1.家系と誕生まで



前章では、マリア・テレジアとヨーゼフ二世の啓蒙政策について、簡単ながら触れた。これらの政策はチェコの未来をとって重要な意味を持っていたが、ヤナーチェク家にとってもそうであった。無名の一庶民にすぎなかった彼らはヨーゼフ二世の政策によって、歴史の表舞台へと姿を現してくるのである。

ヨーゼフ2世が修道院の解散を断行したあと、修道僧の多くが路頭に迷った。 シレジアのヴェルキー・ペトシュヴァルトという小さな村の司祭、アントニーン・ヘルマン神父もその1人だった。彼はある城主の息子で、裕福な修道院で安楽に暮らしていたが、修道院が廃止されたために村の司祭に甘んじる羽目になったのである。

ヘルマン神父はこの転落に打ちのめされ、深酒に浸る日々が続いたという。しかし彼は村の小学校で子供たちを教えることに慰めを見出した。

村で彼が雇った家政婦には、イジー(レオシュ・ヤナーチェクの祖父)という名の私生児がいた。ヘルマン神父はその子にも教育を与えて励まし、教師になるように勧めた。ヨーゼフ二世は小学校の増設に力を注いでいたので、教師になれば母子の生計は安定するだろうという、神父の配慮があったようである。

やがて成長したイジーは親許を離れ、19歳で助教師として自立した。そして彼は任地でオルガンの演奏を学び、音楽の才能を開花させた。こうして田舎の名も無い庶民ヤナーチェク家に、初めて音楽が意味を持つことになったのだった。

祖父イジーの姿は、彼の息子による伝記の中で生き生きと描かれている。

「父は情熱的な歌手で、力強く心地よい声をしていた。深い感情をこめて演奏し歌い、頬を涙がこぼれていることもあった。黙ってオルガンを弾くだけの人ではなかった。父がオルガンを弾きながら楽しみと情熱を込めて歌うと、村人は後について歌って、新しい曲の旋律をすぐに覚えたのだった。」

しかし、若いイジーには頭から離れない不安があった。兵隊に取られるのではないかという不安である。当時の民謡には、故郷を離れ兵舎に向かう若者や恋人の嘆きが数多く歌われているが、実際に強制徴募隊が姿を現し、それに運悪く捕まってしまえば、あるいは生きて故郷に戻れないことを意味したのである。母一人子一人のイジーには考えただけで耐えがたいことだった。

しかし、その怖れは現実となったのである。
ある日、イジーが上司の家族と昼食を食べていると、強制徴募隊がイジーを見つけて踏み込んできた。動転したイジーはテーブルをつかんで兵隊に投げつけ、窓に頭から突っ込むとオストラヴィツ川を渡って母のもとに匿われた。公然の徴兵忌避であったが、村の役人は母に同情して、イジーを教師心得として登録した。そのおかげでイジーは軍務から外されることになった。

やがてイジーは村の正教師となった。
上のエピソードのように、彼は猪突猛進でかんしゃく持ちではあったが、立派な先生として村人に敬愛された。彼はほとんどが文盲だった村人や子供たちの教育に情熱を注ぎ、村の教会にオルガンを自分の手で製作して歌を教えた。そして村の陽気な飲み仲間でもあった。

イジーのようなチェコの田舎教師は、都市の文化に接触する機会を持たず、中世そのままのような古い風習の息付いていた村々にあって、唯一の「文化人」であった。村で文字の読み書きができるのは、多くの場合教師と神父だけだった。(注)

(注)チェコのある音楽学者に伺ったところでは、オペラ『利口な女狐』で、村の酒場で教師と神父が酒を酌み交わす情景は、そうした状況を背景にしているそうである。
またオペラ『イェヌーファ』では、牧童ヤノは文字を読むことが出来るようになったことを誇らしげに口にする。19世紀後半に至るまで、文盲は普通のことであった。

またイジーはまた強い愛国心の持ち主で、死の年(1848年)にプラハで起こった革命の状勢を、最後まで目を輝かせながら見守った。

イジーの3男は父の職業と名前とを受け継いだ。そして1831年にまだ16歳で、北モラヴィアのオパヴァ近郊の村の助教師に任命された。

その村にいた時、ある未婚の母が幼い子供を連れてきて、この子に音楽を教えてほしいと懇願した。その子パヴェル・クシーシュコフスキーはイジーの下で音楽の才能を見せたので、イジーはオパヴァの教会の聖歌隊員として、教育を受ける機会を与えてやった。クシーシュコフスキーはこの恩を生涯忘れず、後にイジーの息子レオシュを実の息子のように慈しみ、音楽を手ずから教えた。

イジー・ヤナーチェクは任地の村を転々としながら、各地の教会で音楽に磨きをかけた。1835年に彼はプシーボル(注)に移り、その地で助教師の職務のかたわら、教会でのオルガン演奏と合唱指揮を任された。

(注)ドイツ名 フレイベルク。ヤナーチェクに遅れること2年、この地で精神分析の大家フロイトが生まれている。

「強壮で背の高い、黒髪の若者」に成長したイジーは、その地の娘アマーリエと結婚した。しかし、続く10年間彼は助教師から昇進できなかった。そこで1848年、近くの丘の上の村フクワルディで正教師のポストに空きができたと聞くと、イジーは転任願いを出し、受理されると5人の子供をかかえてフクヴァルディ村に向かった。

しかし、それは想像もできなかったような苦難の始まりであった



レオシュ・ヤナーチェクの父       
イジー・ヤナーチェク(1815-1866)と
言われる写真(後方)

母アマーリエ・ヤナーチコヴァー(1819-1884)


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