6.結婚、ブルノでの音楽活動


ヤナーチェクはこうして1880年6月にブルノに戻った。そして教職と聖歌隊の指導、そしてブルノ・ベセダ合唱団の指揮を再開した。

この年はチェコの歴史の中でも重要な節目になった。同年4月、オーストリア政府の首相ターフェは、ボヘミア・モラヴィア両州に言語令を発令して、教育と行政機関が住民との対応に用いる言葉として、ドイツ語とチェコ語に同等の権利を認めた。これを受けて、1867年のアウスグライヒ以来議会をボイコットしていたチェコ人は議会に復帰した。

そうした中で6月22日、ヤナーチェクはフランツ・ヨーゼフ皇帝のブルノ行幸に際してベセダと演奏会を行ったが、演奏した曲目には、地元モラヴィアの作曲家たちによる『父祖の地』、『モラヴィアにて』などという曲が入っていた。痛烈な皮肉だった。

ヤナーチェクとズデンカは婚約を発表した。しかし留学前の幸せな予感は、幻滅に変わりつつあった。留学から帰ってきたヤナーチェクは、ドイツ語で話すのを全く止めて、ズデンカにチェコ語だけで話そうと言ったことが発端になった。

ズデンカの周囲でチェコ語を話すのは召使いだけだったので、ズデンカは彼女たちから少しづつチェコ語を覚えた。しかしズデンカの祖母と母はドイツ系でチェコ語をほとんど知らず、特に祖母は家庭内で若い2人が「召使いの言葉」チェコ語で会話するのをひどく不愉快に取った。以前ヤナーチェクがドイツ語で彼女たちと仲睦まじく話していた頃とは空気は一変した。

そしてズデンカの母親が「親類への配慮から、結婚式をドイツ語で取り行いたい。」と言うと、ヤナーチェクは逆上して、婚約はすんでのところで破棄されるところだった。後にズデンカはこうして家族の者はヤナーチェクとの結婚を取りやめにしたかったのだろうと回想している。しかし、母親に「あの人と結婚しても、しあわせにはなれないよ」と言われると、ズデンカは答えた。「ほかの人と幸せになるより、不幸でも彼と一緒になりたい。」

ヤナーチェクはファナティックな愛国者になったわけではなかった。ベセダでの演奏会でも、多くのドイツ音楽を取り上げているし、後年もしばしばドイツを訪問している。ただ彼はドイツ文化の優越を最早信じず、ドイツとチェコの対等の関係を求めた。チェコ人がドイツ語で家庭内で会話するのも、ブルノというチェコの街の市議会がドイツ人の手に握られているのも、彼には我慢のならないことだった。

それは当時のチェコでは、自分も周囲の人間も傷つけることを覚悟しなければ貫けない立場であった。

ズデンカの父は、二人のために快適なフラットを修道院そばにみつけ、家具とピアノも買い与えた。二人の結婚式は7月13日に行われることになった。頬を紅潮させた花嫁は「まるで自分の葬式のために着飾っているように」感じていた。晴れ渡る空の下でドイツ人歌劇場のメンバーが音楽を奏で、ズデンカはバラ色のドレスをまとっていた。しかしヤナーチェクは愛国的な「ソコル運動」の黒い上着を着て現れ、シュルツ家の者を蒼白にさせた。



披露宴に出席したのは、シュルツ家の親類と友人たちだけであった。ヤナーチェクの母アマーリエは当時ブルノのすぐ近所で老いを養っており、ヤナーチェクは結婚したら同居しようと母と約束していたが、それは守られなかった。

伝記作家ヤルミラ・プロハースコヴァーとボフミール・ヴォルニーは「ブルノ師範学校校長のシュルツ一家と、貧困に苦しんだヤナーチェクの母親の社会的な溝は、誰も橋渡し出来るものではなかった。」と言っている。アマリエは息子の立場を察して身を引き、翌年ブルノを離れた。

