12.第一次大戦と音楽
1914年7月3日、ヤナーチェクは還暦を迎えた。彼はオルガン学校が祝賀会を開こうとすると非常に嫌がったが、結局周囲の好意に気を和らげて、オルガン学校の教職員や学生たち、そしてロシア文化愛好会からの祝辞と記念品を受け取った。
オルガン学校ではささやかな誕生日パーティーが催された。ヤナーチェクはそのお礼として学校を一日休校とし、教授たちを夫人とともにささやかな晩餐会に招待し、校長宿舎の庭でワインとデザートをふるまった。
夏の夜は賑やかに暮れていき、ヤナーチェク夫妻の顔には久しぶりに笑顔が戻った。同席した人たちも、時流につのる不安を忘れて楽しいひと時を過していた。しかし話題が途切れると、一同は2日後に再開されることに決まったソコルの大会と、今後のチェコの行末について思いを巡らせていた。
話は5日前にさかのぼる。
その年、ブルノのチェコ人は国民体育団体「ソコル」の大会のことでもち切りだった。この団体は1862年に設立されて、数年ごとに大規模な体育大会を組織して、チェコの人々の愛国心を盛り上げるのに大きな役割を果たしていた。
特にその年の大会はソコルのブルノ支部結成50周年を記念して「モラヴィアの年」と名付けられ、モラヴィアの民俗衣装をまとった出場者が、盛大なマスゲームや体操を披露することになっていた。
ヤナーチェク自身もソコルの熱心なメンバーであり、友人夫婦の子供たちも大会に出るとあって、夫妻は大会の日を楽しみに待っていた。
そして大会の日、6月28日がやってきた。ヤナーチェク家の近くの大通りはクラーロヴォ・ポレにある競技場に向かうチェコ人で溢れていた。初日はヤナーチェクと家政婦のマリエが会場に行き、ズデンカは飼犬チェルトと留守番をすることになった。ズデンカの回想は、チェコ史を一変させることになったニュースが伝わった瞬間を、生々しく伝えてくれる。
「静かな、素晴らしく晴れた日だった。人々はみなクラーロヴォ・ポレの競技場に行ってしまって、通りは人通りがなかった。私の思いもそちらに向かっていた。突然通りのどこかで人の叫び声が聞こえた。その声は静まるばかりか、ますます大きくなっていった...ある婦人が通りかかったので、私は何が起こったのか聞いた。
「神様!サラエヴォで皇太子夫妻が殺されたんですって!」
私は頭を殴られたような思いで立ちつくした... やがて、クラーロヴォ・ポレから、押し黙った群集が三々五々歩いてきた。官憲は大会を中止させたのだった。夫とマリエも帰ってきた。私たちはだれも喋らず、嵐の予感で胸が一杯だった。」
不幸にして予感は的中した。1月後の7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告したのである。恐ろしいニュースが次から次へと舞い込んだが、追いうちをかけたのはロシアとの戦端が開かれたことだった。というのも、ヤナーチェクは若い頃から親ロシア派で、ブルノのロシア文化愛好会の会長でもあったからだった。
彼は会の秘書に、ロシア寄りの規約や趣意書を全て破棄し、あたりさわりの無い文面に書き変えるように指示したが、それ以上の手だては何も打たなかった。彼は逃げも隠れもしないと誇り高い態度を持していたが、官憲の目は厳しくなり、メンバーの中には逮捕されてシュピルベルク城に監禁される者さえ出た。
動員令が下り、オルガン学校の若い生徒たちも次々に徴兵された。ヤナーチェク夫妻は、家に別れの挨拶に来る生徒たちを痛ましい思いで見送った。そして、生徒の数は日に日に減っていき、オルガン学校の教職員は学校の将来を憂えて動揺したが、ヤナーチェクは一同を集めて「学校にある資金を使って、これまで通り給料を払う」と訓示したという。実際はそんな資金などありはしなかったのだが。
物価は瞬く間に高騰した。開戦後数日間で、生活必需品の値段は30%上がったという。一方でオルガン学校への政府の補助金は打ち切られ、ヤナーチェク家はわずかな年金と、農村にいる一家の親類や友人から食料を届けて貰って、細々と暮らした。家政婦のマリエは朝の2時から行列をつくり、店に並ぶわずかな食品を買って一家を支えた。
小麦粉を求めて列を作る人々
