4.若き音楽教師


プラハの旧市街の一角にあったオルガン学校は、プラハの音楽教育のひとつの中心であった。ヤナーチェクが入学した17年前には、当時16歳のドヴォジャークが2年間在学している。ヤナーチェク当時の全課程は3年で、主教科のオルガン演奏の他に、次の教科が課せられていた。

1年目 楽理、和声、数字付き通奏低音、典礼聖歌
2年目 和声、厳格対位法とポリフォニー、音楽史
3年目 管弦楽法、自由対位法

ヤナーチェクは、学校から得た1年の休暇の間に、音楽教師の資格を取るのに必要な最初の2年分の教科を学び取らなければならなかった。しかし彼は入学試験の口頭試問で、幸先の悪いスタートを切った。

「属七の和声は、どう解決されるかね?」
 沈黙。
「7の音は下がり、3の音は上がり、5の音は上がり、 基音は下がるのだ。この学生は知らないようだ。」
「私の頭の中では、次の音が鳴っていた。」

「7の音は下がらない。3の音は上がらない。5の音も上がらない。基音も下がらない。」

幸いにも、クジージュコフスキーが学校側に取りなしたお陰で、校長スクヘルスキー(1830-1892)はこのブルノから来た若者に入学許可を与えた。それにしても、これは楽理の問題なのに、自分の我を通すために黙っているとは驚くべき強情さである。

さて、オルガン学校に入学したヤナーチェクは、寸暇を惜しんで勉強に励んだ。しかし彼は学費が不足していて、ピアノを借りる金がなかった。仕方がなく彼は机にチョークで鍵盤を書き、それでバッハの『プレリュードとフーガ』をさらったが、「生きている音」が欲しくて気が狂いそうになったという。

知り合いで、教会音楽雑誌『キリル』の編集者であったフェルディナンド・レーナー神父(1837-1914)は、ヤナーチェクの窮状を見かねて、ひそかに彼の下宿にピアノを入れるように手配したらしい。ヤナーチェクは後に回想している。

「ある日、シュチェパーンスカー通りにあった私の小さな部屋に、突然ピアノが現れた。その話を雑誌『キリル』の編集者レーナー神父に伝えると、彼の親切な顔に、悪戯っぽい微笑が浮かんだ。そして学期の終わりに、ピアノは現れたときと同じように、不可思議にも消え失せた。」

季節が冬になるにつれて、空腹を抱えた貧乏学生ヤナーチェクは、暖房の無い部屋で寒さに震えるようになった。その頃の彼の肖像写真を見ると苦学生活で憔悴し、近眼となって鼻眼鏡をかけていた様子が窺える。しかし眼鏡の下の眼光は鋭く、困難に屈しない意志の強さを感じさせる。

学校での勉強以外にも、プラハでは重要な出会いがあった。
彼は国民劇場のすぐ裏手にある聖ヴォイチェフ(アダルベルト)教会へしばしば足を運んだ。この教会の合唱指揮者ヨゼフ・フェルステル(作曲家 J.B.フェルステルの父)は、古典派以前の作曲家によるア・カペラの教会音楽の傑作を、次々と蘇演していたからだった。



当時のヤナーチェク
彼はその教会でオルガニストを勤めていた学校の先輩、アントニーン・ドヴォジャークの知り会い、2人はすぐに親友になった。ドヴォジャークはこの年の1月にオーストリア帝国の奨学金を得て、作曲への意欲を燃やしていたから、若きヤナーチェクは刺激を受けたに違いない。

また、ドヴォジャークの紹介で、ヤナーチェクはモラヴィア出身の裕福なプラハ市民、ヤン・ネフ夫妻のサロンに出入りすることになったが、ドヴォジャークが夫妻の依頼でフランチシェク・スシル神父の民謡集の歌詞から『13のモラヴィア2重唱曲』を作曲し、夫妻の手で出版されるのを目にして、いつか自分の作品が出版される日のことを夢見たことだろう。

もう一人、チェコ音楽の偉大なパイオニアであるスメタナには、演奏会で遠くから姿を見たことがあるだけだった。スメタナはこの頃既に耳が聞こえなくなっており、楽壇から身を引いていたからである。1875年4月4日に催されたその慈善演奏会では、『わが祖国』から『ヴィシェフラット』と『ヴルダヴァ』が初演された。ヤナーチェクは30年以上経ってから、その演奏会の模様を回想している。