新婚旅行はそれよりも前途の明るさを感じさせる雰囲気で始まった。夏の休暇で帰郷していたヤナーチェクの教え子たちが、こぞって駅まで見送りに来た。若い2人はまずズデンカの父方の祖父に会いに行き、プラハへ行って花嫁をフェルディナント・レーナー神父とドヴォジャークに紹介した。ドヴォジャークは花嫁があまりに若いのにひどく驚き、「ヤナーチェクの友人が、ヤナーチェクと一緒に連れてきたあの子供さん」と書いている。

ドヴォジャークは新婚夫婦と一緒に カルルシュテイン城への遠足に出かけた。そして同行した友人は遠くに見える完成したばかりのプラハ国民劇場の建物を指し示して、一同は喜びに包まれた。(しかし旅行から帰宅して間もなく、二人は新聞で国民劇場が焼失したことを読み、「親友が亡くなったように」嘆き悲しんだという。)

2人は最後にオロモウツに住む年老いたクシーシュコフスキーを訪ね、新しい生活に入った。


結婚写真。ズデンカは16歳、
ヤナーチェクは26歳だった
火災後のプラハ国民劇場。

プラハ国民劇場は1881年6月に仮落成し、スメタナの祝祭オペラ『リブシェ』で
幕を開けたが、同年8月12日の火災で中心部を焼失し、復旧に2年を要した。
民族復興運動の苦難の象徴として、よく語られるエピソードである。


ヤナーチェクと妻の実家には不和はあったものの、義父シュルツはヤナーチェクが進めていた音楽教育活動を後援した。ブルノ・オルガン学校の設立である。ヤナーチェクはプラハのオルガン学校に留学した時に、同じような学校がぜひともモラヴィアに必要だと思い至ったのである。

そして彼は賛同する者と計らって計画を進めた。ヤナーチェクが新しく設立される学校の校長に選出され、授業科目とカリキュラムが決められた。自前の校舎が準備できない為、シュルツは師範学校の建物を使う様に申し出た。こうして1882年9月にブルノ・オルガン学校は開校した。最初の学生は9人、教師はヤナーチェクを含めて3人だった。

このブルノ・オルガン学校は、ヤナーチェクの音楽教育での最大の業績となった。当初は3年に1回しか生徒を迎えられなかったが、やがて毎年生徒を受け入れる様になり、1919年に国立音楽院に昇格した時、学校は自前の建物と13人の教師、そして186人の学生を擁したのである。現在この音楽院は「ヤナーチェク音楽院」(JAMU)と呼ばれ、プラハ音楽院と並ぶチェコの代表的な音楽学校として、世界中から学生を集めている。

このオルガン学校や師範学校でヤナーチェクに学んだ生徒の回想が、数多く残されているが、彼らが口を揃えて言うのは教育への限りない情熱と、長母音のないラシュスコ方言の「機関銃のような」早口、そして感情の激しさである。ヤナーチェクに学び、後に師の作品を多く初演したヤロスラヴ・クヴァピルの回想を見てみよう。

「ヤナーチェクは父親のように私たちを見守った。彼は私たちの秘密や、家族の様子などを全て知っていた。誰かが病気になると、真っ先に駆けつけて病状を尋ねた。時にそれは具合の悪い事になった。特に学校を休むほど病気が重くないことが見つかった時ときたら! 次の日彼は学校で怒りを爆発させて、その学生をクラスから追い出したものだ。

「そんな目に遭ったのは大勢いたが、多くの場合は長続きしなかった。ヤナーチェクの癇癪はすぐに静まったからである...のんびり考えていたり、冗長な冒険心のない曲を提出すると彼は苛立った...彼の授業は高度な思考の次元から私たちに何かを垣間見せてくれたが、時には理解できなかった。

「彼は自分の芸術的な思考の飛翔や、瞬間的な気分が誰も理解できないでいるのに気付き、彼が瞬時に教室を出て行ってしまうことがよくあった...彼の授業は退屈なことは決してなく、理解力があり、感受性の豊かな生徒は、いつも創造力をかき立てられたものである...」

次は、中学校で歌唱を教えていた時の生徒の回想である。

「ヤナーチェクは中学校で歌唱を教えていた時、とても親切なことで知られていた。彼の魅力的な微笑や優しい目の表情を一度見たら、決して忘れなかった。しかし彼は気性が激しく、怒りっぽく、発作的に怒りを爆発させていた。

