序章−チェコの音楽と歴史




現在のチェコの地は、太古から民族の移動の絶えない地だった。広大な森林の中から多くの民族がやってきて、消えていった。その中のケルト人の一派ボイイ人は、ボヘミアという地名を残した。

スラヴ人が現在のチェコの地に住むようになったのは、紀元後5-6世紀頃のことらしい。彼らは先住民族を追い出し、あるいは同化してこの土地の主となった。周辺の諸民族との戦いは絶えなかったが、動乱の中でこの地域のスラヴ人(西スラヴ人)は部族を越えて結束し、9世紀前半には大モラヴィア王国を建国した。

この大モラヴィア王国は、モイミール(在位830-846)によって建国され、ロスティスラフ(846−870)、スヴァトプルク(870-894)といった諸王のもとに最盛期を迎えた。王国は繁栄し、ボヘミア・モラヴィア・スロヴァキアそして今日のハンガリー、ポーランドの一部をも領土とした。

この王国の事績で特筆されるのは、ロスティスラフ王が隣国東フランク王国の教会が領内に勢力を広めているのを憂い、遠く離れたビザンチン帝国に宣教師の派遣を求めたことだった。

時のビザンチン皇帝は、聖キュリロスと聖メトディオスの兄弟を派遣した。これはスラヴ民族の歴史に残る出来事になった。聖キュリロス(スラヴ名キリル)は布教のために、スラヴ語最初の文字「キリル文字」を創案して、モラヴィアにもたらしたからである。

スラヴ人はこうして文字を手にして、自分たちの文化を発展、継承させる素地を得た。兄弟は「スラヴの使徒」と称えられ、スラヴ人が周囲の異民族に征服された時代にも、スラヴ民族独自の文化を象徴する精神的な支柱となった。


兄弟のモラヴィアでの布教自体はその後挫折したが、兄弟の創ったスラヴの文字の伝統は、その後に創られたキリル文字に継承され、今日でもロシアをはじめとするスラヴ各国で使われている。

聖キュリロス(826/7-869)と
聖メトディオス(815頃-885)

スヴァトプルクの治世下でその死後は衰退し、905年に東方の遊牧民マジャール人の攻撃を受けて滅亡した。そしてスロヴァキアは以後1918年まで、マジャール人の建国したハンガリーに従属することになる。

チェコ史の主導権は、以後モラヴィアからボヘミアに移った。


さて、大モラヴィア王国の衰退とともに、伝説の中から姿を現してくるのがボヘミアのプシェミスル家である。伝説によれば彼らは長老チェフや女王リブシェの子孫で、そのリブシェは7世紀頃に、プラハの旧城ヴィシェフラットに君臨していたという。このプシェミスル家の物語は、近世になって数多くのチェコの芸術家に取り上げられた。

●女王リブシェとプシェミスルの物語

●女傑シャールカの物語

実在の確実な、最初のプシェミスル家の人物は9世紀のボジヴォイである。彼はボヘミア侯として890年にスヴァトプルクに臣従を誓い、妻ルドミラとともに受洗してキリスト教徒となった。伝説によれば、2人はモラヴィアで聖メトディオスの手から洗礼を受けたという。(ドヴォジャークのオラトリオ『聖ルドミラ』)

またボジヴォイは居城をプラハの現在のフラッチャニの地に移して、プラハの発展の基礎を築いた。

894年のスヴァトプルクの死後、大モラヴィア王国は内紛のうちに衰えていったが、その中でプシェミスル家は勢力を固めていった。895年には大モラヴィア王国から離れて東フランク国王に臣従の礼を取り、ボヘミア侯となった。

ボジヴォイの妻ルドミラと、孫ヴァーツラフは共に殉教した。ヴァーツラフは敬虔なクリスチャンであり、ドイツのザクセン王朝に臣下の礼を取ってボヘミア君主の地位を固めたが、弟ボレスラフによって殺害された。やがてヴァーツラフは列聖され、ボヘミアの守護聖人となった。そしてチェコが危難に瀕した時には、聖ヴァーツラフがブラニークの騎士たちを率いて救援に駆けつけるという信仰が生まれた。

現在でも、聖ヴァーツラフの銅像のあるプラハのヴァーツラフ広場は、チェコが危難に直面するごとに、人々の集う場所である。


聖ヴァーツラフの殉教(929年)
1000年頃の写本挿絵



スコア

「聖ヴァーツラフよ」(12世紀のコラールから)


