(邪馬台国への道筋については、『歴史読本』1994年8月号に発表したことがあります。参考までに一番下をご覧ください。)
6 邪馬台国への道(後)
二都式の読み方(移動する都・行国) |
今までは、行程記事の読み方には、順次式と放射式の二つがあると理解されてきました。しかし順次式はしばらく置くとして、榎一雄氏の放射式読み方には納得できないところがあります。そこで放射式読み方に少し修正を加えて、新しく二都式読み方を提案します。二都式読み方の内容は、邪馬台国への道をたどる中で説明しましょう。
一支国からさらに海を渡って千里の
ただし、末盧(まつろ)国には二つの問題があります。
一つは、壱岐から呼子までは距離が近すぎ、四百里ほどしかないことです。もう一つは、末盧国の記事に在地の官名が書かれていないことです。官が置かれていなかったとすれば、末盧国は正規のルートから外れていた可能性もあります。もしも末盧国が脇道の国なら、一支国からまっすぐ伊都国に向かうのが正規のルートだったことになります。それなら千里くらいあるでしょう。
続いて、末盧国から東南の伊都国へ、陸を歩いて五百里と書かれています。五百里の四分の一は百二十五里、54キロほどです。
この数字は重要な情報で、信用できます。昔の人は、陸上を歩くときには、かなり正確に距離を測定できたからです。たとえば伊能忠敬(いのうただたか)は、日本地図を作るために日本中を歩き回り、その歩数によって距離を測定しました。できた地図は精度の高いものでした。
魏使も同じだったと思います。魏の時代には、三百歩が一里でした。一歩は長さの単位ですが、歩くときの歩幅とも一致すべきものでした。魏の一歩はおよそ145センチです。日本人の歩幅の二歩分にあたります。中国語の一歩は、日本語の二歩のことのようです。
九州北部では、佐賀県唐津市の呼子(よぶこ)と福岡市西区周船寺(すせんじ)の間がおよそ54キロです。したがって末盧(まつろ)国は
周船寺という地名は、一大率の役所に由来するでしょう。寺の字はもとは朝廷や官庁をさし、周船寺は仏教寺院の名前ではありません。伊都国は使者の往来に必ず立ち寄るところと書かれていますから、周船寺は大宰府の前身といえる役所でした。
伊都国から東南へ百里の奴
奴国から東へ百里の不弥国は、多々良川河口の港です。地名で言うと、福岡市東区多の津付近になります。多の津5丁目には津屋本町公民館がありますから、古い地名は津屋です。ここも今は陸地ですが、津屋という旧地名は、昔ここが港だったことを示しています。ここも道のりの百里を四分の一にすると二十五里、およそ11キロです。
不弥国の謎 |
不弥国で気がかりなことは、フミの音を持つ地名が多の津付近にないことです。
しかし、言語学者の長田(おさだ)夏樹氏は、『邪馬台国の言語』の中で、不弥(ふみ)をホムと読みました。長田夏樹氏の読みでは、卑弥呼(ひみこ)はヒムカ、都市牛利はタゾゴルとなるなど、参考になることが多いです。そこで、不弥をホムと読んでみたところ、予想もしない新しい展望が開けました。
前原(まえばる)市の西部に本
『古事記』や『日本書紀』によれば、神功皇后が応神天皇を生んだ土地を宇美と名付けたといいます。それ以前の地名がホムです。また、応神天皇には、敦賀(つるが)の神と名前を交換した話があります。それをヒントに考えれば、ホムが宇美になった時には、応神天皇の名前も、ホムを取ってホムタワケになりました。
ただし、応神天皇の生まれた場所を正しく特定するなら、宇美ではなく、箱崎八幡宮の近くだと思います。
『日本書紀』の応神天皇即位前紀では、天皇は蚊田(かた・かだ)で生まれたといいます。その蚊田は、宇美八幡宮では所在不明とされます。一方、箱崎八幡宮では、八幡宮の地に天皇の生まれたときの胞衣(えな)を埋めたといい、胞衣(えな)を納めた箱にちなんで、箱崎の地名が付いたといいます。したがって、箱崎のもとの地名が蚊田だったと思います。箱崎の西南の博多区(旧那珂郡)に堅田橋や堅粕という地名があるのは、蚊田の名残でしょう。(えな……胎児を包む膜や胎盤)
かつては宇美も箱崎も、ホム国に属したと思います。そのホム国が宇美国に変わり、ホム国蚊田が宇美国箱崎に変わったと推定できます。後に、この地方は粕屋の屯倉
ちなみに、『角川日本地名大辞典・40・福岡県』によれば、箱崎と志賀島(しかのしま)は歴史的に所属郡が一定しません。『延喜式』によれば、箱崎は那珂郡、志賀島は粕屋郡に属しました。中世・近世には逆になり、箱崎が粕屋郡、志賀島は那珂郡に属しました。明治以後はどちらも粕屋郡に属しましたが、今はどちらも福岡市東区に属しています。
ホムの地名は、今では
宝満山(ほうまんざん)は、山頂が巨大な岩山で、山岳信仰の山です。もとは須恵町の秋葉神社の神体山だったといい、粕屋郡とは関係が深い山です。この山がホムの山であっても不思議ではありません。おそらくホム(褒む・褒める)の音と意味からの連想で、宝満の字をあてたと思います。
一方、山の南の旧御笠(みかさ)郡(太宰府市・筑紫野市)では、この山は御笠山と呼ばれました。御笠郡から見るこの山は、旅の坊さんがかぶる笠に見えたり、中世の女性がかぶった市女(いちめ)笠に見えたりします。印象的な山です。それで御笠山といいました。
今は、筑紫野市阿志岐を流れる川を宝満川といいますが、これは宝満山から派生した新しい名前でしょう。江戸時代には荒船川といいました。もっと古くは蘆城(あしき)川といったようです。
をみなえし 秋萩まじる 蘆城野は 今日を初めて 万代に見む (万葉集 1,530)
玉くしげ 蘆城の河を 今日見ては 万代までに 忘らえめやも (万葉集 1,531)
宇美八幡宮のサイトを見ると、正面写真には、端正な美しさが漂っています。4月29日の撮影とあります。若葉がきれいです。そうそう、隣(確か旧役場跡)の歴史館には、古墳から出たというトンボの飾り金具も展示されています。
参考までに
卑弥呼の都と台与の都は場所が違うという説は珍しいと思います。最近はちらほらあるようです。初見は『歴史読本』1994年8月号の読者投稿欄だと思います。投降者は冨田伊一郎です。『古事記』や『日本書紀』によれば、初期の天皇は一人一人違う場所に都を置いています。邪馬台国が大和朝廷になったと考える者にとって、卑弥呼の都と台与の都が違うというのは常識です。ただ、この常識に注目する人は、これまで皆無だったかもしれません。一種の盲点です。ですから、このことに気づいたからと言って自慢にはなりませんが、気がつかないのは恥ずかしいと思います。