「合唱の時誰かが間違うと、ヤナーチェクはどの子が不運にも間違った音で歌ったかをすぐに知り、指揮棒か鉛筆をもってその子に襲いかかったが、それらはいずれも彼の手に握られると、危険な武器となった。しかしわれわれは間もなくこうした扱いに慣れ、それを誇りにさえするようになった。

「おい、先生に今日はひどく怒られちゃった」「頭を指揮棒で思い切り殴られたよ。」ー私たちは、手荒な扱いを受けて自慢したものだ。先生は私が4年生のとき辞められた。先生と別れるのが寂しくて、われわれはみな先生にサインをねだったものだ。」

しかし彼はこうした癇癪を、生徒だけでなくブルノ・ベセダのメンバーにも容赦無くぶつけたから、徐々に彼を憎み、敬遠する動きが表に現れることになった。紆余曲折の末、彼は1890年にベセダとの協力を打ち切るのだが、それまでの活動は留学前と同様に実に活発だった。

この頃のヤナーチェクはベセダ・フィルと合唱団を率いて、同時代の音楽を次々に演奏した。中でもベセダのメンバーに人気があったのはドヴォジャークで、常に演奏会の曲目に入れられた。中でも大規模なカンタータ「スターバト・マーテル」(1882年) と「幽霊の花嫁」(1888年)の上演が特筆される。スメタナも2度上演(「ヴルダヴァ」1882年、「ヴィシェフラット」1886年)されたが、ドヴォジャークほど人気はなかった。

ほかに演奏された作品は、フィビヒ、ブラームス(「運命の歌」など)、シューマン の「夜の歌」, チャイコフスキー、サン・サーンスとリストであった。またヤナーチェクは古いポリフォニーの大家たちの作品や、クシーシュコフスキーの作品も忘れなかった。そして1882年の9月末、オルガン学校が開校して間もなく、ヤナーチェクは歌唱とヴァイオリン演奏を教える学校をベセダに設立して、自ら校長となった。

同じ頃、ブルノではもうひとつ重要な出来事が起こった。プラハに遅れること3年で、ブルノにもチェコ人のための劇場が設立されたのである。とはいっても、カフェとダンスホールを改築した小劇場に過ぎなかった。同じ頃に建設されたドイツ人歌劇場の堂々たる建物と比較すると、両勢力のブルノでの経済力の格差を露骨に反映していて、痛ましい思いがするほどである。しかし、これでチェコ語による演劇とオペラを上演する舞台が、ブルノにもできたわけだった。

チェコ人劇場跡地。ヴェヴェジー通りに面しているため、
「ナ・ヴェヴェジー劇場」と呼ばれた。戦後、取り壊され、
跡に建てられたのは旧共産党本部です。
ドイツ人劇場(現マーヘン劇場)


ブルノのチェコ人はこの報に沸いた。中でも積極的に動いたのは今度もヤナーチェクだった。彼はこのささやかなチェコ人歌劇場を後援するために、ベセダに諮って『フデブニー・リスティー』(音楽通信)という名の音楽新聞を創刊した。その新聞には新劇場での演目や、ブルノ・プラハでのチェコ人の音楽活動についての記事が掲載された。そして1884年12月6日、ブルノのチェコ劇場は開幕した。

このブルノ初のチェコ劇場の「オーケストラ」の人数は当初たった12人で、指揮者は小オルガンに座って、欠けている楽器のパートを弾きながら指揮をしたというから、上演の水準は推して知るべしである。それでも1984年から85年にかけて、スメタナの『売られた花嫁』や『接吻』、ヴェルディの『イル・トロヴァトーレ』やスッペの喜歌劇などが上演された。1885年には、23歳の新進気鋭の作曲家・指揮者のカレル・コヴァジョヴィツ(1862-1920)が着任して、演奏の質は向上した。
当時のボヘミアの作曲家たち。
左からカレル・ベンドル、ドヴォジャーク、フェルステル、コヴァジョヴィツ、フィビヒ


