(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  Ⅰ伝説の巻  二章 邪馬台国(5678
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(邪馬台国への道筋については、『歴史読本』1994年8月号に発表したことがあります。参考までに一番下をご覧ください。)

6 邪馬台国への道(後)

二都式の読み方(移動する都・行国)

 今までは、行程記事の読み方には、順次式と放射式の二つがあると理解されてきました。しかし順次式はしばらく置くとして、榎一雄氏の放射式読み方には納得できないところがあります。そこで放射式読み方に少し修正を加えて、新しく二都式読み方を提案します。二都式読み方の内容は、邪馬台国への道をたどる中で説明しましょう。

 狗邪(こや)韓国から南へ海を渡って千里の対馬(たいま)国は、長崎県の対馬(つしま)です。また海を渡って南へ千里の一支(いちき)国は、長崎県の壱岐(いき)です。

 
一支国からさらに海を渡って千里の末盧(まつろ)国は、佐賀県唐津(からつ)市の呼子(よぶこ)です。呼子には、律令時代には登望(とも)駅家(うまや)が置かれていました。呼子から壱岐対馬を経て、韓国へと海上の道が伸びていました。

 ただし、
末盧(まつろ)国には二つの問題があります。

 一つは、壱岐から呼子までは距離が近すぎ、四百里ほどしかないことです。もう一つは、
末盧国の記事に在地の官名が書かれていないことです。官が置かれていなかったとすれば、末盧国は正規のルートから外れていた可能性もあります。もしも末盧国が脇道の国なら、一支国からまっすぐ伊都国に向かうのが正規のルートだったことになります。それなら千里くらいあるでしょう。

 
末盧国では、人々が潜水漁法でアワビなどを獲ると書かれています。魏の使者は、アワビが目的で正規のルートを外したのかもしれません。あるいは、倭国が使者をもてなすために案内したのでしょうか。

 続いて、
末盧国から東南の伊都国へ、陸を歩いて五百里と書かれています。五百里の四分の一は百二十五里、54キロほどです。

 この数字は重要な情報で、信用できます。昔の人は、陸上を歩くときには、かなり正確に距離を測定できたからです。たとえば
伊能忠(いのうただたか)は、日本地図を作るために日本中を歩き回り、その歩数によって距離を測定しました。できた地図は精度の高いものでした。

 魏使も同じだったと思います。魏の時代には、三百歩が一里でした。一歩は長さの単位ですが、歩くときの歩幅とも一致すべきものでした。魏の一歩はおよそ145センチです。日本人の歩幅の二歩分にあたります。中国語の一歩は、日本語の二歩のことのようです。

 九州北部では、佐賀県
唐津市の呼子(よぶこ)と福岡市西区周船寺(すせんじ)の間がおよそ54キロです。したがって末盧(まつろ)国は呼子(よぶこ)でよく、伊都国は周船(すせんじ)に比定できます。今は福岡市に属しますが、昔の周船寺)(いと)郡に属しました。

 
周船寺という地名は、一大率の役所に由来するでしょう。寺の字はもとは朝廷や官庁をさし、周船寺は仏教寺院の名前ではありません。伊都国は使者の往来に必ず立ち寄るところと書かれていますから、周船は大宰府の前身といえる役所でした。

 伊都国から東南へ百里の奴(な)国は、昔の那の津です。今の福岡市中央区草香江の付近だと思います。今は陸地ですが、昔の草香江は入江で、奈良時代には遣唐使船も立ち寄りました。福岡城跡には外国の賓客を迎える鴻臚館(こうろかん)もありました。ただし、奴国の中心は内陸にあって、草香江は外港だったかもしれません。道のりの百里は、四分の一にして二十五里、およそ11キロです。

 奴国から東へ百里の不弥国は、多々良川河口の港です。地名で言うと、福岡市東区多の津付近になります。多の津5丁目には津屋本町公民館がありますから、古い地名は津屋です。ここも今は陸地ですが、津屋という旧地名は、昔ここが港だったことを示しています。ここも道のりの百里を四分の一にすると二十五里、およそ11キロです。

不弥国の謎

 不弥国で気がかりなことは、フミの音を持つ地名が多の津付近にないことです。

 しかし、言語学者の
長田(おさだ)夏樹氏は、『邪馬台国の言語』の中で、不弥(ふみ)をホムと読みました。長田夏樹氏の読みでは、卑弥呼(ひみこ)はヒムカ、都市牛利はタゾゴルとなるなど、参考になることが多いです。そこで、不弥をホムと読んでみたところ、予想もしない新しい展望が開けました。