「私のスメタナの思い出は、子供が神様のことを想像する時のように、霞がかかっている。あれはスメタナにとって運命の年、1874年のことだった。 演奏が終わると、耳をつんざくばかりの拍手と「スメタナ!」と叫ぶ声が湧き起こった。...聴衆は病に苦しむスメタナを舞台に導いた。彼の顔が私の 魂に刻み込まれた。今日でも、はっきりと思い出すことができる。しかし霧の向こうから聞こえる、かすかな音のようにである。私の目はスメタナに 釘付けになっていて、ほかのことは耳にも目にも入らなかった。」

このプラハのオルガン学校留学中に、ヤナーチェクは教会音楽の作曲を試みている。目を引くのは、オルガン学校修了の前に集中して書かれたオルガン曲であろう。中でも『コラール・ファンタジー』は7分に及ぶ堂々たる作品である。ヤナーチェクは長年父親代わりとして自分を慈しみ、音楽家への道を導いてくれたクジージュコフスキーに感謝を込めて、この曲を作曲したと思われる。曲中にクジージュコフスキーのカンタータ『聖キュリロスと聖メトディオス』の終結部のコラールが引用されているからである。

ヤナーチェクはこの作品を、バッハの『トッカータ ハ長調』とともに1875年7月22、23日の試験で演奏し、オルガン学校での勉強を修了した。成績は全教科とも「優」であったが、数字付き通奏低音の演奏だけは「良」であった。

このオルガン学校での1年が終わると、ヤナーチェクはすぐに夏休みを取り、モラヴィアを歩いて巡った。2年間の課目を1年で学び、しかも優等だったという満足感と、苦しい日々を乗り越えたという達成感が足取りを軽くさせていたに違いない。
彼は楽しげに回想している。

「ブジェツラフ城、その翼廊の一階には医者が住んでいた。モラヴァ川を渡ってストラージュニツェに出た。ピーセク村の松林を通ってもう一度モラヴァ川を渡ると、ズノロヴィ(訳注 現ヴノロヴィ)の小さな教会に向かった。(訳注 そこで叔父ヤン・ヤナーチェクが司祭を勤めていた)。小さな町ヴェルカーが、丘にへばりついている。ブジェツラフ城には、医者の娘がいた。ストラージュニツェ...ズノロヴィの橋の向こう側の娘たち。その中にビェタ・ガザルコヴァーがいた。」

「炎のような色の民族衣装と、情熱的な歌!ヴェルカーでは、年老いたあごひげのマルチン・ゼマン,スリヴォヴィツェ酒,そしてフィドル弾きのトゥルン, バグパイプとヴァイオリンとツィンバロム ーここが我が学生時代の楽園だった。『イエヌーファ』の最初の種が蒔かれたのは、まさにこの地だっのだ。」

この旅行で、彼は淡い恋も経験している。ヤナーチェクは1927年に『私のタトラの恋人』というエッセイを書いて、その時の思い出を公にした。

「その学生は、ビェタ・ガザルコヴァーに恋に落ちた。ズノロヴィの農場から来た、花のような娘だった。彼は愛を打ち明けなかったから、あの子はそんなことは思いもよらなかっただろう。」

「その子は彼の『タトラの娘』になった。そして、司祭が聖書をいつも持っているように、そのハーレクの詩集をいつも持ち歩いていた....休暇が終わり、おとぎ話も終わる時が来た。」

そして彼は女中に頼み、その詩集を恋の形見として ビェタ・ガザルコヴァーに届させたのだった。

「私はそれ以来、ハーレクの詩を読んでいない。1926年、ズノロヴィの人にビェタ・ガザルコヴァーのことを尋ねたが、知っている人は誰もいなかった」とエッセイは結ばれている。

夏休みが終わると、ヤナーチェクは師範学校での教員として勤務の傍ら、音楽教師の国家試験に備えた。彼は1875年の10月中旬にプラハで受験し、優秀な成績で合格した。そして1878年10月に追加試験のヴァイオリン演奏に合格し、1880年にブルノ師範学校の音楽教師の辞令を受けた。

こうして彼は念願の音楽教師の道を歩み始めた。そしてプラハ行きの前から引き受けていた、「女王の修道院」での合唱指導と、スヴァトプルク合唱団の指揮を再開した。その傍ら、彼は弦楽作品の作曲にも挑戦している。プラハ留学時代には『トヴァチョフスキーの思い出に』(注)という副題を持つ短い弦楽六重奏曲を書いているが、ブルノに戻ってから早々にも4つのヴァイオリンのための小曲(ズニェルカ)2曲が書いている。これらの小品は、先輩ドヴォジャークのようなオーケストラ作品を書くための手習いだったのだろう。

