7.モラヴィア民謡との出会い


こうして30代前半のヤナーチェクは、チェコの民謡を素材にした合唱曲を書きながらロマン派的なオペラにも挑戦するなど、作風としては迷いの時期にあった。しかし、ある民俗学者との出会いが決定的な転機となった。

その人物はフランチシェク・バルトシュ(1837-1906)である。彼は19世紀前半に大部のモラヴィア民謡集を編んだフランチシェク・スシル神父(1804-1868)の業績を継いで、同僚の教員や教会のオルガニストたちとともに、組織的な民謡の収集を行っていた。1882年に彼は『新モラヴィア民謡集−歌詞と旋律付』を出版している。しかし彼は音楽には素人だったために、ヤナーチェクに音楽面での協力を求めたのだった。


(注)ヤナーチェクとバルトシュは、合唱団の活動を通して1876年頃に知り合っていたと思われるが、二人が密接な協力関係に入ったのは、1885年頃と思われる。ヤナーチェクは翌年バルトシュと同じ中学校で歌唱を教え始めている。


ヤナーチェクは初期の合唱曲でも、スシルの民謡集の旋律や歌詞を自作に利用し、旅先で偶然耳にした民謡を編曲している。しかし民俗学に造詣の深かったバルトシュは、民謡が実際に歌われている村々に赴き、現地で民謡や民俗舞踊を記録するように勧めた。こうして2人は1885年頃から、学校の休暇を利用してモラヴィア各地の民俗探訪・民謡収集の旅行に赴いた。


  それは困難な旅でもあった。バルトシュとヤナーチェクは鉄道が通じている地域を避けて、交通は不便だが昔ながらの文化が手つかずで残っている村を研究対象に選んだからである。彼らは農家の粗末な馬車を借り、御者を雇って村を巡り歩いた。坂道に出ると農家の痩せ馬はいつも立ち往生して、ヤナーチェクは飛び降りて、汗だくになりながら馬車を押して坂をよじ登ったという。
後にはスロヴァキアの国境地帯の奥深く入りすぎて、ハンガリーの警察に追跡され、命からがら逃げ帰るという目にも遭っている。

目指す村に入っても、歌い手たちが「街から来た先生たち」の前に粗末な服で出るのを恥じて、姿を隠してしまうこともしばしばだった。それでも2人の熱意はやがて村人たちに通じ、ヤナーチェクは村の民俗楽器の名手や歌い手たちと友情を結んで、彼らの奏でる音楽や村人たちの踊りを熱心に記録した。そうした30代の自分の姿を、晩年のヤナーチェクは回想している。

「宿屋の小さな窓からは、人を誘うような赤い光が既に揺れ輝いていた。夜になると、その赤い光は煮えたぎる鍋の下の炎のように輝いた。宿屋の一室には、集まって身づくろいをしている大勢の 女の子たちと、腕に子供をかかえた女たちがいた。彼女たちはみなミェルコヴィツェ村とコズロヴィツ村から来て、楽士たちはクンツィツェ村から来たのだった。体がぶつかる、情熱的な踊りが始まった。部屋は息詰まるようで、汗のにおいで満ちていた。

私たちはドアのそばに立って、踊り手の素早い身のこなしを見ていた。皆の顔は汗にまみれて、時に叫び声や歓声や上がる。楽士たちは 熱中した音楽を奏でる。私は熱心にこの煮えたぎる鍋のようなラシュコ地方の舞曲を調べていた...」


モラヴィア生まれのヤナーチェクにとっても、生でみるモラヴィアの村々の民謡や民俗舞曲の多様さと豊かさは、驚きの連続だった。「モラヴィアではおよそ3000曲の民謡が歌われているが、どれもが純粋に国民的で興味深いタイプのものであり、私は嬉しくてたまらない。」彼は目を見張りながら各地の村を訪ねては、そうした発見を書き留め、旋律を採譜した。 そしてヤナーチェクは、ボヘミア民謡とは著しく異なるモラヴィア民謡の特徴を、深く自分の中に摂取していった。

ここで、モラヴィア民謡とボヘミア民謡の違いを概観しておこう。
ボヘミアには、プラハがかつて神聖ローマ帝国の首都として繁栄したことに見られるように、西ヨーロッパの先進地域であり、民謡は多分に西欧的である。言葉を別にすれば、時としてドイツの民謡と区別がつかないほどだ。

ボヘミアの中でも地域差はあるが、全体的に長調の民謡が主体で、リズムや旋律の構成は単純明快で規則正しく、声楽というよりも器楽による舞曲の要素の方が大きい。そして近代にいたって、スメタナが「売られた花嫁」をはじめとする数々のオペラでボヘミア民謡を縦横無尽に使ったことは言うまでもない。

