この王国の事績で特筆されるのは、ロスティスラフ王が隣国東フランク王国の教会が領内に勢力を広めているのを憂い、遠く離れたビザンチン帝国に宣教師の派遣を求めたことだった。
時のビザンチン皇帝は、聖キュリロスと聖メトディオスの兄弟を派遣した。これはスラヴ民族の歴史に残る出来事になった。聖キュリロス(スラヴ名キリル)は布教のために、スラヴ語最初の文字「キリル文字」を創案して、モラヴィアにもたらしたからである。 スラヴ人はこうして文字を手にして、自分たちの文化を発展、継承させる素地を得た。兄弟は「スラヴの使徒」と称えられ、スラヴ人が周囲の異民族に征服された時代にも、スラヴ民族独自の文化を象徴する精神的な支柱となった。 兄弟のモラヴィアでの布教自体はその後挫折したが、兄弟の創ったスラヴの文字の伝統は、その後に創られたキリル文字に継承され、今日でもロシアをはじめとするスラヴ各国で使われている。 |
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聖キュリロス(826/7-869)と 聖メトディオス(815頃-885) |
894年のスヴァトプルクの死後、大モラヴィア王国は内紛のうちに衰えていったが、その中でプシェミスル家は勢力を固めていった。895年には大モラヴィア王国から離れて東フランク国王に臣従の礼を取り、ボヘミア侯となった。 ボジヴォイの妻ルドミラと、孫ヴァーツラフは共に殉教した。ヴァーツラフは敬虔なクリスチャンであり、ドイツのザクセン王朝に臣下の礼を取ってボヘミア君主の地位を固めたが、弟ボレスラフによって殺害された。やがてヴァーツラフは列聖され、ボヘミアの守護聖人となった。そしてチェコが危難に瀕した時には、聖ヴァーツラフがブラニークの騎士たちを率いて救援に駆けつけるという信仰が生まれた。 現在でも、聖ヴァーツラフの銅像のあるプラハのヴァーツラフ広場は、チェコが危難に直面するごとに、人々の集う場所である。 |
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聖ヴァーツラフの殉教(929年) 1000年頃の写本挿絵 |
そのヨハンの息子カレル四世(在位1346年-1378年)は、チェコ史屈指の名君となった。 ボヘミア国王と神聖ローマ皇帝の地位を手中にし たカレル四世は、首都プラハとボヘミアの発展に力を注いだ。 彼の治世下のプラハでは聖ヴィート大聖堂の建立が始まり、フラッチャニと旧市街を結ぶ石橋 (カレル橋)が着工された。手狭となった旧市街に加えて新市街が建設され、そして中央ヨーロッパで初めての大学、カレル大学が設立された。 ボヘミアは神聖ローマ帝国の皇帝を選出する7選帝侯の1人に定められ、鉱山からの豊かな歳入をもとに繁栄した。 しかし、彼の息子ヴァーツラフ四世の在位になると、国王と高位聖職者や大貴族との間に権力抗争が生じ、国内は混乱に陥っていった。 |
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カレル四世像 (プラハ、国立博物館蔵) |