彼は強談判の末オーケストラを18人に増強させて、指揮者がオルガンを弾きながら指揮をするのを止めさせた。この頃コヴァジョヴィツはヤナーチェクと知り合い、ヤナーチェクの指揮したベセダの演奏会に足を運んでいる。その演奏会ではドヴォジャークの『ビーラー・ホラの後継者たち』(作品30、B102)と交響曲第4番、クシーシュコフスキーの『溺死した娘』が演奏され、コヴァジョヴィツは8歳年上のヤナーチェクとベセダに好意あふれる批評を『フデブニー・リスティー』に寄せた。

「素晴らしい合唱と、指揮者の確かなコントロールによって、作曲家たちにとって栄冠となる演奏会となった。この偉大な演奏は、この地方だけでなく、チェコ全体の音楽界に大きな影響を与えることだろう。」

しかし翌年、コヴァジョヴツが弱冠21歳で作曲した『花婿』というオペラが上演されると、ヤナーチェクは『フデブニー・リスティー』で酷評した。

『花婿』は..観衆を何度か笑いの渦に巻き込んだ。この作曲家の音楽的な才能は序曲で証明されている。不規則な和声と進行で、人の耳を悪くする才能である。」

こうして2人の仲は決裂してしまう。後にプラハ音楽界の大物になったコヴァジョヴィツは、この時の恨みを長く忘れなかった。

しかし、ブルノのチェコ劇場のオペラ上演は、ヤナーチェクに貴重な経験を与えた。彼はオペラをそれまでほとんど聴く機会がなかったし、チェコ語のオペラは尚更であった。そして既存のチェコ語のオペラを観劇し、その感想を『フデブニー・リスティー』で文章にすることは、自分の目指す音楽を客体化する上で有益だったことだろう。

1886年2月24日に彼は『フデブニー・リスティー』に歌劇場の改善提案を寄稿しているが、その中には興味深い意見が見られる。「正しく歌われた言葉は、音楽のリズム、音楽の旋律と響きを帯びる...」「われわれは、まだ「美的な」チェコ語を持っていない...美しい発声が劇場で聴ければ、多いに改善されることだろう。」「なぜ、民族衣装をまとった民俗的な劇やオペラを上演しないのだろう、ここモラヴィアには沢山の種類があるのに?」 やがて彼はこれらを自分のオペラで実践しようとする。

一方、妻ズデンカとの関係は危機を迎えていた。結婚以来自分の活動に没頭していたヤナーチェクは、ほとんど妻を顧みる時間が無かった。それに11歳でブルノの修道院に入り、家族の暖みを知らずに育ったヤナーチェクは、自分の家庭では時にひどく傲慢な夫となった。

1882年8月14日、ズデンカは出産予定日を明朝に控えていたが、ヤナーチェクは自分の選んだ修道院広場(現メンデル広場)の新しいフラットに引っ越すことを決め、その通りに実行した。またズデンカが実家に戻って出産したいと懇願すると、ヤナーチェクは激怒して家を出ていき、ズデンカは翌日陣痛が始まると、足を引きずって実家に帰ったという。そしてズデンカは女の子を出産し,ロシア風の名を取ってオルガと名付けられた。

しかしヤナーチェクは生まれた子が男の子でなかったことに落胆を隠さず、オルガが夜泣きすることに怒ったことが、2人の感情のもつれを決定的なものにした。 そしてある日の口論で、ヤナーチェクが母をこのフラットに連れてきて、お前を教育し直してやると言うと、ズデンカは遂に癇癪を切らして実家に帰った。

アウグスチノ修道院の老院長が仲裁に入ったが、ズデンカは耳を貸さず、2人は別居生活に入った。今度はズデンカも容赦しなかった。彼女は法廷の許可を得て、自分のすべての家具と、持参金代わりのピアノを夫婦のフラットから運び去ったのである。

一方、離婚については法廷が仲裁に入り、ヤナーチェクはオルガの養育費として月に25ズラティーを払うことに同意した。代わりにヤナーチェクは週に1度娘に面会する許可を求めたが、ズデンカは自分が同席することを条件にした。それもヤナーチェクがオルガを「誘拐しないように」見張るためだったというから、若い夫婦の間に入った亀裂の深さには痛ましい思いがする。