(注)トヴァチョフスキー=フェルヒゴット(1824-1874)は、当時ブルノで愛唱されていたモラヴィア出身の合唱曲の作曲家。

さて、スヴァトプルク合唱団の指揮者として復帰すると、彼はもう一度男声合唱に取り組んだ。1876年1月23日の演奏会では、旧作の『耕作』、学生時代に書いた独唱曲『君が僕を好きじゃなくっても、それがどうだっていうの?』と、合唱曲『まことの愛』が初演された。

この時期のほかの合唱作品には『あの人の気が知れない』、『沈んだ花輪』、葬送の歌『安らかに眠れ』などがある。これらの曲のうち『まことの愛』『あの人の気が知れない』、と『沈んだ花輪』は、『民謡のこだま』の名で3曲集として出版された。第3曲『沈んだ花輪』は、母の出身地プシーボルの美しい民謡の編曲で、スシルの民謡集450番に収められている。

『まことの愛』こちらで実際に聴けます。
試聴にはカワイの「スコアプレイヤー」をダウンロードください。



しかしヤナーチェクとスヴァトプルク合唱団との協力関係は、この1月の演奏会をピークに冷めていった。ヤナーチェクは翌月にブルノ・ベセダの合唱団指揮者に選出されたからである。彼は喜んで引き受けた。なぜならブルノ・ベセダはチェコ系の有力な市民の親睦団体で、自前の会館とホールを持っており、スヴァトプルク合唱団より資金もあり、芸術面での可能性も高かったのである。それからしばらくの間ヤナーチェクは2つの合唱団を掛け持ちしたが、結局10月にスヴァトプルク合唱団を辞任した。

ヤナーチェクはブルノ・ベセダでの活動に、有らん限りの情熱を注いだ。メンバーもそれに応え、演奏曲目に大規模なオラトリオやカンタータを選ぶことになった。そのためヤナーチェクの就任2ヶ月後、ベセダ合唱団は女声を加え、混声合唱団となった。

それから留学を挟んで1889年までの13年間、ヤナーチェクはベセダをブルノのチェコ人市民による音楽活動の拠点とし、オーケストラを置き、音楽学校を併設し、演奏家や作曲家を招いての演奏会を催すなど、活動の発展に尽すことになる。また、自作の演奏の場を手に入れたことで、彼は創作活動を合唱曲からオーケストラ作品にまで広げた。

その活発な活躍ぶりは、就任から1879年9月に留学のために活動を中断するまでの2年半余りの間に、ヤナーチェクが指揮した主な演奏会と発表した自作を列記してみると一目瞭然である。

(演奏会)
1876年12月14日 メンデルスゾーン『詩編95番』
1877年 4月14日 モーツアルト 『レクイエム』
1879年 4月 2日 ベートーヴェン『ミサ・ソレムニス』
*これはプラハの著名な独唱者,100人の合唱、ヴァイオリン30、ヴィオラ13、チェロ7、コン  トラバス7 からなる大オーケストラで上演され、ブルノでは未曾有の演奏会であった。

ヤナーチェクは、次の協奏曲でピアニストとしての腕も披露している。この頃のヤナーチェクはピアノのヴィルトゥオーソとなる夢も抱いていた。
アントン・ルビンシテイン
『二台ピアノのためのファンタジア』

メンデルスゾーン
『ピアノとオーケストラのための奇想曲』、

サン・サーンス   『ピアノ協奏曲第二番』
メンデルスゾーン 『ピアノ協奏曲』

(自作の発表)
1876年 2月23日『合唱悲歌』
1876年11月13日 メロドラマ『死』(消失)
1877年12月 2日『弦楽オーケストラのための組曲』
1878年12月15日『弦楽オーケストラのための牧歌』



モーツアルト 『レクイエム』演奏会
のパンフレット(
 1877年)

これらの作品は、それぞれ注目に値する。まず『合唱悲歌』はフランチシェク・ラジスラフ・チェランスキーの『チェコ民謡のこだま』の四行詩から構成したもので、男に捨てられた少女が嘆くあまり、五感と美しさを失ってしまうという物語である。この曲はヤナーチェクがそれまでに書いた合唱曲の集大成の感があり、最も長い合唱作品の一つになった。