(1915年8月プラハ)
思想統制も厳しさを増した。真っ先に「ソコル」は解散を命じられ、10を越える新聞が発禁となり、知り合いの作家や批評家たちにも投獄される者が出た。
ヤナーチェクの周囲の監視の眼も厳しくなったが、彼は警戒する必要など無いと思っていた。というのもオストラヴァでロシア軍の砲火が聞えたという知らせが届いており、更に東の地域ではロシア軍がカルパチア山脈に近づいており、山越えを既に終えたかもしれないという噂が届いたいたからだった。
こうした「スラブの母」ロシアによる解放を待望する、緊張した空気の中で、ヤナーチェクはヴァイオリン・ソナタを作曲した。
「私は1914年に戦争が始まった頃にヴァイオリンソナタを作曲した。あの頃は皆ロシア軍がモラヴィアに来ると期待していた。」1922年、ヤナーチェクはある音楽学者に宛てた手紙で書いている。また、戦後にこの曲を海外の演奏会で取り上げようとしたピアニストに、ヤナーチェクは何度も言ったという。「終楽章でコラールのようなテーマが最後に現われる部分にかかる、ピアノの高音でのトレモロは非常に激しく弾かなくてはならない、それはロシア軍がハンガリーに進出する様子を描いているのだから。」ロシア軍は1914年9月26日に実際にハンガリーに侵入したが、わずか1週間で退却したのだった。
確かにヤナーチェクはこの曲で、当時公けにし難い思いを音楽に託して歌い上げたのかもしれない。ロシアやモラヴィアの民謡のような旋律が各楽章に交互に現れるのは、そうしたロシアへの共感と故郷モラヴィア解放への願望を反映していると考えることもできよう。しかし、そうした背景を抜きにしても、この曲の完成度と内的緊張は強い感動を呼ぶ。子心の動揺を表すようなピアノ伴奏の音形や、ヤナーチェク独特の問いかけや挑発のような短い音形がしばしば交錯する曲の展開部は、内心の葛藤のドラマを劇的に描いている。
また、ヤナーチェクはこのソナタを1915年秋に完成させたが、その後しばしば改訂していることを付記しておこう。現在出版されている決定稿は、1922年に最終的に改訂された版である。
一方、戦争の早期終結の望みはすぐに空しくなり、この戦いは長引きそうだという予感が市民の間にも広がり始めた。食料や燃料は配給制になり、ヤナーチェク夫妻が長年集めたモラヴィアの民俗刺繍は、物々交換で消えていった。
ヤナーチェクの作曲家としての活動も、制約を受けるようになっていた。オペラ『運命』のブルノ上演はもはや不可能になり、彼の男声合唱曲を数多く初演した「モラヴィア教員合唱団」も、徴兵によって団員数が激減して活動を休止しなければならなくなったからである。そこで指揮者フェルディナンド・ヴァッハは難局を逆手に取って、「モラヴィア女性教員ヴァッハ合唱団」を結成した。そしてヤナーチェクもヴァッハの活動に刺激を受け、女声合唱曲という初めてのジャンルに挑戦することになった。
彼は1916年の1月から2月にかけて、次々に5曲の女声合唱曲を書き上げた。一曲目の『狼の足跡』は、ヤロスラフ・ヴルフルツキーの詩によっており、1月25日に完成した。『フラッチャニの歌』はフランチシェク・セラフィーン・プロハースカによる3つの詩による。そしてバラッド風のブルレスク『カシュパル・ルツキー』は、同じくプロハースカの詩によっており、1916年2月12日に完成した。
まず目を引くのは、ヤナーチェクは『狼の足跡』ではピアノの伴奏を付けて、『フラッチャニの歌』では、まるでフランス印象主義の音楽のようにフルートとハープの伴奏を加えていることであろう。後者は彼の作品では初めての試みであった。
『狼の足跡』は、ある年老いた隊長の物語である。彼は狼を追って、2夜続けて雪に覆われた平原を歩き続けている 曲はピアノの短い序奏から始まる。まるで雪原で、隊長の吐く白い息が旋律となったような、冷たく響く音形である。
しかし彼は狼を見つけられず、妻の待つ家に帰る。この若妻の美しさを描く中間部で、曲は暖かく響く長調に転調するのだが、それは来るべき破局との印象的なコントラストを作る。そして曲想はまた一変し、家の窓に写る影から、美しい若妻がほかの男に抱かれているのを見た隊長は、涙を流しながら妻と愛人に向かって銃の引金を引く。
