2.故郷フクヴァルディでの幼年時代
フクヴァルディは、オタカル二世の時代にドイツ人入植者によって建設された、丘の上の小さな村である。

村の中心にある教会の前から、険しい山道をさらに20分ほど登っていくと、かつてモラヴィア屈指の城塞だったフクヴァルディ城に至る。遺構に立って周囲を見渡すと、スロヴァキア国境沿いの山々や、ポーランド国境地帯のシレジア地方を一望することができる。ヤナーチェクが生涯愛し、後年の作品のなかで描き続けた地方である。

山がちのスロヴァキア国境に比し、ポーランド国境のシレジア地方(シロンスク)とは平野で続いているため、この地方の方言はポーランド語の影響が多く見られる。例えば、

1)アクセントがシラブルの最後から2番目に来る
2)長母音が短くなる
3)母音、子音の軟化
4)a のo への転化    など。

この地の民謡を歌ってみると、これらの特徴が頻出している。

ヤナーチェクは生涯長母音を発音できなかった。有名な逸話がブルノに今も伝わっている。
”彼は電話を取ると、いつもこう答えた。
「はい。ヤナチェクです。ナは長いナです。」"



フクヴァルディ村(地元の発音ではウクヴァリー村)の目抜き通り。
中央奥に、城に至る山道の門が見える。

北モラヴィアの地勢図。中央赤のカギ括弧型がフクヴァルディ城。
「モラヴィアの門」といわれる平野部を扼する重要な要塞であった。



フクヴァルディ城は、この地方の歴史を常に刻んできた。最初の城主アルノルドゥス伯の名は1234年にまで溯る古文書に記されている。その子フランクは、すべての領地をドイツ人貴族のオロモウツ大司教に寄進し、その家臣として仕えた。

フス派戦争の動乱の時代には、この城の城主も転々とし、一時はフス派の根城となったこともある。その後30年戦争の時代には、カトリック側の根拠地として、数々のプロテスタント軍の攻撃を撃退し、さらに襲来したトルコ、ハンガリーの軍勢にも屈せず、難攻不落ぶりを示したが、周辺の農民は敵の略奪と領主による搾取によって疲弊した。1695年にはフクヴァルディの領民は暴動を起こしたが、城に拠った領主は鎮圧して首謀者を投獄した。

城は領民の怨さの的であった。18世紀の初頭には、義賊オンドラーシュがこの地方を森を根城に暴れ回り、城に幽閉された父親を救い出し、「富める者に抗し、貧しい者を助けた」という。そのオンドラーシュも1715年に捕えられて処刑されたが、彼と仲間たちの活躍は村人たちの間で歌い継がれ、1890年頃にヤナーチェクは羊飼いの老人がオンドラーシュの民謡を歌うのを耳にして、民謡集に採録した。


オンドラーシュよ、オンドラーシュよ、
自分の身をよく考えて!
どの道を行くか、よく考えて!

さあ行こう、谷間を縫って。
神よ守り給え!

さあ一緒に行こう、フクヴァルディへ。
あそこにはあなたの手下たちがいる。

オンドラーシュよ、領主ヤノフスキーの
粋な息子を、どこへ隠したんだ?


しかしマリア・テレジア治世の1762年、そして1820年にフクヴァルディ城は火事で焼け落ちた。それ以後再建が企てられることはなかった。長く遺構は放置され風雨に荒廃していたが、現在では修復が行われ、ありし日の偉容を偲ぶことができるようになっている。

城を降りてフクヴァルディの村に向かう。足の滑りやすい急な山道を下りきったところにある重厚な石造りの門をくぐると、山裾に沿う道がある。その道を左手に少し行くと、ヤナーチェクの胸像が真ん中にはめ込まれた2階立ての建物が目につく。これがかつてのフクヴァルディの小学校で、レオシュ・ヤナーチェクはこの教師宿舎を兼ねた校舎で 1854年7月3日に生まれた。
それは父イジー・ヤナーチェクが村に着任して6年目のことであった。


フクヴァルディ城の主塞跡
フクヴァルディの小学校



正教師になれることで希望に燃えて村にやってきた彼は、たちまち苦い失望に襲われた。当時村の人口は573人に過ぎず、村人は牧畜と農業で細々と生計を立てていた。収入は生徒の数次第だったが、それはほんのわずかだった。村人たちは凶作と、1848年に農奴制が廃止された後に領主オロモウツ大司教が課した301,146ズラティーもの負担金の取りたてによって窮迫していたからである。貧困は1859年の破滅的な対ロンバルディア戦争によってハプスブルク帝国が破産した時、極に達した。食に窮した村人たちは、森に分け入って食べる物を探し求めたという。

しかし、イジー・ヤナーチェクは学校の教育に全力を注いだ。生徒たちに熱を込めて教え、授業科目に絵画、歌唱、地理を追加したという。教務の合間に、イジーは学校の菜園で野菜や果物を栽培し、それでいくらかの家畜を育てて糊口をしのいだ。

しかしあまりにも労苦は多かった。 それに加えて校舎の不備が家族の健康を損なわせた。そこは大家族には狭すぎただけではなく、以前に領主の氷室に使われていたために湿気が多く、傷みが激しかった。そしてイジーは父からの遺伝のリューマチと心臓病とを悪化させ、早すぎる死を招いた。