別居は過酷なことに2年間続いた。ヤナーチェクはズデンカと義母に詫びを入れて和解を求めた。ズデンカは長い間迷ったが、1884年の夏になって、ようやく幼い娘を連れて夫の許に帰った。夏の休暇の間に夫婦は療養を兼ねて温泉に行き、2人はとうとう元の鞘に戻った。

しかしこの別居は時機が悪すぎた。ヤナーチェクの母アマーリエは息子の結婚後間もなくブルノを去り、娘の嫁ぎ先を頼ったのだが、そこでも邪魔扱いをされて、最後にフクヴァルディに残っていた娘の許に行った。しかしフクヴァルディに着いた時には、末期の癌に侵されていた。

こうした間、妻と別居していたヤナーチェクは、母を呼び寄せることをしなかった。別居のそもそもの原因は母との同居をめぐる口論が発端だったので、呼び寄せれば和解の可能性が無くなるのを恐れたのだろう。妻と和解した時にはもう手後れだった。 1884年11月16日にアマーリエは死去した。

ヤナーチェクは健康を害していたために、葬式にも参列できなかった。ヤナーチェクは長い間ひどく悲しんで、後には晩年の母を介抱できなかったのは、妻のせいだと思い込むようになった。後年のヤナーチェクの手紙には、晩年の母と暮らせなかったのは妻のせいだと怒っているくだりが見られる。(1921年2月14日付)

夫婦の間はこうした誤解やすれ違いが続いたが、1888年5月16日、待望の男児が生まれた。オルガと同じようにロシア風の名、ウラジミールと名付けられた。

ウラジミールは父親譲りの黒い目に金髪の髪、黒いまゆ毛、滑らかな肌をした元気な赤ちゃんだった。坊やは一日中笑ったり歌ったりしていて、ヤナーチェクはその歌の音が合っていたり、ピアノに興味を示したりすると、坊やを腕に抱いて、この子は将来音楽家になると周囲に言うのだった。

しかし1890年の10月、オルガがしょうこう熱にかかった。。五週間するとオルガはほぼ回復したが、今度はウラジミール坊やにうつった。病状は急速に悪化して脳膜炎になり、そして坊やは二日後の11月9日の朝に、2歳半でこの世を去った。そして夫婦の絆はまたも断たれた。

2歳のオルガ ウラジミール

こうして、多事多難の中、ヤナーチェクのブルノでの音楽活動は軌道に乗り始めたが、作曲家としては不振な時期であった。ウイーンから戻った4年間、彼はほとんど作曲をしていない。公的な活動で多忙だったことと、妻との不和も一因であろうが、ウイーンの作曲コンクールでなめた屈辱は、彼の心中に深く突き刺さっていたと思われる。

1885年にヤナーチェクは、自分の作曲活動の原点に戻って、民謡に取材した合唱作品を書き始めた。それが混声合唱曲『野鴨』、そして『4つの男声合唱曲』である。

ヤナーチェクは『野鴨』を、勤務先の中学校の教材として作曲した。猟師に撃たれた母鴨が、死ぬ間際に自分の育てた子鴨たちのことを思い浮かべるという、スシルの民謡集に収録された民謡の歌詞に、新たに旋律を付けた曲である。

『4つの男声合唱曲』は『脅し』、『おお、愛よ』、『ああ、軍隊よ、軍隊よ』そして『お前の美しい目』の4曲で、1885年前半頃に書かれた。最初の3つは『野鴨』と同じく、スシルの民謡集に新たな旋律を付けた曲である。第2曲ではかつてスヴァトプルク合唱団のために書いた『はかない愛』の歌詞をもう一度使っている。しかし曲は民謡の歌詞のドラマを劇的に描く手法には、これまでの作品には見られない大胆さがある。

「ああ、軍隊よ、軍隊よ」(77.0KB)

*上記の作品をカワイのフリーソフト「スコアプレーヤー」を使って実際に聴き、
譜面をダウンロード頂けます。

  