隊長は銃を取り上げて狙いをつけた。
ひどく猛々しい震えが走る。
ああ!銃声が響いた。
2人の接吻は永遠に続くだろう。
確かに隊長は足跡を見つけたのだ。
ヤナーチェクはこの結尾部の歌詞に少しだけ手を入れている。ヴルフルツキーの原作では、隊長が「2人の接吻は永遠に続くだろう。」と言って引金を引く。しかしヤナーチェクはこの台詞を後に置き、銃が撃たれた後にソプラノの独唱が歌うようにした。それは死んだ恋人たちが、永遠の中で抱擁しているかのような印象を与える。
『狼の足跡』は、続く『フラッチャニの歌』、『カシュパル・ルツキー』とともに女声合唱曲3部作と言うことができるだろう。一作ごとの完成度と多様という点で、ベズルチによる男声合唱曲3部作に肩を並べる秀作だが、その中でも『フラッチャニの歌』は白眉の傑作である。
プロハースカの詩はプラハのフラッチャニ城と、隣接するヴェルヴェデーレ離宮の伝説を歌っているが、これほどプラハの謎めいた美しさを生き生きと描いた詩と音楽はほかにないだろう。終生ブルノに住み、モラヴィア人であることを自任していたヤナーチェクが、なぜプラハの雰囲気をここまでまざまざとと描き出すことができたのか、不思議に思えるほどだ。
第一曲『黄金の小径』、第二曲『むせび泣く噴水』もともに素晴らしいのだが、圧巻は第三曲『ベルヴェデーレ』であろう。
ハプスブルク王朝のフェルディナンドは、愛する妻アンのためにこの離宮を建てた。そして王妃のハープの音は、宮殿の庭にこだまし、聴く者をやがてルドルフ二世の時代に誘なう。この魔術や錬金術に熱中した王は、弟のマティアスに廃位されてヴェルヴェデーレに幽閉され、自分の運命を嘆く。そして白山の戦いの前夜、市民の暴動の叫び声が遠くから聞こえ、ハープの音色はかき消されてしまう。しかし、愛によって建てられたヴェルヴェデーレ離宮は風雪に耐え、抑圧者がチェコの地を踏みにじった時代にも、その石に刻まれた美を失わなかった。そして静かな終結部は歌う。
愛だけが地に満ちて、
彼女のまなざしの下に、すべてを結びつけるならば、
哀れなわれらが祖国よ、その時お前は何という姿でいることだろう、
何と素晴らしい奇跡を我々は目の当たりにすることだろう
ここでは、独唱が確信に満ちた声で「何と素晴らしい奇跡を我々は目の当たりにすることだろうか」と高揚した声で歌う一方、合唱はささやくように「哀れなわれらが祖国よ」と歌う。まるでフラッチャニに吹く風が、庭園の木々を揺らすような、繊細な息吹が聞こえる。それは祖国への愛惜と、平和を願う人々の心でもあった。
『カシュパール・ルツキー』もまたプロハースカの詩に基づいているが、曲想はまったく対照的で、陽気でユーモラスである。原作の詩は皇帝ルドルフ2世に仕えた、いかさま練金術師カシュパールの冒険を描いている。冒頭で、ソプラノの独唱は歌う。
さて、わたくしめはこの昔のお話を、
ラズベリーのように木からもいで、お伝えしましょう。
信じる方のために歌いますから、
信じない方のことはしりませんわ。
すると合唱と独唱のグループが、目まぐるしく旋律をやり取りしながら、魔術師カシュパールの奇想天外な冒険を歌う。彼はある時は、王の金を自分のポケットにおさめ、ある時は賢者の石を焼き、またある時は伊達男ぶりを発揮して女中達を惑わす。
しかし、たまりかねた王は、カシュパールに生裂きの刑を宣告するが、処刑の前夜に彼は牢獄で首を吊って死ぬ。しかし世界はカシュパールの魔法から逃れていない。悪魔は彼の霊魂を、100,000人の魔女と猫に護衛された火のついた山羊に乗せて、40夜の間城の庭を走らせたという。バラッドは詩人のこんな台詞で終わる。もし悪魔がこの悪戯を繰り返そうと望んでも不可能であろう。というのも我々の中にいる数知れぬカシュパールを乗せるほど、山羊は沢山見つかるまいから。
この曲でヤナーチェクはベズルチの3部作で編み出した手法を使って、ソプラノとアルト2人ずつの四人の別グループ、ソプラノの独唱そして合唱に、別々に歌わせるようにさせた。「カシュパール氏がここに、カシュパール氏があそこに」という句が目まぐるしく繰り返されて、曲は互いに重なったり別々になったり、はぐれたりと、まるで中世の街角でバラッドを歌い歩く芸人たちが、雑踏の中で思い思いに歌ったり、相棒を見つけて一緒に歌ったりしているような、何ともいえない活気に満ちた面白さがある。