こうした困難な状況で、ヤナーチェク家には次々と子供が生まれた。プシーボルで生まれた子供に加えて、9人の子供が生まれたのである。しかしプシーボルで生まれた5人の子どもはみな成人したのに、フクヴァルディで生まれた子どもは4人しか育たなかった。

レオシュの最初の記憶は、3歳のときの隣家の火事だった。「学校のすぐ隣の醸造場の屋根から火の手が上がった。夏の夜のことだった! 大人たちは子供を毛布で包んで、広場に運び出した。大声で泣いたのを今でも思い出す。」 幸いにも学校には燃え移らず、レオシュは5歳で父の教える学校で学び出した。そして家では父からピアノ、ヴァイオリンと歌唱を教わった。父はかんしゃく持ちで、教え方は厳しかった。

厳格な父親に比して、母親にはあまえていたようだ。母は時々プシーボルへの買い物に、幼い子供たちを連れていくことがあった。幼い田舎育ちのレオシュにとって、母の出身地プシーボルは見たことのない都会だったようで、軒を連ねる店や人込みに目が回ったと書いている。そして、帰り道は半分まで歩けたが、あとは母の背中におぶさり、買ってもらったパンをちぎって食べていた。母が一人でプシーボルに行ったときは、プシーボルの街の塔が見える牧草地まで行って、母の姿が見えるまでじっと待っていたというから、優しい母に甘えていたレオシュの姿が目に浮かぶようである。

そうしてレオシュは、学校が終わると家の手伝いや、友達と野山を駆け回って遊びながら成長していった。

父イジーの唯一の楽しみは、隣村の教師たちと共に養蜂の話をしたり、共に音楽を演奏することだった。丘の下の村リハルチツェの教会で祝祭日にミサをあげる時に、イジーは娘と当時7歳のレオシュを連れて演奏に加わった。息子の上達したボーイソプラノを耳にして、イジーは誇らしい気持ちになったことだろう。しかしレオシュが嬉しかったのは、歌声をほめられることよりも、ミサの後で振る舞われるごちそうだった。

平野にあるその村は、万事が山村フクヴァルディよりも豊かであった。食事もそうだが、音楽の設備もずっと充実していたようだ。回想によれば、 「そこの教会には、折りたためる譜面台があった。鍵盤の左右にたくさんのストップのある、金色に輝くオルガンと、後方の窓の側には二つのティンパニがあって、それぞれがパンをこねる鉢ぐらい大きかった。」

このリハルチツェ村の教師とイジーは良い友人だったが、ある時何かの原因で仲違いし、それからは全く行来が絶えてしまった。レオシュや学校の子供たちは困り果てた。イースターのミサは村の特別の演奏会で、リハルチツェからティンパニを借りていたからだった。「ティンパニがなきゃだめだ。物足りないよ」と子供たちは口々に言い合った。そしてある夜、子供たちは闇にまぎれてリハルチツェからこっそりティンパニを「借りてきた」のだった。

イジーの面目はまさに丸つぶれだった。結局、ばちはティンパニに振り下ろされずに、レオシュのおしりに振り下ろされることになった。けれどもレオシュのティンパニへの愛はこの一件でさめることはなかった。後年彼は言っている。「だから私はいつもティンパニに特別なソロを与えているのだ。」

腕白な少年レオシュの面目躍如というところである。しかし、この頃から彼の音楽の上達ぶりは目ざましかったようだ。イジーは熱心に息子を教えた。その翌年の父のピアノのレッスンの情景を、レオシュは回想している。

「8歳の時、ベートーヴェンのピアノソナタを何曲も弾いた。あの古い楽譜が、いまだに目に焼き付いている 涙で音符と左手の甲の血のにじんだあざが霞んで見える。低音部がうまく弾けなかったので、父がブラシで左手を叩いたのだった。あの時から、作曲家の書いた音符は血の通ったもので、ひどい演奏をすると血がにじむということを知った。」

イジーが息子を熱心に教えたのは、自分の健康が次第に悪化しつつあるのを自覚していたからでもあった。悪化する体をかかえながら、父親譲りの愛国者であった彼は、読書と合唱のクラブを組織して、村人のチェコ民族としての自覚を高めようとしていたが、もう無理は効かなくなっていた。

幼い子供を大勢抱えて、イジーと妻の悩みは大きかった。レオシュは11歳になり、小学校を終えるのももうすぐだった。しかしこれ以上の教育を与えてやるには、家計はあまりに苦しかった。そこで両親は意を決して、レオシュを手元から手放すことにした。若き日に音楽を教えてやったクシーシュコフスキーが、今や立派な音楽家に成長して、モラヴィアの首都ブルノの修道院の聖歌隊指揮者を勤めていたので、そのつてを頼ることにしたのだった。

1865年9月のある日、荷馬車が用意されて、レオシュと母は二人で乗り込んだ。昨日まで野山で遊びまわっていたレオシュは、見たこともないような大きな街に行き、聖歌隊員になるのだと聞かされてても、実感は湧かなかったに違いない。そして友達や家族に別れを告げ、馬車が走り出すと、見送りに来ていた人たちの姿は、坂道の向かうに見えなくなっていった。それは父イジーとの永別となった。



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