病気や怪我をしたときには医療機関を受診し、必要な治療を受けることになるが、その際には「治療内容」とともに、「医療費の負担をどうするのか」という側面も考えなければならない。
もっとも、日本では国民皆保険制度が充実しているので、保険証を見せれば必要な治療を受けることが出来る。この制度は世界有数の長寿社会を実現させる一助となっているのである。
そもそも物やサービスの価格はどのようにして決めるべきなのか。それはケースバイケースであろう。医療においても、様々な方式が考えられる。
病気の兆候が表れたとき、我々は医療機関を受診する。例えば、高熱が下がらず、咽喉も痛いし食欲もないため、近所の内科クリニックで診てもらったとしよう。その場合、医師は問診し、必要な検査や処置を行う。これらの治療は無償で行われるわけではない。一定の医療費が発生する。それでは、この医療費はどのようにして決められているのか。
当該患者と医師が直接、話し合って決める方法もある。いわゆる「自費(自由診療)」と呼ばれているものだ。広い病室で快適に入院し、世界最高水準の治療を受けたいと考えている患者が「1千万円を支払うから、ハイクォリティな治療をして下さい」と申し込み、これに対して当該病院の院長が「いいですよ」と諾成。自由経済を標榜している以上、この価格は両者の合意に基づいて自由に決められるはずだ。
もっとも、「本当に患者と医師との自由な交渉によって医療費が決まるのか」というと、疑問を感じない訳ではない。病気で今にも死にそうになっている患者に対し、医師が「100万円を支払うならば治療しますよ」と言った場合、これを受け入れざるを得ない苦しい事情を患者は抱えているからである。もちろん、医師が有している良心や使命感に照らし合わせて考えるならば、患者の懐具合に関わらず、必要な治療を提供することにはなるだろう。しかし、この“良心”には不安定要素が否めない。
日本では自費診療の領域が極めて限定されている。例えば、前述のように体調不良で医療機関を受診した場合、患者と医師との間で「治療費は○○円にしましょう」といった合意が図られることは稀である。すなわち、窓口で保険証を提示することによって当たり前のごとく保険診療が行われる。差額ベッド代や歯科のインプラント、矯正治療などの自費も存在するが、原則は保険診療なのである。
日本で生活している多くの人は、これを「当然のこと」として認識しているのだが、国際的に見ると、必ずしも当てはまらない。フランスやドイツなどの欧米諸国のように国民皆保険制度が充実している国がある一方、アメリカや中国のように保険診療の適用範囲が極めて限定されている国も多いのである。
日本では、昭和36年から国民皆保険制度が導入され、徐々に保険診療の適用範囲も拡大。今では基本的な診療行為は保険で網羅されており、平均寿命の延伸に多大な貢献をしている。なぜ、このような制度が実現できたのか。他方において、アメリカなど多くの国では、なぜ国民皆保険制度が整備されないのか。以下、説明してみたい。
金銭的に裕福な人の場合、医療費が支払えずに治療を断念することは少ない。しかし、生活困窮者などは数万円の医療費でも支払いが困難となる。それでは、平均レベルの給与所得者の場合はどうなのか。恐らく「10万円程度ならば払えるけれど、治療費が100万円ぐらいになると厳しい。1千万円ぐらいになったら、もう無理だよ」と考えている人が多いのではないか。
日本で生活していると気づきにくいが、治療にはお金がかかる。海外旅行中に現地の医療機関を受診した人は知っていると思うが、「高熱や腹痛などで軽微な治療を受けただけでも10万円も請求された」といった事例は少なくない。ちょっとした治療でも10万円単位の支払が必要。これが世界レベルでの常識なのである。
これについて、「自由主義なのだから、自己責任で構わないではないか」との意見もある。しかし、昭和30年当時の日本人はそのようには考えなかった。すなわち、「みんなでお金を出し合い、病気になった人の負担が重くなり過ぎない制度を整備しよう」との意見でまとまった。そして、この理念は現在まで引き継がれている。
ところで、日本と同じように自由主義を標榜しているアメリカでは皆保険制度は導入されなかった。自己責任の考え方が貫かれており、その上で、社会的弱者(高齢者や低所得者)に対しては、特別な恩恵を国家が施しているに過ぎない。
だから、所得水準によって受けられる医療の内容には大きな格差がある。日本の公的医療保険制度には導入されていない数千万円の最新医療を受けられる人がいる一方、適切な治療を受けられずに苦しんでいる人もいる。
保険制度とは、ある一定のリスクに対する保障に他ならない。すなわち、複数の人が保険料を出し合い、所与のリスクが発生した人に保険金を支払ったり、診療行為を提供したりすることが主眼である。
この基本的構造は、公的医療保険であっても、民間医療保険であっても異ならない。だから、「公的医療保険なんて無くてもいいんじゃないの?」という声もある。
しかし、日本や欧州諸国には「公的医療保険には大きな役割がある」とする見方が強くある。民間保険は疾病リスクなどを強く意識するため、保険に加入できない人が出てきてしまうからである。
加入者がみんなでお金を出し合い、リスクが発生した加入者(病気になった人など)のために使う。その構造は同じだが、民間保険の場合は、「疾病リスクが発生しにくい人を優先する」との傾向がある。例えば、一度がんになった人は、その他の人よりもがん等の発生リスクが高い。だから、加入条件が厳しくなったり、保険料が相対的に高額になったりする。