この曲集を捧げられたドヴォジャークも、1886年9月13日付のヤナーチェクに宛てた献呈を感謝する手紙の中で、驚きを隠さなかった。

「正直に言って、多くのパッセージと特に和声進行にはびっくりさせられて、私はうろたえた...けれどこれらの曲を通して1回、2回、3回と弾いてみると、私の耳は慣れて、結局のところこれでいいと思うようになった。しかしこれらの曲では君とずいぶんやりあうことになったかもしれない。」彼は続けて書いている。「これらの曲は真実のスラヴ魂を放射している...そして魔法的な効果をもつパッセージがある。」

長年の親友ドヴォジャークの率直で好意的な感想に、ヤナーチェクは力を得たことだろう。彼は再び作曲活動に本腰を入れだした。そして1887年に、今度は一足とびにオペラの作曲に挑戦した。

「シャールカ」の伝説は、スメタナが『我が祖国』で音楽化したことで有名だが、19世紀のチェコの芸術家が競って取り上げた題材であった。ドヴォジャークもこの題材でオペラを書くことを考え、詩人ユリウス・ゼイエル(1841-1901)に台本を依頼した。ゼイエルは台本を書き上げたが、ドヴォジャークが一向に着手しないので雑誌に発表し、それがヤナーチェクの目に触れたのである。

ゼイエルの韻文による台本は、チェコの伝説にワーグナーの『指輪』を足して2で割ったようなロマンチックなもので、ヤナーチェクが後に取り上げた台本と比較すると、ひどく異質な感じがする。しかしチェコの伝説を取り上げることで、スメタナをはじめとする先輩たちに続きたいという青年らしい覇気をあっただろう。

ヤナーチェクは作曲に没頭し、わずか5ヶ月ほど後にドヴォジャークに全曲のヴォーカルスコアを送った。ドヴォジャークは「まずまずの出来だが、手紙よりも顔をあわせて話し合いたい」と返事したが、それも待たずに彼はゼイエルへ作曲許可を求めた。ゼイエルはきっぱりと拒絶した。ドヴォジャークではなく無名のヤナーチェクが勝手に自作を使ったことに立腹したのだと思われる。

それにもかかわらず、ヤナーチェクは翌年の前半に、恐らくはドヴォジャークの助言に従ってほぼ全面的に書き改めて、第1幕と第2幕の総譜を作成した。だがさすがのヤナーチェクもここで断念し、作品はお蔵入りになった。

しかし30年後に、このオペラ『シャールカ』は日の目をみることになった。1918年ヤナーチェクはその楽譜を見つけると、ゼイエルから著作権を遺贈されていたチェコ学術院に作曲許可を求め、快諾を得た。そして弟子の力を得て改訂し、ついに1925年11月11日にブルノで初演された。

このオペラは今日でも滅多に上演されない。1時間ばかりという中途半端な長さのせいもあるが、何よりもフィビヒのオペラ『シャールカ』の陰に隠れているからである。それでもこのオペラは若きヤナーチェクの意気込みを伝える佳作と言える。ロマン派的な合唱の多用など後年のオペラと全く異なった特徴もあるが、真摯な性格描写は、ヤナーチェクの作曲家としての成長を見事に証明している。

民謡編曲とロマン派風のオペラ・・・この頃のヤナーチェクの併存する作風は、彼の揺れる心境を反映していると言ってよいだろう。ドイツへの留学、そしてズデンカの実家との反目は、彼にチェコ人としてのアイデンティティを考えさせる契機となった。自分はモラヴィアのチェコ人でありながら、ロシアとドイツの音楽を愛し、ドイツに音楽を学びに行った。そして自分の作る曲はチェコ語の民謡の歌詞に、時としてドイツ風の和声を付したものか、ドイツ・ロマン派の焼き直しである。

本当のチェコ音楽、モラヴィア音楽とは何か。その答えを見つけるまでに、彼はまだ10年近くを必要とした。それはヤナーチェクらチェコの音楽家だけではなく、独立運動に揺れるハプスブルク帝国領の各民族の音楽家が等しく悩んだ問題であった。後にハンガリーのバルトークも、自分の音楽の民族的アイデンティティの確立に悩み、2人は期せずして同じ道を歩むことになった。民謡の研究である。



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