古くからの民俗楽器バグパイプにフィドルと各種の管楽器(18世紀末頃から、クラリネットが主流となった。)を加えたトリオが演奏する快活な舞曲は、ボヘミアの各地方で今でも見ることができる。

しかしモラヴィア民謡となると、様相は一変する。

モラヴィアは西ヨーロッパの文化の影響をボヘミアほど受けなかったこともあり、9世紀の大モラヴィア国に遡る東方起源の伝統をより色濃く残している。多くが短調の情熱的な旋律、緩急自在なリズム、変化に富む転調や古い教会旋法の使用などである。

自由なリズムを持つ朗誦のような民謡は、ビザンチンや東方諸国の文化の流れを汲んでいるが、ボヘミアにはない。舞曲も都会的なボヘミアよりはるかに熱狂的でラプソディックなステップやリズムが聞き取れる。

モラヴィア民謡の代表的な編成は、前記のような歌と弦楽合奏と打弦楽器ツィンバロムによる合奏である。このツィンバロムはビザンチンから伝来した楽器で、ハンガリーやモラヴィア、スロヴァキアの民謡で盛んに使われているが、ボヘミアでは早くからすたれた。この楽器は、木製の共鳴箱に張られた金属弦を、手に持ったハンマーで打つという、一見プリミティブなものだが、即興的な主旋律を実に魅力的な柔らかい流れるようなトレモロの響きで支える。

ヤナーチェクはとりわけこの楽器を好んだ。「振動するがままに鳴り響く音によって旋律をぼかしてしまうが、それはあたかも夕方のもやが、日没の太陽で金色にきらきら輝きながら山を次々と覆ってゆくかのようである」と彼は音色を表現している。

ヤナーチェクは何度かモラヴィア民謡を編曲し、ピアノの伴奏を付けて出版しているが、その中にはツィンバロムの響きを模している箇所がしばしば見られる。後にヤナーチェクはツィンバロムの響きを完全に自家薬籠中のものとし、自分の作品の中で新たな生命を与えている。

最後に、モラヴィアの山岳地帯やスロヴァキアに残された独自のバグパイプや、羊飼いたちが使う笛にもぜひ触れなければならない。

美しい装飾をほどこした木の笛「フヤラ」は、長いものでは2m以上もある。その音色は、山にかかる霧が音楽になったような、忘れられない印象を与える。倍音の響きは、まるで鳥の飛翔のようだ。

音階は中世以前に遡る教会旋法によっており、遠い昔にスラヴ人が奏でた音楽が生きていることに、感慨を覚えずにはいられない。ヤナーチェクの作品によく見られる旋法の使用と、独特なオーケストレーションは、こうした民俗楽器の影響という面もある。

モラヴィア民謡を熱狂的に吸収したヤナーチェクは、1889年から民謡を自作に取り込んだ作品を発表し始めた。前年まで手掛けていたロマン派的なオペラ『シャールカ』のような作風は捨て去られた。まずヤナーチェクが試みたのは、モラヴィアの民俗舞曲をドヴォジャークの『スラヴ舞曲』のようなオーケストラ曲として再現して普及につとめること、そして民謡を出版することであった。

ヤナーチェクは民俗舞踊の研究家たちと協力して、1889年2月21日のブルノ・ベセダの演奏会で、自分の出身地方の2つの民俗舞曲をオーケストレーションした作品と、自分が編曲した『小さな女王たち』という、夏至に歌い踊られる少女たちの合唱舞曲を披露した。

演奏会は成功したが、何よりも居合わせたプラハ国民劇場の代表が好意的な印象を持ち、ヤナーチェクにコンタクトを取った事が大きかった。好評に励まされたヤナーチェクは、オーケストラによる民俗舞曲を次々に書き、民俗バレエやオペラの作曲も計画した。この頃に書かれた曲では、同じ民謡の旋律がいくつもの曲で使われていて、気に入った民謡への熱中ぶりを示している。

(注)最初に書いた2曲は、 『ヴァラシュスコ舞曲』の名で翌年出版された。書き足された各曲は、『ヴァラシュコ舞曲』として演奏された後 に、別の曲集(『組曲 作品3』、『モラヴィア舞曲』、 『ラシュスコ舞曲』など)としてまとめられたり、バレエ『ラーコーシュ・ラーコツィ』やオペラ『物語のはじまり』に使われた。



スロヴァキアの民俗音楽祭にて ツィンバロムの演奏。楽器の大きさは様々。


フヤラの演奏 村の民族舞踊に見入るヤナーチェク(中央右) 『物語のはじまり』 初演者たちの舞台写真
(中央がヤナーチェク)


