11.室内楽
ヤナーチェクは40歳の半ば頃から、折りに触れて鍵盤に向かって小曲を書きとめていた。それらは個人的な思い出や感想を書き綴ったもので、発表することを目的に書いた作品ではなかったが、地元の出版社の求めで出版された。そして生まれたのが『草陰の小道』である。
第1集の全10曲のうち、初めに書かれたのは『われらの夕べ』、『散り行く落葉』、『フリーデクの聖母マリア』、『おやすみ』、『みみずくは鳴き止まなかった』の5曲で、1900年頃までにハーモニウム(小型オルガン)のために作曲された。あとの5曲『落ち葉』、『一緒においで』、『彼女たちはつばめのようにしゃべりたてた』、『言葉もなく』、『こんなにひどくおびえて』、『涙ながらに』はピアノのために書かれており、1908年までに書き上げられた。
ヤナーチェクの後年のコメントや、弟子ルドヴィーク・クンデラ(現代チェコの作家クンデラの父親)による聞き書きなどから、これらの表題に込められたヤナーチェクの思いを知ることができる。それによれば第2曲『散りゆく落ち葉』は『愛の歌』、第3曲『一緒においで』は「永遠に読まれることのない手紙」、第6曲『言葉もなく』は「失意の苦さ」を表現していると言う。また第8曲『こんなにひどくおびえて』については、ある手紙の中で語っている。「貴殿はこの曲が、涙にくれながら書かれたことを感じ取ることでしょう。死期が迫っているという予感にです。熱い夏の夜、あの天使のような子(娘オルガ)は、死に脅えながら床に伏していました。」
故郷の思い出を描いた曲もある。第4曲『フリーデクの聖母マリア』はフクヴァルディの近郊の街フリーデクの教会を描き、遠くから聞こえる鐘の音の描写が印象的だ。『彼女たちはつばめのようにしゃべりたてた』はフクヴァルディの『アカシアの木陰』に加わって、遠足に行った時の思い出であろう。オルガがまだ元気な時には、一家はそろってフクヴァルディ近郊の野山を散歩したのだった。一方『言葉もなく』は、「失意の苦さ」とヤナーチェク自身が言っているが、恐らく『イェヌーファ』がプラハでの上演を拒絶された失望を指していると思われる。
第1集の最後の曲『みみずくは飛び去らなかった』は、息子ウラジミールの死の思い出から生まれた曲のように思われる。曲名はシレジア地方の古い言い伝えにちなんでいる。「もしみみずくを窓辺から追い払うことができなければ、その病人は生き延びることができない」
全5曲の第2集のうち、第3曲と第5曲も1900年頃に書かれた。しかし第1、2、4曲は1911年頃までに書かれ、ヤナーチェクの死後第二集としてまとめられて出版された。恐らくは表題が無いことで、この第二集があまり演奏されないのは残念なことだ。時にフランスの印象派の音楽を思わせる繊細な響きには、第一集にはない魅力に満ちている。
『草陰の小道』(Po zarostlem chodicku)という曲名は、モラヴィアのチェシーン地方に歌い継がれた結婚の歌から取られており、ヤナーチェクの帰らぬ日々への思いが込められている。それは花嫁の悲しみの歌で、「Ei,
zarostmi, zarost drobnu jatelinu ku mamince chodnicek」(ああ、お母さんの許へ向かう道は、生い繁るクローヴァーに覆われてしまっている。)と歌われるのである。ヤナーチェクはこれらの曲について「私にはとても大事なものだ。忘れ去る日がくるとは思えない。」と後に語っている。
次の室内楽の作品に霊感を与えたのは、ロシアの文学作品だった。ヤナーチェクは青年時代にプラハのオルガン学校で学んだ頃からロシア語を学習し、ロシア文学を原書で読んで愛好していた。1908年にヤナーチェクはトルストイの「クロイッツェル・ソナタを読み、その読後感に基づいて基づいてピアノトリオを作曲した。そして翌年には初演されているが、15年後に弦楽四重奏曲として書き直した際にピアノトリオ版は破棄されてしまった。
そのためロシア文学に取材した作品で、現存している最初の作品は、チェロとピアノのための『おとぎばなし』である。この曲は当初ヴァシーリ・アンドレイエヴィッチ・ジューコフスキー(1783ー1852)による英雄叙事詩に基づいている。詩の題名を省略せずに書くと『ベレンディ皇帝と、イヴァン王子と、不死のカスチェイの陰謀と、カスチェイの娘のマリア王女についての物語』となる。
皇帝ベレンディは冥府の支配者、不死のカスチェイに、生まれたばかりの息子を身代金として与えると、うかつにも約束する。成長した王子は、父に自分の運命について聞かされると、勇敢にもひとりでカスチェイに会いに行く。
