5.ライプチッヒとウイーンへの留学
ヤナーチェクは1879年10月上旬からライプチッヒ音楽院の授業に出席し、熱意に燃えて勉強に没入した。日に4,5時間ピアノを練習し、作曲を試み、演奏会に通い、楽理の参考書を深夜まで読みふける毎日が続いた。その合間にヤナーチェクはベルリオーズの「管弦楽法」を読み、オーケストラの練習に頻繁に顔を出して様々な楽器の音色を熟知しようとした。
2ヶ月後の12月に音楽院が渡した考課表で、各教授はヤナーチェクを口を極めて誉めている。
ピアノ演奏 (E.F.ヴェンツェル)
大変有能で、聡明かつ勤勉な学生。素晴らしい上達を示し、近い将来の大成が大いに期待される。
オルガン演奏 (W.ルスト)
才能があるだけでなく、勤勉である事も示した。私は彼に大変満足しており、まれに見る熱心さで臨んでいる学業を修了する機会が与えられることを熱望している。そうすれば将来真に傑出した音楽家となることであろう。
楽理及びピアノ演奏(オスカル・パオル)
稀に見る勤勉さを示した。非常な作曲の才能と音楽理論の素早い理解、対位法の演習とフーガの課題を行う際に示した根気良さは、素晴らしい成績に導いた。ピアノ演奏でも立派な成績を収めた。彼は徹底してテクニックを磨き、鋭敏なフレーズの感覚は、ピアニストとして成功を収めることを大いに期待させる。
当時レオ・グリルやパオルの下で作曲した作品は後に多くが破棄されたが、数曲が今日まで伝わっている。その中の一曲「ヴァイオリンとピアノのためのロマンス」は6分ほどの小曲で、メンデルスゾーン的な抒情を描こうと苦心惨澹している姿が目に浮かぶ。ズデンカに宛てた手紙でヤナーチェクは書いている。「ここでついに、僕はついに喜びを書くことができた。愛しいズデンチ、ぼくの幸せの人よ」
しかし、彼は強い孤独感とホームシックに悩まされ始めた。「仲間の生徒には、一人として共感できる者も、ぼくに接近してこようとする者もいない。」と彼は10月30日にズデンカに書き送っている。話相手のいないヤナーチェクは毎日ズデンカにドイツ語で手紙を書き、学校でのあらゆる出来事を伝え、愛を語って、心の慰めを求めるのだった。
やがて彼はライプチッヒでの教育内容にも疑問を持ちはじめた。初めに幻滅したのは合唱と歌唱の授業だった。授業が物足りなかったのだろう。特にライネッケによる「ミサ・ソレムニス」の練習は、彼には我慢がならなかった。
「私は第一バスに入れられた。緩慢なテンポ。全てが自己満足。気が狂いそうだった。そもそも私はこの曲を指揮したことがあるのではなかったか?」
そしてこの2つの授業は、2、3回出ただけで二度と出席しなかった。
ピアノや作曲といった主要課目の授業にも反抗的になった。当時71歳のピアノのヴェンツェル教授は、教えるには年を取りすぎていた。グリルは楽理に厳密に作曲することを求めたので、ヤナーチェクは自暴自棄になってズデンカに書き送った。「グリルの望むように作曲しなければならないならば、ひらめきというものを忘れ去らなければならない。」
11月22日に、ヤナーチェクは崇拝するアントン・ルービンシュタインの演奏会に行った。そしてルービンシュタインが自作のピアノ6重奏曲のピアノパートを暗譜で流麗に弾きこなすのに圧倒されて、ライプチッヒ音楽院の教授たちより、もっと偉大な教師について学びたいと考えた。そして学期の後半はパリのサン・サーンスのもとで学びたいと打ち明けている。
しかしズデンカは、ヤナーチェクが「旅するヴィルトゥオーソ」になりたがっていると誤解して反対し、仲違いした。
もっとも、この不和はクリスマスにヤナーチェクがブルノに帰郷し、シュルツ一家と共に過ごすことで解けた。ヤナーチェクのひどいホームシックに同情したシュルツ夫妻が、帰郷のための交通費を立て替えて家に招待したからである。一家とヤナーチェクは幸せなクリスマスと新年を迎え、ヤナーチェクはライプチッヒに戻って勉強を続けた。