メロドラマ『死』の楽譜が残されていないのは惜しまれる。メロドラマとは劇の台詞の朗詠とそれを伴奏する音楽による劇作品であるが、チェコ出身の作曲家 J.A.ベンダ(1722-1795)が1774年に『アリアドネ』を作曲して以来、チェコの作曲家が多く取り上げたジャンルだったからである。ヤナーチェクのほぼ同時代の作曲家ズデニェック・フィビヒ(1850-1900)は5曲のメロドラマを作曲し、後の世代のチェコ人作曲家も多く手を染めている。

『弦楽オーケストラのための組曲』は、6楽章構成で、ヤナーチェクの最初のまとまった器楽作品である。初演時には各楽章にプレリュード、アルマンド、サラバンド、スケルッツオ、エア、フィナーレと題されていた。『牧歌』は7楽章の作品で、『組曲』の1年後に書かれた。総じてこれら2曲は、ドイツ古典派、ロマン派やスメタナ、とりわけドヴォジャークからの影響の寄せ集めという印象は禁じ得ないが、彼の初期の合唱曲に共通する内気な抒情は印象的である。
ブルノに戻っても、ドヴォジャークとの親交は続いた。1877年の夏にヤナーチェクはプラハを再訪し、2人でヴルタヴァ川沿いにボヘミアを巡る旅に出た。「私たちはプラハを列車で出発したが、乗ったのはほんのわずかだった。帰りの時も乗ったのはほんのわずかで、後は足で歩いた。この3日間の旅行でドヴォジャークと交わした会話は、小さなカバン一個に詰まるほどだった。」とヤナーチェクは回想している。

2人は互いを完全に理解していたので、言葉を交わす必要すらなかった。「自分の口から出ようとする言葉を、他の人が口にした時どう感じるか、君は知っているだろう。ドヴォジャークといる時は、いつもそんな感じがしたものだ。」とヤナーチェクは往時を振り返っている。

当時37歳のドヴォジャークは、この年の秋に2児を続けて失うという不幸に見舞われるが、『スラヴ舞曲第1集』、『スターバト・マーテル』などの作品を書き上げ、長い無名時代を終えて、ヨーロッパの楽壇に認められようとしていた。



当時のドヴォジャーク(1878年)
ヤナーチェクはドヴォジャークの作品を次々とベセダで演奏し、ブルノに紹介した。まず『弦楽セレナーデ』、その次に『モラヴィア二重唱曲』が続き、1878年12月15日の『牧歌』の初演の際にはドヴォジャークを招いて、作曲者自身のピアノで『男声合唱とピアノのためのスラヴ民謡の花束』(作品43、B.76)が演奏された。その後に、新たにオーケストレ―ションされたばかりの『スラヴ舞曲 第一集』から4曲が演奏された。ドヴォジャークの音楽はすぐにブルノに受け入れられ、彼はベセダの名誉会員となった。

一方ヤナーチェクは、これだけ活発な音楽活動を繰り広げながら、まだ満たされぬものを感じていた。海外で学ぶ夢を捨て切れなかったのである。彼が幼少時から学んだのはドイツの音楽だから、ウィーンやライプチッヒで学ぶことは長年の夢だったが、一方でスラヴへの共感から、ロシアでルビンシテインの許で学ぶことも夢見ていた。

1878年の夏に、「女王の修道院」のオルガン新築を機に知り合ったドイツのオルガン製作者を頼って、エッティンゲン、ミュンヘン、ベルリンを訪れたのは、ドイツ文化への憧れを多少とも満たしたかったのだろう。同じ頃、思い余ったヤナーチェクは、ルビンシタインに弟子入りを求める手紙を書き送ったが、「内容証明付きの手紙は、彼を追ってパリかぺテルブルグかどこかに転送され、一年後に未開封のまま戻ってきた」。

そこで彼はドイツの音楽院に目を向けた。老境のクララ・シューマンがピアノを教えていたフランクフルト音楽院、メンデルスゾーンが創設し、バッハの伝統を伝えるライプチッヒ音楽院、ブラームスの友人たちやブルックナーが教授に名を連ねるウイーン音楽院と、彼は思いあぐねたが、1879年の春にはライプチッヒに行くことに決心した。

ブルノの音楽活動に全力を注ぎつつ、国外留学の夢を暖めていたヤナーチェクは、その頃恋にも夢中になっていた。相手はピアノの個人レッスンの生徒ズデンカ・シュルツォヴァーである。彼女は他ならぬ師範学校の校長、エミリアン・シュルツの娘であった。