ある日の夕方、彼は湖にたどり着く。水面には30匹の銀色の子ガモがいて、岸には30の白いガウンが置かれている。王子はガウンを一着盗む。子ガモは岸に上がってきて、29匹はそのガウンを着ると美しい乙女に変身する。残りの一匹は自分のガウンを捜すが見つからない。王子は可哀そうになって、盗んだガウンを返してやる。するとその子ガモはほかの29人よりずっと美しい乙女に変身する。
彼女はマリヤという名で、他ならぬカスチェイの娘であった。2人はすぐに恋に落ちる。マリヤは様々な姿に身を変えることができる。彼女の力を借りて
イヴァンはカスチェイの課し
た2つの難題に答えることができる。それからカスチェイの追手を避けて、馬に乗って逃げる。
しかし王子は隣国の皇帝夫妻の罠にはまり、彼らの娘と結婚することになる。捨てられたマリアは、嘆きのあまり青い花に姿を変える。しかし結婚の前日の夜、ある親切な老人が彼女の呪縛を解いてやり、王子は彼女のことを思い出す。そして2人は幸せに
つつまれて、馬に乗って城に帰る。
第一楽章はチェロのピッチカートが、勇壮な主題を何度も繰り返し、次第に高まっていく。(これは吟遊詩人が竪琴をかき鳴らす姿を思わせる)そして全曲を通じて、チェロは若い王子の姿を描き、一方でピアノは美しいマリアを描いている。こうした楽器を特定の登場人物に見立てる手法は、少し後の『フィドル弾きの子供』や晩年の『コンチェルティーノ』にも見られる。
さて、上記の物語が各楽章にどのように描かれているかはヤナーチェク自身のコメントが残されていないので、読者諸賢の想像にまかせるしかない。また、何度かの改訂を経るうちに、当初の表題音楽的な面は弱められているようである。
ヤナーチェクはこの作品を1910年2月に完成し、翌3月にブルノで初演されたが、その後何度か曲を改訂している。出版譜は1923年頃に改訂された最終稿に基づいている。最終稿の初演は1923年3月にブルノで行われた。
『おとぎばなし』を書き上げた数ヶ月後、ヤナーチェク夫妻は念願の庭のある家に引っ越した。その2年前の1908年に、オルガン学校はスメタノヴァー通り(当時はコウニコヴァー通り)にある邸宅を購入して移転していたが、ヤナーチェクはその庭の不要になった馬小屋を取り壊して、オルガン学校校長のための小さな賃貸住居を建てることを提案した。
ヤナーチェクがこのように提案したのは、夫妻の健康状態があまり良くなく、アウグスチノ修道院広場から旧市街までの坂道を往復するのが辛くなったからだった。ブルノのかかりつけの医者は、もっと職場に近い所に転居するよう喧しく勧めたので、強情なヤナーチェクもついにその気になった。
ヤナーチェクの提案は学校側に認められ、かくして夫妻は新築なった校長宿舎に、1910年7月に引っ越すことが決まった。夫妻は大喜びした。それでも旧居を引き払う時に、夫妻は感慨にふけったことだろう。そのフラットに越してきたのは、ズデンカがオルガの出産を前日に控えた日のことだった。窓からはヤナーチェクが若き日を過した修道院がよく見えた。ここで彼は『シャールカ』、『アマルス』、『イェヌーファ』などを書いた。そしてウラジミール、オルガが息を引き取ったのもそのフラットであった。
しかし、この建物は第二次大戦の空襲で破壊され、現在では市電の停車駅になっており、古い写真の中に偲ぶことができるだけである。
こうしてヤナーチェクは、現在も残る小さな隠れ家のような家に移り、生涯の残る18年を過ごすことになった。
ヤナーチェクは生涯自然と動物たちを愛したが、この家でもさっそく庭に果樹を植え、後には3羽の雌鶏を飼った。彼は雌鶏に名前をつけ、「彼女たち」のスピーチ・メロディを念入りに採譜して、日が暮れたら庭のテーブルの上に飛び乗るように根気よく仕込んだが、そんな夫の後ろ姿を見てズデンカは「動物相手にはあんなに優しいのに、どうして人の気持ちは分かってくれないのかしら」と思ったという。
亡きオルガの愛犬チェルト(悪魔)も新居に大張り切りで、庭を我が物顔で歩き回って、客が来るとだれかれ構わず吠え立てた。こうして新しいブルノの家は、ヤナーチェク夫妻に家庭の安らぎに満ちた、静かな時をもたらすことになった。
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旧オルガン学校校舎 |
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ヤナーチェク記念館(晩年の住居) |
