(邪馬台国への道筋については、『歴史読本』1994年8月号に発表したことがあります。参考までに一番下をご覧ください。)
6 邪馬台国への道(前)
道のり四倍説 |
帯方郡から邪馬台国へは船で行くとあります。韓国の海岸に沿って、乍(しばらく)は南に、
これらの数字は、そのままではとても信じられません。魏の一里は約434メートルですから、七千里は約3,000キロ、一万二千里はおよそ5,200キロになります。これでは、
ところが、里数を四分の一に修正すると、狗邪韓国は金海市に落ち着き、邪馬台国も日本に収まります。金海市の昔の地名は
参考
早乙女雅博氏の『朝鮮半島の考古学』によれば、帯方郡治は、ピョンヤン南方の載寧江の下流にあったとされます。
近くで帯方太守の墓が見つかったことからわかったようです。2009・4・11追記。
陳寿の計算 |
道のり四倍説は、『三国志』を書いた陳寿も賛成してくれるはずです。なぜなら、陳寿もまた、道のりを四分の一に修正して計算したからです。ただし、陳寿はその計算を隠したかったようで、行程記事ではなく、風俗記事の中に次のように書きました。
帯方郡からの道里を計算してみると、倭はちょうど会稽(かいけい)(郡)東冶 |
陳寿の計算内容を知ろうとすれば、陳寿の立場に立って、つまり中国東方とソウル市南方を白紙にして考える必要があります。白紙の状態で、道のりを四分の一にして、記事のままに道をたどるのです。
行程記事の読み方は二つありますが、道のりを四分の一にした場合、順次式で道をたどれば
「会稽東冶の東」という表現には二つの解釈があります。一つは、会稽郡東冶県の東とする解釈です。もう一つは、会稽県(郡治所)または東冶県の東とする解釈です。これはどちらも正しいと思います。どちらの考えも陳寿の頭にあったと思います。どちらが正しいにせよ大切なことは、道のりを四分の一にしなければ、会稽東冶の東に到達できないことです。
このような記事を書いている陳寿自身、記事に矛盾のあることには気付いたはずです。それではなぜ、矛盾を解消しなかったのか、あるいはなぜ、矛盾を解消できなかったのか。ここに重要な問題があります。
そもそも、記事に矛盾が生まれた理由の第一は、卑弥呼と台与の都が別の場所にあったことです。古代の日本では、天皇が替わると都が移動しました。したがって、女王の都については、違う場所を示す二通の報告書があったはずです。卑弥呼の都には武官の梯儁(ていしゅん)が訪れ、台与の都には文官の張政が訪れたからです。さらには、都が大和に移ってからの情報もあったかも知れません。それを、陳寿(あるいは他の誰か)が無理に一つにまとめたのです。
二つ(三つ)の報告をなぜ一つにまとめたかといえば、倭国の都が移動することを、中国人は知らなかったからです。昔のモンゴル高原では、遊牧民の王が牧草地を求めて都を移動しました。中国人はそのことを知っており、遊牧民の国を行国と呼びました。しかし倭国の都が移動するとは知らなかったのです。陳寿もまた、農耕民の都は移動しないという先入観を持っていたに違いありません。
また、道のりが四倍になったのは、司馬懿(しばい)仲達(ちゅうたつ)のせいです。
岡田英弘氏の『倭国』によれば、強大な倭国が魏に朝貢したことを演出して、対立関係にあった南の呉に、心理的威圧を加える意図があったといいます。もしかすると、こういう意図があったために、東とすべき邪馬台国の方角が南とされたのかも知れません。
陳寿が『三国志』を書いた時には、司馬懿仲達の子孫が中国(晋)の皇帝になっていて、陳寿はその臣下でした。そのために、道のりが四倍になっていることを、あからさまには指摘しませんでした。