ちなみにヤナーチェクの生まれ故郷はラシュスコ地方、その南方の山岳地帯はヴァラシュスコ地方に属しているが、これらの区分は当時あまり厳密ではなかった。

1891年の夏、プラハで民俗博覧会が企画された。そのためプラハ国民劇場は会期中の出し物として、急遽ヤナーチェクに民俗バレエの作曲を依頼し、ヤナーチェクは手持ちの舞曲をつなぎ合わせて『ラーコシュ・ラーコーツィ』を作曲した。こうして1891年7月24日に、このバレエはヤナーチェクの作品として初めてプラハ国民劇場で上演された。

同じ頃、ヤナーチェクはオペラ『物語のはじまり』にも取り組んでいた。このオペラは村娘と貴族の御曹司の恋の成り行きを描いた一幕の田園喜劇で、台本は女流作家ガブリエラ・プライソヴァーの短編小説を韻文に直したものだった。

しかしヤナーチェクは、作曲しているうちにジレンマに直面した。

モラヴィア民謡をオーケストレーションしたり合唱曲に編曲する、あるいは自作にそのまま引用してモラヴィアらしさを強調するだけでは、もとの民謡を超えることは出来ないし、上手くいっても作曲家の技巧と愛郷心を主張するだけに留まるだろう。

オーケストラ用の組曲やバレエ曲なら、それでもいいかもしれない。しかしオペラでは、登場人物の心理を音楽で描くことが求められる。民謡を使いながら、どのような劇を創造できるというのだろう?

ヤナーチェクはこのオペラを1891年の5月から7月にかけて苦心して作曲したが、結局幼稚な筋書きにあわせてモラヴィア民謡が歌い、踊られるというだけの作品で終わり、登場人物の性格描写には全く失敗した。


プラハ国民劇場は上演を断ったため、1894年にブルノのチェコ劇場でヤナーチェク自身の指揮によって初演されたが、数回の上演で打ち切られた。

「『物語のはじまり』は中身の無い笑劇だった。民謡をあの曲の中に挿入するように強いたのは悪趣味だった。あれをシャールカ の後に書いたのだ!」 彼は後に回想している。

しかし、こうした試行錯誤のなかから、ヤナーチェク独自の作風が次第に形を取り始めることになった。

この時期彼は、なぜそれほど民謡に熱中するのかを問われて答えている。「私はこうして、自分の音楽的発想を純化するのだ。」(「リドヴェー・ノヴィニ」1893年12月16日号)

1901年に、ヤナーチェクとバルトシュは、共同研究の集大成である二巻の大作『モラヴィア民謡新収集』を完成させた。ヤナーチェクは序文に「モラヴィア民謡の音楽的側面」と題する136ページの詳細な論考を寄せた。彼はこの時までに民謡旋律のオーケストレーションや伴奏付けという次元から大きく進んで、民謡を言葉や心理といった要素から把握しようとしていた。

「モラヴィア民謡が言葉から生まれたことを証明するものは、その特別なリズムである。民謡を小節毎に区分けすることは不可能で、言葉によって区分けされうる。先に旋律を作曲し、後から言葉をあてはめることは出来ない...民謡と言葉の響きの境界は変わるために、民謡を追い求めていくと話し言葉になり、話し言葉を追い求めていくと民謡になる...元となる言葉が美しければ、民謡も美しくなる。そして民謡は歌われる環境と時間と雰囲気によって左右される。こうした様々な要素が民謡の旋律とリズムを変える...」

こうしてヤナーチェクは、30代を費やした熱狂的な民謡摂取を通して、かつて学んだ西欧の音楽伝統の束縛から自由になったといえよう。

彼は民謡に息づいているモラヴィアの伝統に自分のアイデンティティを見出した。ラプソディックで熱情的なモラヴィア舞曲に、モラヴィア人である自分の激しい感情との同質性を見て、自分独自の作風として発展させる糸口を得た。そして、陰影に富むモラヴィア民謡のチェコ語の響きの表現力に、独自の音楽語法を創造する可能性を見た。

またヤナーチェクはチェコ語の話し言葉の抑揚が、話し手の心理状態によって同じように陰影を帯びることに着目して、人間の折々の心理・感情を描くのに、最もふさわしい旋律を生み出すための研究を始めた。いわゆる「スピーチ・メロディ」の研究である。

こうして民謡を要素に還元して把握したヤナーチェクは、次第に民謡を自分の主要な作品に直接引用することをしなくなる。そして1894年、40歳にさしかかったヤナーチェクは第3作のオペラ『イェヌーファ』の作曲に取り組んだ。



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