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チェルトと新居の庭を散歩するヤナーチェク |
当時のヤナーチェク夫妻は、友人たちと喫茶店で落ち合って、楽しい夕べを過ごすこともあった。弟子のヤン・クンツ夫妻や、親友でモラヴィア教員合唱団の指揮者フェルディナンド・ヴァッハ夫妻も家に遊びに来た。また、ヤナーチェクはオルガン学校の貧しい生徒に、しばしば家で食事をふるまった。家政婦のマリエや妻ズデンカは、若い学生たちを自分の家の息子のように優しくもてなした。
当時のヤナーチェク夫婦は仲むつまじかった。かのカミラ・ウルヴァールコヴァー夫人との文通は、彼女の夫から苦情が舞い込んだために絶えていたし、『イェヌーファ』のプラハ初演で家中が大騒ぎになるのも、もう少し後のことである。ズデンカにとっては、生涯で最も幸せな時期だっただろう。
「私が本を読んだり裁縫をしていると、夫は寝室をペースを早めたり遅くしたりして歩いていて、二人でよくおしゃべりをした。話したのは主に夫の作品についてだった。彼はいつもブルノの音楽の質を高めるために、たくさんのアイデアを持っていた...その頃彼はずっとヴィルヘルム・ヴントの「諸国民の心理学」を研究していていて、それが音声学の研究に大変役立ってくれると彼は言っていた。時々私を相手に、長い音楽学の講義を行うこともあった。分からない事をいつも私は尋ねたが、彼は喜んで説明してくれた。彼は自分の作品について話したくてたまらない時があった。」(しかし、作曲している時には絶対に邪魔してはならなかった。邪魔されると「血相を切らした」という。)
「彼にペースを合せるには、心の準備が必要だった。自分自身を彼の気分と思い付きに臨機応変に合わせる必要があった。私はそれを自覚していたし、上達するのが嬉しかった...夫は、私が裁縫をしているテーブルの周りを歩き回って、あふれんばかりの新しい着想や、新鮮な洞察についてずっと話してくれて、彼の豊かな精神を垣間見せてくれた。私はそうした夕方が待ちどおしかった。一日で最も美しいときだったから。」
この情熱がほかの人に向けられたらどうなるだろうか、とズデンカは不安になったというが、その危惧は残念ながら的中したのだった。
さて、新居で手掛けた最初の曲は、男声合唱とオーケストラのためのカンタータ『ソラーニュ山のチャルターク』である。作曲についてはいかにもヤナーチェクらしい挿話が残っているので、ここに紹介しよう。
ヤナーチェクは1910年末に、モラヴィアのある旧知の合唱団から、団結成50周年の記念作品の依頼を受けた。そこで指揮者がヤナーチェクに作品の相談のためにブルノにやって来た際、たまたまヴァラキア地方に取材したバラット『ソラーニュ山のチャルターク』を見せると、ヤナーチェクはすぐに強い印象を受けて鉛筆を取り、目の前でその詩集に曲のスケッチを一気に書きつけ始めたという。そして曲は2ヶ月ほどで完成し、初演は1912年の3月に行われた。
このバラッドの舞台は、フクヴァルディに程近いベスキディ山地にある、居酒屋を兼ねた宿屋である。かつてヤナーチェクは民謡収集のためにこの地を訪れ、深入りし過ぎてハンガリーの警察に追跡されて、命からがら逃げ戻ったことがあった。
詩人はカルロヴィツェで別れてきた、色白の恋人に思い焦がれながら、鷹の巣のように怪し気な、山の中のある宿屋にやって来る。窓からは明かりがもれており、中に入るとツィンバロムが賑やかに奏でられている。入り口で彼は宿屋のあるじの可愛い娘を目にする。詩人は彼女と息の切れるまで踊る。そして宿屋が暗闇に沈むと、娘は彼の隣で優しい寝息を立てる。森の木々の上には星が輝き、詩人は別れてきた恋人のことは忘れてしまう。
この物語、如何だろうか。『イェヌーファ』の頃まで真面目一本槍で作曲していたヤナーチェクの曲とは思えない、艶っぽい情景である。山中の星の夜の描写や、ツィンバロムに合せて踊る情景など、実に魅力的な音楽があるし、巧まざるユーモアすら感じさせる曲なのだが、残念ながらヤナーチェクの作品の中で最も演奏される機会の少ない曲である。しかしオーケストラによる情景描写は、後期のオペラを先取りしている。
1912年の夏の休暇に、ヤナーチェク夫妻は長年の夢を叶えて、南の海へ旅行に行った。夫妻はかつてオルガをペテルスブルクまで迎えに行った時に、北の「鉛のような」海は見たことはあったが、アドリア海の「虹のように光り輝く海」に行くのは初めてであった。夫妻は早速列車に乗って、ウイーン経由で目的地のクリクヴェニツァの海岸(現クロアチア)に向かった。