また、加齢によるリスクも加味される。厚生労働省の統計資料によると「高齢になるほど(疾病リスクが増えて)医療費が高くなる」との傾向が見られるため、高齢の加入者ほど毎月の保険料が高額になる。
これは民間保険を運営する観点から当然の選択である。加入者はできる限り病気になりにくい人に限定する。そうすれば、病気になった人に支払う保険金も少なくて済むのだから、必然的に加入者の毎月の支払額(保険料)も低額で済む。
また、保険料をたくさん支払っている人は、病気になったときに受け取る保険金額も多くなる。他の条件が同じならば、毎月1万円の保険料を支払っている人よりも、3万円を支払っている人のほうが、いざというときに受け取れる保険金額が多くなるということである。
経済学的に見ると、確かに合理性が認められる。自分自身の疾病リスクなどに基づいて毎月の支払額(保険料)と、いざというときの受取額(保険金)を決められるからである。公然と主張すると「利己主義だ」と批判されてしまいそうだが、「(健康である)私がなぜ病気がちの人の医療費を負担しなくっちゃいけないんだ」、「保険料を殆ど収めない人の分までなぜ面倒をみる必要があるんだ」と思った人がいたとしても、なかなか責められない。
もっとも、この方式だと「保険に入れない人」が出てきてしまう。病気がちの人とか、高齢の人は毎月の保険料が高額になる。他方において、病気を患っている人は働くことが困難となり、高額の保険料を負担しにくい。高齢者も、所得や資産が十分ならばよいが、保険料を払えない人も多くなりがちである。
これに対し、日本は皆保険制度が導入されているので、病気の人も高齢者も、経済的困窮者も公的医療保険に加入することが出来る。
現行の公的医療保険制度に対し、批判的な立場の人もいる。その理由は様々だが、その一つとして「生活困窮者が保険料を払えないのは理解できるが、生活困窮を騙って保険料を払わなかった人にも、(滞納分を収めれば)保険診療が行われる点が納得できない」という意見がある。
つまり、真の生活困窮者の医療をみんなで負担していくことは許せるけれど、本当は払えるのに、色々と理屈をつけて払わない人がいることに憤りを感じているものである。
市町村国保の内情に精通した関係者にとっては周知の事実であるが、長年にわたって国民健康保険料を滞納してきた者が、突然、保険料をまとめて支払うケースに直面することがある。
保険料を支払った理由は「自分が重い病気に罹ったから」である。自費で治療を受けると多額の医療費がかかる。それならば、これまでの保険料をまとめて納付し、公的医療保険で治療を受けたほうが金銭面で得だ。そのように考えたのであろう。
しかし、みんながこのように考えるようになると、保険医療制度は成立しなくなってしまう。保険料を支払う資力があるのならばきちんと納める。この点も重要である。
日本では、健保組合や市町村国保などの公的医療保険と、生命保険会社などが提供している民間医療保険が併存している。平成になってからは、特に民間保険の役割が増しており、国内・外資系ともに積極的な事情展開を行っている。このこと自体にはメリットも大きいのだが、国民の認識に不正確さを感じることがあるので、補足しておきたい。
まず、公的医療保険の中身について説明してみよう。これは「治療に要した費用(診療費)」を賄うものである。問診し、検査を行い、注射をしてもらったとするならば、その費用に相当する。見方を変えると、「医療機関が受け取る報酬(診療費)」そのものである。このうち、3割はあなたが直接負担するけれど、残りの7割はどうするのか。これをあなたの代わりに負担してくれるのが健保組合などである。
もちろん、無料で負担してくれるのではない。毎月、給与のなかから強制的に一定割合の保険料を徴収される。なかなか厳しい負担ではあるが、「いざというとき(高額な医療費がかかったときなど)」は9割以上も負担してくれるので、あなたは重すぎない負担で必要な医療を受けることが出来る。
これに対し、民間の医療保険は「ある一定の条件を満たしたとき、契約で定められていた通りの保険金を支払う」というものである。例えば、「がんと診断された」という条件を満たしたときに、「入院1日あたり5万円の保険金を支払う」といった契約が該当する。
公的医療保険は「現物(病気を改善するための治療そのもの)」を給付するのだが、民間保険は「契約内容に基づいた効果(現金の支払いなど)」を招来するものなのである。
言い換えると、現時点での大半の民間保険は、原則として医療費本体を負担していないのである。国民の中には「公的医療保険を廃止、または縮小し、民間保険をもっと活用すべき」との意見も根強くある。その指摘自体には「なるほどなあ」と思う点も含まれているのだが、上述の点で誤解があると感じている。
公的保険を廃止・縮小した場合、当然のことながら「治療費本体(検査や調剤、手術などの費用)」をどのように負担するのかという問題をクリアしなければならない。繰り返しになるが、民間保険が「がんで手術をした場合には50万円の保険金を支払います」というのは、条件(がんでの手術など)を満たしたときに一定の金額(50万円など)を受け取れるという意味であり、がんの手術に要した診療費(例えば500万円)を負担してくれるものではない。
公的保険を廃止・縮小するならば、こうした治療費本体の負担を民間保険等でどのように行うのかを検討する必要がある。