1880年1月から2月にかけて、グリルの授業のために書かれたのが『主題と変奏 変ロ長調』である。ヤナーチェクはズデンカへの手紙の中で、愛する彼女のことを思いながらこの曲を書いたと言っており、そのため「ズデンカ変奏曲」と呼ばれることがある。シューマンの作品を思わせる感傷的な主題と、ベートーヴェン、シューベルトやブラームスの影響がほの見える各変奏は、後年の作品とは全く異なっているが、それでも魅力のある佳品である。
ズデンカ変奏曲(抜粋) 191KB
*7つの変奏の内、5つを収録。
この曲を書き上げると、ヤナーチェクはライプチッヒを去り、ブルノでイースターの休日を過ごすと、4月にウィーンの音楽院に転入した。
こうして、ヤナーチェクはライプチッヒをわずか5ヶ月余りで去ることになった。彼を嘱望する教授たちに別れを告げ、ほとんど敵意のような感情をもってである。実際にはライプチッヒで得たものは大きかった。回想の中でも「私はこのライプチッヒ、世界で最も音楽的な街での生活に馴染んだ。本当にたくさんの演奏会に通った。そして、音楽形式を徹底的に学んだ。」と認めている。特にニキシュ指揮のゲヴァントハウス・オーケストラの演奏会と、毎土曜日の聖トーマス教会での教会音楽の演奏会に熱心に通ったことは、ブルノやプラハでは経験できない音楽経験をもたらしただろう。
それではなぜ、振り切るようにライプチッヒを離れたのだろう? 勿論良い友人に出会えず、孤独に苦しんだことはあろう。しかし、ドイツ文化のひとつの中心地にあって、彼はドイツ文化の盲目的な憧れを拭い去るとともに、チェコ人としての誇りを自覚を強く感じさせるような出来事に遭ったのではないだろうか。実際この後のウイーンでは、彼は音楽院に対して傲慢とすら言える態度に出るのである。
さて、イースターの休暇をブルノで過ごした後、ヤナーチェクはウィーンに1880年4月1日に到着し、その日のうちに音楽院に入学を認められた。当時の院長はヨゼフ・ヘルメスベルガーで、教授陣にはブラームスの友人ユリウス・エプシュタイン(ピアノ科)や、アントン・ブルックナー、ロベルト・フックス(共に作曲科)などの顔ぶれが揃っていた。
ヤナーチェクが登録したのは、ピアノ科のヨゼフ・ダフスのクラスと、作曲科のフランツ・クレンのクラスだった。しかし前者の授業はすぐに止めた。ダフスはライプツィヒで学んだばかりのピアノ奏法を変えるように強く求めたからだった。結局彼は一ヶ月たらずでピアノの授業に出なくなった。
こうしてヤナーチェクは当時64歳のフランツ・クレンのクラスに熱心に通った。クレンはグスタフ・マーラーがウィーン音楽院で学んでいた時の作曲の教師で、マーラーは彼の指導下で2年前にピアノ5重奏曲で作曲の一等賞を取り、卒業していた。このクレン教授は、
「おそろしく厳格な先生だった。才能のある衝動的な生徒たちにとって、クレンの情味のないしごきに慣れるのは、容易なことではなかったにちがいない。マーラーの同級生だったフーゴー・ヴォルフはクレンの授業に我慢できず、ある日院長に向かって、こんなところにいては憶えるより忘れることの方が多いから音楽院をやめたいと宣言した。これが懲罰問題に発展して、ヴォルフは退学を命じられた。」(注1)
(注1)「マーラー、未来の同時代者」
クルト・ブラウコプフ著 酒田健一訳 白水社
p.50
しかしヤナーチェクから見れば、厳格でないのはクレンの方だった。彼は音楽形式の勉強を修了させたいとクレンに希望し、その希望通り授業は始められた。しかしヤナーチェクは第一回目の講義から、クレンがグリルのような周到さと厳格な理論を欠いているように感じたという。