夫妻は終日海を見つめていたり、周囲の観光地を飽かず歩き回って休日を満喫した。ヤナーチェクは旅の印象を、例思い付くまま書き残しているが、クルク島からの帰りの船は大時化に会い、夫妻はずぶぬれになった。乗客で
デッキに残ったのはヤナーチェクだけで、彼は荒れ狂う波浪を熱心に観察して、その旋律を書き留めた。上陸すると今度は民謡を演奏している居酒屋の外でずっと聞き入り、同じくずぶぬれのままのズデンカは怒ったという。
こうして夫妻は観光を大いに楽しんだが、ヤナーチェクの旅の感想は次の一行で終わっている。
「最後に、ひどいリューマチの襲来。」
ヤナーチェクがリューマチに襲われたのは、休暇から帰宅してからのことだった。足と手がひどくむくんだために、彼は11月から翌年3月まで、ほとんど身動きできなかった。その間彼は家で生徒たちを教えることにし、生徒たちは彼のベットの周りに座って講義を受けた。
この頃、ヤナーチェクは内心の告白のような作品をもう一曲書き上げている。それはピアノのための連作『霧の中で』であった。彼は休暇前に完成させたこの曲に、病床で改訂を加えた。民謡編曲や断片を除いて、この作品は彼の最後のピアノ曲となった。
この連作中の4曲には標題はない。しかしフラットが5つあるいは6つの調で書かれているということ、そしてヤナーチェク自身が『霧』と名付けて(後に『霧の中で』と改めた)いることから、彼の文字通り五里霧中といった当時の心境を反映していることが窺える。
それも無理も無いことであった。昨年5年ぶりにブルノで再演された『イェヌーファ』も、この1912年は1度も上演されず、翌年もわずか1公演のみという有様で、プラハでの上演は相変わらず拒否されたままだった。しかも次のオペラ『運命』は、この年のプラハのヴィノフラディ劇場の上演予告に入れられたのにもかかわらず、またも実現しなかった。その劇場の指揮者は、ブルノのチェコ歌劇場で指揮していた時代からヤナーチェクと折り合いが悪く、「私が指揮者の間は、『運命』は絶対に上演しない」と断言したという。ヤナーチェクは歯に衣を着せずに物を言ったから、楽壇は敵だらけだった。
こうしてヤナーチェクは病床で、60歳を目前にしながら作曲家として認められないという焦りと、諦念とに襲われていた。そうした心境がこの作品の音世界に反映されているのだろう。しかし終曲の鍵盤に叩き付けるような旋律には、世間の無理解に屈せずに自分の音楽を書き続けようとする、彼の強い意志と自信を感じ取ることができよう。
この年のヤナーチェクは、精神的にも肉体的にもスランプだった。1913年春にリューマチは癒えたが、まだ体調ははかばかしくなかったので、夏の休暇は、主治医の勧めに従ってボヘミアのカルロヴィ・ヴァリの温泉に行った。彼はそこから病を完治させるために転地するつもりだったが、移動の途中で全身が丹毒におかされ、病院にかつぎ込まれる羽目になった。病状が多少とも好転してブルノに戻ると、彼は弱った体で熱心に歩き回りすぎて足に痙攣が生じ、一歩も歩けなくなった。
ズデンカもその頃靭帯を傷めて歩けなくなり、ある日ヤナーチェクの少年時代の旧友が訪ねてきても二人とも玄関に出られず、夫婦で苦笑いしたという。結局この1913年に完成した作品は、『フィドル弾きの子供』だけに終わった。
その頃、バルカン半島をめぐる情勢は緊迫していた。1912年の第一次バルカン戦争によって、バルカン半島からトルコ帝国の勢力は大きく後退したが、翌1913年には、かつてトルコに支配されていた兄弟国同士の間で戦端が開かれ、バルカン半島の各民族に深い傷痕と遺恨を残した。
そうした中でヤナーチェクは1914年に、ヴルフリツキーの詩「永遠の福音」に基づく、人類愛を歌いあげたカンタータを作曲した。
これは驚くべき作品である。前年までに書かれた『霧の中で』や『フィドル弾きの子供』に見られる、迷いや陰鬱さを感じさせる音の世界はどこにも見られず、神秘的で壮大な音楽が繰り広げられている。この曲はヤナーチェクが神と人間との対話を描いた作品ー『主の祈り』、『アマルス』を経て、『グラゴルミサ』に結実する過程にある作品といえよう。ここでヤナーチェクは精神的なスランプを抜け出て、新たな段階に飛翔しようとしている。そして、それが認められる時期も目前に迫っていた。
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