彼女は1865年の生まれで、ヤナーチェクより11歳年下だった。二人が知り合ったのは1877年、12歳の時である。父エミリアンはヤナーチェクが学生の頃から音楽の才能に注目しており、娘のピアノの家庭教師に選んだのだった。

晩年に書いた自伝の中で、ズデンカはヤナーチェクと初めて会った時の印象を書き残している。

「私は先生がとても怖かった。彼のお弟子さんからとても厳しい先生だという ことを伝え聞いていたからだ。彼の容貌にも何か陰気なところがあった。その頃の彼は痩せていて、背は低い方で、色白の顔は固く縮れた長いあご髭、ごわごわした黒い巻毛、そして生き生きとした茶色の眼ととても対照的だった。その頃から、私は彼の小さく、丸く、白い指に魅かれていたが、それは鍵盤に触れると、魂が込められたように生き生きと動いた。」



当時のヤナーチェク(1878年)
ズデンカは熱心にピアノを学んだ。当時ヤナーチェクの音楽の才能は小さなブルノの街の評判になっており、そんな先生に教わるのが誇らしかったという。

「先生を怖がる必要などなかった。彼は余計な事は一切しゃべらなかったからだ。彼は私を決して甘やかしたりはしなかったし、宿題は完璧に仕上げることを望んだ。しかし彼が特に厳格というわけではなかったし、よく言われるほど無慈悲なわけでは決してなかった...私は先生が喜んでくれるように、懸命に練習した。」

ズデンカの回想録は、当時のブルノのチェコ系市民について、多くのことを教えてくれる。父エミリアンはチェコ人、母アンナはドイツ人であったが、結婚生活は幸せだった。またズデンカは学校に行かず、家でヤナーチェクを含む父の部下のチェコ人教師たちから教育を受けたが、「家にある本はすべてドイツ語で、教育はみなドイツ語で受けた。チェコ語で話すのは召使いとだけだった。当時のブルノでは、これは当たり前の事だった。」という。

しかし1935年にズデンカは往時を回想して「今の人がそんなことを聞いたら、実に奇妙だと思うだろう」と言っている。ヤナーチェクとズデンカが生きた時代に、チェコ人はチェコ語を本当の意味での母国語としたわけだ。

そして、この母国語を守り育てるために彼らが直面した苦難については、次の章からヤナーチェクと彼をめぐる人々の群像に、ささやかながら辿ってみたい。

既にこれから10年ほど前、ブルノで学んでいたトマーシュ・ガリク・マサリクは、ドイツ人校長のもとで、古典語にすらドイツ語的発音を強いられる状況に猛反発し、遂に退学処分を受けてブルノを去っていた。窮乏の中で音楽一途に生きてきたヤナーチェクがそうしたドイツ文化の圧迫感に反発し始めるのは、ドイツ留学から帰ってからのことである。

そしてズデンカにとっては、ヤナーチェクがそうした「遅く来た反発」に目覚める前の時期が最も幸せだっただろう。ヤナーチェクは彼女の祖母や母親とドイツ語で親しく話し、家族の一員のように迎えられていたからである。

思春期に入ったズデンカは、長く美しいお下げ髪をした愛らしい娘に成長した。そしてピアノの先生への尊敬が、愛に変わるときがきた。1979年3月に2人は公開の場でピアノ連弾を披露し、ヤナーチェクは週3回(!)のピアノ授業のときに、愛を語るようになった。そして同年8月のある日、ライプチッヒ留学を目前にしたヤナーチェクが、用事でレッスンを休みにした午後、ズデンカは一人で涙に暮れていた。ヤナーチェクはそれを知り、ズデンカに求婚しようと心を決めた。

ズデンカの母親の承諾を得るのは簡単だったが、父シュルツは乗り気ではなかった。しかし最終的には承諾した。彼はヤナーチェクのレイプチッヒ行きが、この「か細い、できたばかりの糸のような関係」を断ち切ると望んでいたのだろう。婚約の発表は留学が終わってからに伸ばされた。

その間、ヤナーチェクは出発の準備をしていた。シュルツ校長の助言で、ヤナーチェクは留学中に自活できるよう、有給休暇の申請を出していた。学校の同僚は快く授業を肩代わしてくれたので、ウイーンの教育省への申請は受理された。

ライプチッヒ、そこは当時ドイツで最も名声の高い、音楽の中心地であった。モラヴィアの一寒村の出身であるヤナーチェクにとって、その地で音楽を学べるなど夢のような出来事であっただろう。

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