模国風土記稿工には「「飯盛山の麓にあり、岩穴中より清水湧出す、
この岩扇の形に穿つ、故にこの名ありとぞ、十井の一なり」とあります。 またの説に「静御前が舞扇を納めたことからこの名が付いた」との言い伝えもあります。
底脱ノ井
海蔵寺境内にあり、鎌倉十井の1つです。中世の武将の安達康盛の娘・千代能が、ここに水を汲みに来た時、水桶の底がすっぽり抜けたため、「千代能がいただく桶の底脱けて、水たまらねば月もやどらず」とうたったことから、この名がついたといわれています。井戸の底でなく、心の底が抜けて、わだかまりが解け、悟りが開けたという投機(解脱)のうたです
星ノ井(星月井)
鎌倉十井の1つ、別名、星月井。昼なお暗いこのあたりで、井戸を覗くと昼間でも水面に星が見えたという伝承が名前の由来という。江戸時代には”星月井”は有名になり、極楽寺切通しを往来する人の為に「かけ茶屋」が建ち、井戸の水を売っていたが、関東大震災後には「かけ茶屋」も廃業した。
銚子の井
銚子の井戸は、小道の奥にあって、上に六枚の花弁の形をした蓋が乗せられています。蓋の直径は110cm、高さ60cmの大変に重そうな形をしています。井戸枠も蓋と同じように外形は六角形をしており、
内側は円筒状の形状をした石製のものです。枠の手前が片口のように突出しています。
この形から昔風の銚子に似ていることからこの名前が付いたと思われます。
六角ノ井
”六角ノ井”の井戸端は八角形、二角は逗子の分で残り六角は鎌倉分なので”六角ノ井”という説があります。また、この井戸は別名”矢の根井戸”。伝説には、鎮西八郎為朝は保元の乱で敗れ伊豆大島に流罪になっていましたが、あるとき海辺で腕ためしの為に鎌倉の天照山を的に弓を射た。強弓で有名な為朝は流罪にあたり腕の筋肉を切られていたが、その強弓は衰えず18里を超えてこの井戸に落ち、村人が矢を抜いたが矢の根が残ってしまい、のちに、村人が矢の根を抜いて”住吉明神”に奉納したが、水が腐ってしまったので井戸に返したと伝わっています。
鉄ノ井
鶴岡八幡宮の近くにあり、鎌倉十井の1つで水質清冽甘美にして、盛夏といえども涸れることなし、その昔この井戸より高さ5尺余りの鐡観音を掘り出したので”鐡井”と名前が付けられた(銘文より)。その鐡観音は鎌倉の新清水寺にあった観音像でしたが、鎌倉時代の火災で崩れてしまいました。江戸時代に頭部がこの”鐡井”から掘り出されました。なお、鉄観音は明治初年の神仏分離の令に際し、明治9年に東京の”大観寺”へ移され以後”大観寺”の本尊として今日に至り、昭和47年4月東京都の指定有形文化財に指定されました。
鎌倉には、昔から鎌倉五山・鎌倉七口(切通)・鎌倉十橋・鎌倉七福神・鎌倉二十四地蔵尊・鎌倉三十三観音そして鎌倉五名水・鎌倉十井のように名数で数えた史跡が伝えられています。これらの名数は、鎌倉が江戸時代に観光地として繁栄した頃に称えられたと言われております。このホームページは名数で数えた史跡の中から「鎌倉十井」を紹介します。
鎌倉十井とは、鎌倉は三方が山に囲まれているにもかかわらず、水質は悪い土地と言われてきました。そのため井戸は、非常に貴重な存在であり珍重されました。江戸時代中期以降、中でも良質の水を出す十の井戸を「鎌倉十井」と呼ぶようになったそうです。