当時のウイーンは、47歳のブラームスが活発に作曲活動を繰り広げる中、ワーグナーもまだ存命(1883年没)で、その壮大なオペラがバイロイトをはじめとするヨーロッパ中の歌劇場に響き渡り、音楽を志す若者たちを虜にしていた。ブルックナーも第4交響曲を作曲中であった。ワーグナー派とハンスリック率いるブラームス派の対立がウイーン中を沸かしていた。
ヤナーチェクの回想によれば、仲間の学生たちは「ワーグナー風の大言壮語に憂き身をやつしていた」というが、クレンの教授法も、保守的なライプチッヒの教授たちより、ロマン派の影響が強かったのであろう。「プラハとライプチッヒで学んだことは全部忘れる必要がある。彼の地の音楽院もそれぞれ美点を持っているが、時流に遅れているから、とここの者は言うのだ。」と彼はズデンカに書き送っている。
ヤナーチェクは週3回の作曲のクラスに毎回新しい習作を持参し、ヴァイオリンソナタ (消失)を書き上げた。同じ頃彼はヴィンツェンツ・ジュスナーの詩による連作歌曲「春の歌」を作曲した。クレンはジュスナーが自分の詩へ曲を付けるのに懸賞を出しているので、応募するようヤナーチェクに薦めたのである。
またウィーン音楽院は、毎年6月に作曲コンクールを催していた。ヤナーチェクも応募するよう求められ、ヴァイオリンソナタを提出した。当日、エプシュタインら3人の審査員はその緩徐楽章のみを聴いた。ヤナーチェクの見たところ、同じ作曲部門の応募者でもあったユリウス・フォン・ヘルツフェルトはひどく無関心に演奏した。
蓋を明けると、ヤナーチェクの作品は「あまりにもアカデミック」という理由で予備審査で落とされ、一方ヘルツフェルトの作品は本選で一等賞を得た。
ヤナーチェクは激怒した。その日ズデンカに書き送った手紙から、彼の心中はよく読み取れる
「こうして書いているけれど、今の気持ちを現わす言葉が見つからないほどだ...僕は自分のソナタは審査で弾かれた中で最高の作品だったと信じている...ソナタを書いていた時、僕はしっかりした結尾部に至るソナタ形式の模範例を書くことを念頭に置いていた。他の連中によるソナタは一楽章しかなくて、どれもこれもソナタ形式では書かれていなかった...僕は音楽院長に手紙を書き、他の応募作品の誤りを分析して指摘するつもりだ。愛しいズデンチ、そうでもしなければ、こんな状況で勉強を続けることは出来ない...血が沸騰する思いだ。」
翌日、彼は語気の荒い抗議状を審査委員宛に書き上げ、その中でアダージョを選んで演奏したことが自作には不利であり、もう一度他の楽章も演奏されるべきであること、更には音楽雑誌にコンクールの全容を暴露するとまで書いた。彼はこの抗議が聞き入られなければ、音楽院を退学するつもりだった。
抗議文は何の反応ももたらさなかった。そしてヤナーチェクは憤りを抱いたまま、6月上旬にウイーンを後にした。ジュスナーの詩による歌曲の懸賞の結果も見ずにである。その方がよかっただろう。審査員にはクレンも入っていたにもかかわらず、またもや落選の憂き目をみることになったからである。しかも第2席には、音楽院のコンクールで優勝したヘルツフェルトが入っていたのだから。
こうしてヤナーチェクはわずか2ヶ月余りでウィーン音楽院とも決別することになった。不幸なことであっただろう。しかし、ヤナーチェクにはもう自分の進む道はドイツにはないと考えたのではあるまいか。古典派の牙城であったライプチッヒの教育に幻滅を感じ、当時ドイツ語圏で音楽文化の先端を切っていたウイーンの音楽にも違和感を感じ、コンクールの結果が出てすら、自分が正しいと譲らなかったのであるから。もう学ぶべきことは無いと思ったことであろう。この後ヤナーチェクは第二の故郷ブルノでの活躍に専心することになる。
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