 
前原(まえばる)市の西部に(ほん)という地名があり、そのすぐ南に宇美八幡宮があります。宇美町の宇美八幡宮はイザナギを祭っていますが、前原市の宇美八幡宮は、天孫降臨の主人公のニニギを祭っています。前原市にある本の地名と宇美八幡宮は、どちらも宇美町から移ったと思います。(ほん)はホムの名残で、宇美から移ったと思うのです。

 『古事記』や『日本書紀』によれば、神功皇后が応神天皇を生んだ土地を宇美と名付けたといいます。それ以前の地名がホムです。また、応神天皇には、
敦賀(つるが)の神と名前を交換した話があります。それをヒントに考えれば、ホムが宇美になった時には、応神天皇の名前も、ホムを取ってホムタワケになりました。

 ただし、応神天皇の生まれた場所を正しく特定するなら、宇美ではなく、箱崎八幡宮の近くだと思います。

 『日本書紀』の応神天皇即位前紀では、天皇は蚊田
(かた・かだ)で生まれたといいます。その蚊田は、宇美八幡宮では所在不明とされます。一方、箱崎八幡宮では、八幡宮の地に天皇の生まれたときの胞衣(えな)を埋めたといい、胞衣(えな)を納めた箱にちなんで、箱崎の地名が付いたといいます。したがって、箱崎のもとの地名が蚊田だったと思います。箱崎の西南の博多区(旧那珂郡)に堅田橋や堅粕という地名があるのは、蚊田の名残でしょう。(えな……胎児を包む膜や胎盤)

 かつては宇美も箱崎も、ホム国に属したと思います。そのホム国が宇美国に変わり、ホム国蚊田が宇美国箱崎に変わったと推定できます。後に、この地方は粕屋の屯倉
(みやけ)になり、粕屋郡になりました。その時に,宇美国の名前は、今の宇美町が受け継ぎました。それは、宇美町がホム国の中心だったからで、多の津は外港だったと思います。

 ちなみに、『角川日本地名大辞典・40・福岡県』によれば、箱崎と
志賀島(しかのしま)は歴史的に所属郡が一定しません。『延喜式』によれば、箱崎は那珂郡、志賀島は粕屋郡に属しました。中世・近世には逆になり、箱崎が粕屋郡、志賀島は那珂郡に属しました。明治以後はどちらも粕屋郡に属しましたが、今はどちらも福岡市東区に属しています。

 ホムの地名は、今では
前原(ほん)にわずかに残るだけですが、実はそれらしい地名がもう一つあります。それは宝満山(ほうまんざん)です。

 宝満山(ほうまんざん)は、山頂が巨大な岩山で、山岳信仰の山です。もとは須恵町の秋葉神社の神体山だったといい、粕屋郡とは関係が深い山です。この山がホムの山であっても不思議ではありません。おそらくホム(む・める)の音と意味からの連想で、宝満の字をあてたと思います。

 一方、山の南の旧
御笠(みかさ)郡(太宰府市・筑紫野市)では、この山は御笠山と呼ばれました。御笠郡から見るこの山は、旅の坊さんがかぶる笠に見えたり、中世の女性がかぶった市女(いちめ)に見えたりします。印象的な山です。それで御笠山といいました。

 今は、筑紫野市
阿志岐を流れる川を宝満川といいますが、これは宝満山から派生した新しい名前でしょう。江戸時代には荒船川といいました。もっと古くは蘆城(あしき)川といったようです。

 をみなえし 秋萩まじる 
蘆城野は 今日を初めて 万代に見む (万葉集 1,530)
 玉くしげ 
蘆城の河を 今日見ては 万代までに 忘らえめやも  (万葉集 1,531)  

 宇美八幡宮のサイトを見ると、正面写真には、端正な美しさが漂っています。4月29日の撮影とあります。若葉がきれいです。そうそう、隣(確か旧役場跡)の歴史館には、古墳から出たというトンボの飾り金具も展示されています。


参考までに

 卑弥呼の都と台与の都は場所が違うという説は珍しいと思います。最近はちらほらあるようです。初見は『歴史読本』1994年8月号の読者投稿欄だと思います。投降者は冨田伊一郎です。『古事記』や『日本書紀』によれば、初期の天皇は一人一人違う場所に都を置いています。邪馬台国が大和朝廷になったと考える者にとって、卑弥呼の都と台与の都が違うというのは常識です。ただ、この常識に注目する人は、これまで皆無だったかもしれません。一種の盲点です。ですから、このことに気づいたからと言って自慢にはなりませんが、気がつかないのは恥ずかしいと思います。

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