やがてプシェミスル家は、有力な王を次々と輩出してモラヴィアを版土とし、周辺諸国と抗争を重ねながら、神聖ローマ帝国の有力な一領邦として発展を続けていった。

13世紀に至って、ボヘミア侯は神聖ローマ帝国で最も有力な侯となり、皇帝から王号を認められた。また国王オタカル二世(在位1252-1278)は、王室歳入を増やすためにドイツ人の入植を奨励したことで知られる。この結果、王国各地で新しい村が続々と生まれ、鉱山が開発されて王国は豊かになった。しかし王国の勢力は膨張したが、ドイツ人の流入はチェコ貴族の離反を招いた。

そしてオタカル二世は神聖ローマ皇帝の地位さえ狙ったが、スイスの一諸侯ハプスブルク家との戦いで敗死した。

1306年、プシェミスル家は断絶した。混乱の中でチェコの貴族たちはルクセンブルク家のヨハンを国王に推戴した。


そのヨハンの息子カレル四世(在位1346年-1378年)は、チェコ史屈指の名君となった。

ボヘミア国王と神聖ローマ皇帝の地位を手中にし たカレル四世は、首都プラハとボヘミアの発展に力を注いだ。

彼の治世下のプラハでは聖ヴィート大聖堂の建立が始まり、フラッチャニと旧市街を結ぶ石橋 (カレル橋)が着工された。手狭となった旧市街に加えて新市街が建設され、そして中央ヨーロッパで初めての大学、カレル大学が設立された。


ボヘミアは神聖ローマ帝国の皇帝を選出する7選帝侯の1人に定められ、鉱山からの豊かな歳入をもとに繁栄した。

しかし、彼の息子ヴァーツラフ四世の在位になると、国王と高位聖職者や大貴族との間に権力抗争が生じ、国内は混乱に陥っていった。

カレル四世像
(プラハ、国立博物館蔵)


その中で、カレル大学の聖職者ヤン・フス(1370頃-1414)は、教会の腐敗に対して抗議の声を上げた。彼の教会改革の思想は急速に広がり、チェコ系市民と貴族の熱狂的な支持を得た。

フスは教皇庁の免罪符販売に抗議して破門され、1414年にはコンスタンツの宗教会議に召喚された。時の神聖ローマ皇帝ジグムントは安全通行証を交付したが、フスは異端として断罪され、火刑に処せられた。

この後国王とカトリック教会はフス派の弾圧に乗り出すが、フス派は激しく抵抗して、1419年には国王側の市長や市参事員を市役所の窓から放り出して追放した。ボヘミア南部ではフス派急進派がターボルという要塞都市を建設し、その指導者ヤン・ジシュカはフス派の軍隊を組織して、ジグムントの派兵した十字軍の大軍を都度撃退し、後には逆に近隣諸国に出兵した。

しかし戦争は長引き、ジシュカが1424年に死ぬと内紛が生じた。1434年にはカトリック教会はフス派の穏健派と結び、ターボル派を壊滅させた。

続くフス派とカトリックとの内乱の時代に、王位は各王朝を転々とするが、1526年にチェコの王位はハプスブルク家のフェルディナントの手に移った。彼は同年ハンガリーの国王に選出され、オーストリア・ボヘミア・ハンガリーの三ヶ国を核とする、いわゆる「ハプスブルク帝国」の礎石がここに置かれた。

その頃、神聖ローマ帝国諸邦は、ルターの「95箇条の提題」に始まる宗教改革の波に揺れていた。免罪符の販売や聖職者の批判を展開したルターは、自分の教えはフスの教義と同じだとしてフスを公然と弁護したので、フス派運動は新たな展開を見せることになる。 

1547年、プラハを始めとするボヘミアの各都市は、ドイツのプロテスタント諸侯軍に呼応して皇帝に反乱を起こした。しかし皇帝軍は反乱軍を粉砕し、敗れた各都市は自治の特権を奪われた。

これ以後、ハプスブルク家はボヘミアの再カトリック化を図った。大きな役割を担ったのはイエズス会である。現在もヴルタヴァ川沿いにそびえる壮麗なバロック様式の建物「クレメンティヌム」は、かつてのイエズス会の本拠である。一方で、ボヘミアにはハプスブルク家によりルネッサンス文化が導入された。またルドルフ二世は宮廷をウィーンからプラハに移し、芸術家や文化人を優遇したので、プラハは学芸の都として華開いた。

ルドルフ二世は謎めいた王であった。彼は学芸を愛するとともに魔術や練金術にも大きな興味を持ち、その宮廷にはユダヤ人のラビや魔術師まで出入りしたという。

しかし1617年に、妥協を知らない強硬なカトリックであるフェルディナント二世がボヘミア国王となると、事態は切迫した。彼は宮廷をウイーンに戻し、フス派、ルター派をはじめとするプロテスタントの弾圧に乗り出した。ボヘミアの貴族たちは反皇帝の旗の下に結集し、1620年にドイツのプロテスタント諸侯の総帥フリードリヒ選帝侯を国王に選出した。

