元気で長生きすること。それは多くの人の願望である。しかし、その願いが必ずしも叶えられるわけではない。人生の一過程において、常に病気になるリスクが内在しているからである。
もっとも、このリスクは我々1人ひとりの努力や、国の政策によって減らすことができる。日本では、早期発見・早期治療などに繋げるための環境が整備されている。しかし、完璧ではない。
現代の社会では、様々な病気や怪我を治療する能力がある医師が沢山いる。しかし、人類の歴史を紐解くと、当初より我々がイメージする医師が存在したわけではない。細菌感染によって免疫力が低下し、今にも死にかけている人に対し、適切な医療を提供できる人はいなかった。
すなわち、疾患によって命の危険に晒されたとき、このリスクにうまく対処することが出来ずに命を縮める人が多く、平均寿命も相対的に短かったと言われている。
なぜ人は病気になるのか。その病気を治すには何をすべきか。この謎を解明するため多くの人が研究し、解答を導き出してきた。様々な労苦を経て治療技術が向上してきたのである。
もちろん、この治療技術は誰もが身につけている訳ではなかった。医学・医療の先駆者から教わり、更に自らも実践していける能力を有する人は限られていたのである。
また、実際に医療を提供する医師の能力も千差万別だった。だから、優秀な医師の治療を受けて治癒する患者もいたが、十分な医療技術を持ち合わせていない医師によって病気が治らないどころか、命を落としてしまうケースも存在した。
医学・医療に関する能力が不十分な者でも治療を行えるような社会は問題が大きい。患者としては、どの医師に治療してもらえばよいのか悩んでしまうからである。運よく優秀な医師に出会えたならば、病気が治って元気に長生きできるけれど、能力不足の医師のもとで治療を受けたときには、病気は良くならないかもしれない。
そこで、国家が介入することになった。一定の能力を有する者だけを“医師”として認定し、それ以外の者には医療行為を提供できないようにした訳である。
医師の資格保持者のみが医療行為を行えるようになり、患者は「どの医師に診てもらおうか」という悩みが軽減された。医師であれば、一定の診療能力を有していることが国家によって認定されたからである。
しかし、「その医師が治療をしてくれるのか」という悩みまでは解消してくれなかった。1人の医師が1日に治療できる患者の数は限られている。沢山の患者が来院した場合、その全ての患者を治療できる訳ではない。
それでは、医師はどの患者を治療することになるのか。まず、オーソドックスな考え方として、「重症な患者(緊急治療を行えばなんとか助かる患者)を優先する」という原則がある。しかし、本当にこの原則が貫かれるのか。
社会的身分の高い領主などと、民衆の1人が来院したとき、医師は「民衆の方が重症であるから、こちらを治療する。領主の治療は後回しだ」と思えるのか。
ケースバイケースではあるが、領主の治療を優先することも多かったようだ。そもそも、「社会的身分が高い者を優先して治療すること」が当たり前の時代もあった。
現在の日本では、上述の悩みは概ね克服された。病気になって医療機関を受診したときには、社会的身分などに関係なく診療を受けることが出来る。医師には応召義務があるから、原則として来院患者を拒むことはできない。
もちろん、交通事故などで瀕死の状態になっている患者ならば、一般的な診療所内で治療することは難しい。必要な医療機器やスタッフが揃っていないからである。同様に、難易度が極めて高い症例の患者が来院したときも、当該医師が治療を完結させることは不可能だ。
このようなケースの場合、当該医師は、その患者にとって必要な医療機関を紹介しなければならない。言い換えると、患者を無責任に放り出すことは出来ないのである。
国民の中には、「医師なんだから当たり前でしょ」と思っている人もいるかもしれない。なるほど、それは日本の常識に適っている。
しかし、諸外国ではどうか。例えば米国ではどうなのか。もし興味があるのならば、米国内で放映されているテレビドラマやアニメなどで「病院の実態がどのように描かれているのか」を視聴することをお勧めする。
いずれにせよ、日本は国民皆保険制度のもとで、誰もが、いつでも、必要な医療を受けられる体制が整備されているのである。
世の中には「仕事が激務すぎるから、病気になって入院していたいよ」と思っているもいるようだが、大半の人は「病気を患うことなく、健康に暮らしていきたい」と考えている。しかし、疾病リスクは常に存在する。
だから、様々な対策を考えることになる。栄養バランスのとれた食事を摂ったり、疲れたときは睡眠時間を確保したり、定期的に運動し、病気にならないよう努力している。
もっとも、自助努力にはあやふやな要素が内包している。頭の中では「塩分や脂肪の摂り過ぎは良くない。飲酒もほどほどに抑えた方がいいし、タバコも止めるべきだ」と思っていたとしても、「今は特に体調も悪くないし、まあいいか」と考え、脂っこい料理を食べ、タバコを吸い、深酒を続けている人も少なくない。
自分の健康は自分で考えればよい。そのような意見もあるけれど、これまでの政府与党では「国や地方公共団体が国民の健康対策に関与していくべきではないか」との意見が多かった。
そこで、国(厚労省など)が様々な施策を講じるようになった。市町村や学校、職場、高齢者施設など、乳幼児期から高齢期まで切れ目のない健康診断や保健指導などを実施し、効果を上げている。
早期発見・早期治療によって国民の疾病リスクを軽減していく。健康の阻害要因は取り除いていく。その基本政策はとても重要だ。但し、個々の国民に対する強制力は有していない。
例えば、タバコを止めることによって肺がんなどのリスクは軽減されるが、本人が「喫煙は今後も続けるよ」と言ったならば、その意思は尊重される。
この基本的な考え方は今後も守られるべきだが、問題点がない訳ではない。
公的医療保険制度の下では、「自助努力をしてきたけれど病気になってしまった人」の医療費も、「暴飲暴食、喫煙を長年にわたり続けてきて病気になった人」の医療費も、同じように保険料や公費を用いて賄われる。
すなわち、マクロベースでは「健康に留意している人が、不摂生をして病気になった人の医療費を負担している」、言い換えると「不摂生で病気になった人の医療費は、普段から自助努力をして健康を維持している人の保険料によって低額に抑えられている」と考えられる。
日本の公的医療保険は右肩上がりで伸び続けているため、医療費抑制論が唱えられているが、この一方策として、疾病予防等に関する患者・国民の意識改革が特に重要となっている。