王の住む城にまつわる伝承を歌った『フラッチャニの歌』と、中世の民間伝承を描いたこの『カシュパール・ルツキー』は、まさに好一対の名作であろう。
ヤナーチェクはまた、一部のチェコ人の欠点を戯画にした作品にも手を染めている。それはスヴァトプルク・チェフの風刺小説による『ブロウチェク氏の旅行 第1部、第2部』であった。ヤナーチェクがこの第一部に着手したのは1908年春であった。第1部『月への旅』の作曲はとりわけ台本の問題で長引いたが、第2部『15世紀への旅』はわずか7ヶ月で作曲し、1918年1月に全曲を完成させた。
ヤナーチェクは1917年に、このスヴァトプルク・チェフの原作を取り上げた理由について、次のように書いている。
「ロシアに大勢のオブローモフがいるように、我々の国にも多くのブロウチェクがいる。私は人々がこういう人間にうんざりして、出会った時らすぐに息の根を止めたくなるようにしたかった。しかし、まず第一に自分たち自身の中にいるブロウチェク氏を直視して、身を清め、我々の民族の殉教者たちのもとに一致団結できるようにしたかった。ロシア人たちが自分たちのオブローモフに苦しんでいるように、我々はブロウチェクに苦しみたくないものである。」
(注)「オブローモフ」は、19世紀中葉のロシアの作家ゴンチャロフの小説の無気力、怠惰な主人公。
ブロウチェク氏(ヴィクトル・オリバによる挿絵)
こうして、チェコの国民へのメッセージとして書かれた作品なので、曲の背景を理解するには多少の注釈が必要となる。主人公のマチェイ・ブロウチェクはプラハでアパートを経営する、太った小市民である。彼には政治的な信条や愛国心はさらさらなく、仕事といえばアパートの家賃を集めること、楽しみといえば毎晩聖ヴィート聖堂の裏手にある酒場ヴィカールカ亭に行き、ソーセージをつまみながら夜遅くまでビールを飲んで、常連と雑談することだけだった。
ある日いつものようにヴィカールカ亭で泥酔したブロウチェク氏は、酒場の外で意識を失い、気が付いてみると月世界にいる。高尚な月世界の住民の姿から、プラハの小市民ブロウチェク氏の俗物ぶりが浮き彫りにされる。しかしあまりの高尚ぶりが、今度は笑いを呼び起こす。
というのが、チェフの小説「ブロウチェク氏の旅行 第一部月世界への旅」の風刺である。このチェフの小説は当時大いに人気を集め、ほかの作曲家も伴奏音楽やオペレッタを作曲していた。ヤナーチェクはこのユーモアと諧謔が不思議に混在する原作に手を焼き、9人の台本作家の手をわずらわして、完成までに9年を費やした。
そして1917年3月、第一次大戦がオーストリア・ハンガリー帝国にとって不利になり、チェコ人の独立への希望が見えてくると、ヤナーチェクは『フラッチャニの歌』や『カシュパール・ルツキー』の原作者F.S.プロハースカに手紙を書いた。「ブロウチェク氏の旅行、15世紀への旅をドラマ化しませんか? 新しい時代は目前です。すぐそばに来ていますし、ヴィトコフ・ヒルの戦い(注)のまさしく写し絵です。この写し絵を描くのはどうでしょう?」プロハースカは同意した。ヤナーチェクはプロハースカから原稿を受け取りながら少しずつ作曲して、12月1日には全曲を完成した。その後も手直しを続け、第1部、第2部ともに最終的に完成したのは1918年1月であった。
(注)フス派の軍勢が国王軍に勝利した戦い。
このヤナーチェク唯一のコミック・オペラは、SFじみた設定や酒場、月世界、15世紀のプラハといった多様な舞台設定が興味深いのだが、結局ブロウチェク氏は大した人物ではないので、ヤナーチェクが意図したような、深い風刺を盛り込める人物ではなかった。曲自体は愉快なブルレスクで、音楽の情景描写も面白いのだが、何とも求心力に欠けているのは否めないだろう。