ボヘミアだけでなく、ドイツ全土を戦乱に巻き込んだ30年戦争の開幕である。

皇帝軍とボヘミア連合軍は、1620年11月8日にプラハ郊外のビーラー・ホラ(白山)で衝突した。しかしチェコの命運を決したこの戦いは、皇帝軍の圧勝に終わった。

後には過酷な弾圧が続いた。反乱の首謀者の貴族や市民は処刑され、反乱に荷担した貴族たちの所領は没収されて、皇帝に忠実な外国の貴族やカトリック教会に与えられた。多くの国民が追放・亡命により故国を去った。その中にはヤン・アモス・コメンスキーをはじめとする多くの知識人が含まれていた。

フス派の200年の歴史は否定され、チェコ語の聖書や多くの書物は破棄されて、長年に渡って築かれてきたボヘミア独自の文化は壊滅した。

それに取って代わったのは、新しい領主として君臨したドイツ系貴族のカトリックの文化である。彼らはドイツ語を使い、チェコ語は下層町民や農民の言葉に転落した。チェコの音楽家や画家は祖国を出て国外に活躍の場を見出し、その多くは故郷に帰ることはなかった。

ベートーヴェンを保護したロプコヴィッツ家、ヴァルトシュタイン家などもボヘミアに領土を持つ貴族であり、ベートーヴェンはしばしばボヘミアを訪れた。また、プラハ市民がモーツァルトの音楽を熱狂的に愛好して、プラハで『ドン・ジョバン二』の初演が行われたのも、チェコの文化史に残る出来事となった。

しかし、膨張したハプスブルク帝国はやがて転換期を迎えた。父王の領土の相続をめぐってプロイセンと争ったマリア・テレジア(在位1740-1780)は、モラヴィア北部のシレジアの大部分を手放さざるを得なかった。

女帝は国力の増強のために中央集権の強化と国民の啓蒙に努め、カトリック教会の世俗的な特権を弱めて、近代国家への脱皮をはかった。

その息子ヨーゼフ二世(在位1780-1790)は、更に急進的な改革を次々に実施した。寛容令の発令によってルター派、カルヴァン派教徒に、カトリック教徒と同等の地位が認められた。農奴制は緩めらされ、転居の自由が認められたために、都市に流入して市民になる者も増加した。また識字率を上げるために小学校が増設され、帝国内の中・高等教育で使われる言葉は、ラテン語からドイツ語に定められた。

またヨーゼフ二世は検閲を緩和して出版活動を活性化させ、修道院の閉鎖とその財産の没収を断行するなど、改革政策を矢継ぎ早に打ち出したが、貴族たちの反発を受け、失意のうちに死去した。

2人の啓蒙君主の残したものは大きかった。一方でそれは専制主義の強化であったが、チェコ人がドイツ人に伍して教育を受ける機会は増加したのである。

そうして高等教育を受けたひとにぎりのチェコ人は、ヨーゼフ二世のドイツ語政策に反発して、チェコ独自の文化を再建しようとし始めた。

この民族復興運動は、次第に大きな輪に広がっていった。
ヨゼフ・ドブロフスキー (1753-1829)、ヨゼフ・ユングマン(1773-1847)のような優れたチェコ語・チェコ文学の学者が輩出し、チェコ語の復興は大きく前進した。しかし政治・経済・文化・芸術などの各分野の著作は、19世紀までほとんどドイツ語で書かれた。もちろんハプスブルク帝国の中では、ドイツ語の方がより広汎な読者を得られたからでもある。

フランス革命とナポレオン戦争(1789-1815)は大きな惨禍を各国にもたらしたが、一面で諸国民の民族的自覚を高揚させた。民族復興運動はさらに広がり、チェコ農村の民謡や民話の収集が大規模に行われ、チェコ語の新聞や雑誌の創刊が続いた。

1848年にフランスで勃発した革命は、ヨーロッパ全土に波及した。ウィーン、プラハにおいても反動政治に抗して市街戦が起こり、メッテルニッヒは亡命に追い込まれた。そして同年、ハプスブルク家の若きフランツ・ヨーゼフが即位した。

その6年後、モラヴィアの貧しい山村の教師の家に男の子が授かった。レオ・オイゲンと名付けられたその子は、やがて音楽家レオシュ・ヤナーチェクとして人々に記憶されることになる。それではレオシュの生まれた時代を、彼の父祖たちの生涯を辿りながら、もう一度見てみることにしよう。


 NEXT>>
INDEX
HOME