一方で、ヤナーチェクが第一次大戦というチェコの未来を賭けた闘争の最中で、自己の信念を最もシリウスに描いた作品は、オーケストラによる狂詩曲『タラス・ブーリバ』であった。この作品は、ウクライナの英雄物語によるゴーゴリの小説に基づいている。ヤナーチェクはこの作品の構想を1905年頃から暖めていたようだが、ロシア軍が枢軸国との戦いで苦境に追いつめられていること、そしてチェコの兵士もその一翼を担わされていることへの憤りが筆を取らせたのだった。
ヤナーチェクは、ホルヴァトヴァー夫人に宛てた手紙の中で、この17世紀初頭の古いスラブの題材を選んだ理由について、こう語っている。「タラス・ブーリバが裏切りの罪で息子を殺す(第1部)からではない。次男の殉教的な死(第2部)のためでもない。「この世には、ロシアの民の力を砕くことのできる火も困難も存在しない」ためである。この格言は有名なコサックの隊長タラス・ブーリバを焼き殺した(第3部)いばらの薪の山の残り火にもあてはまる。私はこの狂詩曲をゴーゴリの書き記した伝説の通りに描いた。」
彼は自分でこの作品を「音楽による信条表明」と呼んでいる。最終稿は数限りない推敲の末に、1918年3月29日の聖金曜日に完成した。
ヤロスラフ・フォーゲルは、ヤナーチェク自身に聞いた説明に基づいて作品を解説している。ここではその物語の部分を引用しよう。
1.アンドリの死
ポーランド人への遠征に赴くコサックの中に、隊長タラス・ブーリバとと二人の息子、オスタップとアンドリがいた。 軍勢はドゥブノの街を包囲するが、アンドリは飢えに苦しむ街の住民の中に、かつてキエフで恋に落ちた、ポーランド人貴族の美しい娘を見つける。暗闇に乗じて、彼は娘を助け出すために秘密の通路を通って街に忍び込む。
ヤナーチェクの音楽はこの箇所から始まり、美しい娘の姿を思い浮かべながら、敵に発見される恐怖に、千々に乱れるアンドリの心を描写する。
アンドリは、飢えて幽鬼にような住民たちの間を探し回り、ついに彼女の家を見つけ、彼女の胸に飛び込んでいく。しかし、良心のうずきが次第に高まり、二人は甲斐なく愛する気持ちを何度も忘れようとする。しかし、やがてタラスの軍勢が現れる。
戦いが始まり、父を裏切った息子は、味方の軍勢を敵にして勇敢に戦う。しかし、父と1対1になると、アンドリは恥じてうなだれ、父の命令によって馬から下り、父の手によって処刑される。彼は死の瞬間に恋人の姿を思い浮かべる。一方無慈悲なタラスは、戦いの中に馬を駆け入れていく。
2.オスタップの死
運命的な死は、今度は忠実なオスタップに訪れる。彼は兄弟の不幸な死に動揺しており、ポーランド人の捕虜になり、処刑のためワルシャワに連行される。ポーランド人の、勝ち誇った荒々しいマズルカが奏でられる。拷問されたオスタップは、苦しい息の下で父の名を呼ぶ。タラスは群集をかき分けて、自らオスタップの許にかけつける。驚愕する群集を尻目にその場から消える。
3.予言とタラス・ブーリバの死
息子の仇うちとしてポーランド人を手ひどく懲らしめた後、タラスもまた捕虜になる。ポーランド人はタラスに火あぶりの刑を下す。彼は木に縛りつけられ、囚われの身となったことを深く悲しむ。タラスは生涯の最後に、頭目を失った軍勢のことに思いを馳せる。一方で火刑の炎はますます高くなっていく。
勝ち誇ったポーランド人たちは荒々しく踊って足踏みをする。しかしタラスは部下の騎兵たちが勇敢にも馬ごと ドニエストル川に飛び込み、追っ手を振り切るという妙技を目にして満足する。突然子守歌が鳴り響く。遠くからファンファーレが聞こえ、苦悶するタラスが一人残される。息を引き取る瞬間に、タラスはロシア人の不屈の力を薄れていく意識の中で目にする。
この『タラス・ブーリバ』は、まさに血湧き肉踊るオーケストラ曲である。1921年10月のブルノ初演、1924年11月のチェコ・フィルハーモニーによるヤナーチェク70歳の記念コンサートでのプラハ初演でもともに喝采を浴びた。2度の大戦で、愛国心を鼓舞するためにチェコで書かれた作品は数多いが、大戦から長い年月を経てもこの曲が世界中で受け入れられていることは、この曲がイデオロギーを超えて、音楽的な豊かさによって受け入れられているのだといえよう。
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