| 二度の使者・二つの都 |
十日、歩けば一月と書かれています。順次式の読み方では、まず投馬国に渡り、投馬国から邪馬台国に行くと解釈されます。
文法的にはこれでよいのですが、全行程が一万二千里を超えるところに問題があります。ですが、問題はそれだけではありま
せん。
不弥国の前後では、行程記事が不自然なつながり方をしています。大事な問題ですが、なぜか注目されていません。あるい
は、納得のいく正しい説明がされたことがないと思っています。
第一に、ルートの取り方が不自然です。伊都国を出た後、魏使は博多湾の奥に入って、奴国と不弥国を訪ねました。伊都
国は、一大率がいるから、使者の往来に必ず立ち寄るところとされます。しかし、奴国と不弥国に向かう理由がわかりませ
ん。なぜ、まっすぐ投馬国に向けて船出せずに、博多湾の奥に入るのか。初めてここを呼んだときから、どうしても納得でき
ないでいます。
第二に、道のりの表示が、里数から所要日数に変わるのが不自然です。
問題の答えは一つ。不弥国を境にして、報告者が違うのではないか。ルートはひとまず不弥国で絶えていて、そのあとに別
の報告を継ぎ足したのではないか。そう思うのです。
不弥国までの道のりが里数で示されているのは、報告者が地理の把握力に優れていたせいです。このことは、不弥国までの
方角記事にも表われています。記事の方角は、狗邪韓国から不弥国に至るまで、規則正しく45度ずれています。西北を北と見
ているのです。これは、冬の北西風を磁石代わりにした可能性があります。この報告者は、冬の季節風を利用して、やってき
たのでしょうか。冬の玄界灘は、船で渡れるのでしょうか。
いずれにしろ、この記事は報告者の性格を良く表わしています。報告者は道のりを里数で測ることができ、方角を見る方法
を知っています。こうした能力を持つと予想される人物は、最初の使者、武官の梯儁(ていしゅん)です。武官にはこうした能
力も必要だと思います。
不弥国までのルートを報告したのは、おそらく武官の梯儁(ていしゅん)です。不弥国でルートが絶えているのは、その近く
に卑弥呼の都があったからだと思います。梯儁(ていしゅん)がめざしたのは、卑弥呼の都だったからです。
不弥国以後のルートを報告したのは、二度目の使者の張政です。事務官の張政は、地理の把握は得意ではなかったかもしれ
ません。道のりが所要日数で書かれているのはそのためでしょうし、方角記事も信頼性が低いかもしれません。とは言え、台
与の都まで一万二千里と報告したのは張政です。得意ではなかったかもしれませんが、一般常識としての地理の知識は持って
いたと思われます。
| 卑弥呼の都 |
多々良川の河口から東北へ数キロのところに粕屋郡久山町があります。ここに興味深い神社があります。まず平野部の奥ま
ったところに、江戸時代にトミガタケと呼ばれた遠見岳(とおみだけ)があります。遠見岳のふもとに猪野天照皇太神宮があ
り、アマテラスが祭られています。猪野から川下方向に2キロほど下ると、上山田に神功皇后の斎宮跡の伝承地(聖母宮・
しょうもぐう)があり、さらに川下の下山田には若宮八幡宮があります。この町には、アマテラスを祭る三宮が作られたようで
す。
遠見岳────皇太神宮────若宮八幡宮(または聖母宮)
若宮八幡宮は、卑弥呼の都跡と思われます。ただし、都跡には第二候補があります。神功皇后の斎宮跡(聖母宮)です。いず
れも神功皇后を祭っていますが、古い祭神はアマテラスだと思います。また、いずれも以前は別の場所
もとは一つの神社だったかもしれません。斎宮跡の旧地は不明ですが、昔の八幡宮は、南へ400メートルのところにあったと
いいます。
もし斎宮跡が卑弥呼の都だったとすると、新たに斎宮跡を探さなければなりません。幸いにも神功皇后の斎宮跡は、古賀市
小山田にも候補地があります。『日本書紀』には、斎宮は小山田に作ったとありますから、古賀市小山田のほうが有力候補で
す。しかも小山田は、
たと思われます。
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| 卑弥呼の墓 |
そしてここには、もう一つの三宮があります。若宮八幡宮と、粕屋町戸原の伊賀薬師堂と、博多区東平尾の
王
あります。これが卑弥呼(孝霊天皇)の墓だと思います。
福岡市の教育委員会に問い合わせたところ、青柳種信の『筑前国続風土記拾遺』にこの円丘の記事があるとして、コピーを
送ってくれました。思えば、これが青柳種信との初めての出会いで、以後ずいぶんお世話になりました。福岡の神社を調べる
時、『筑前国続風土記拾遺』は欠かせない本です。
さて、その記事によると、この神社は祇園(ぎおん)社と八幡宮を合祀(ごうし)したものといい、祇園社はもと天王山にあ
ったといいます。そしてさらに、次の文章があります。
| 祇園旧社の地古松一株立てり、其下に大石あり。此所に古(いにし)への神体を乱世に埋めしといふ。さて此神の嫌ひ 給ふとて村中に古来より芦毛の馬を飼事を忌む。 |
今は円丘の上に古松は無く、大石も見あたりません。すでに後世の人が整形したことは明らかです。教育委員会でも、この
円丘を古墳とは確認していません。今のところは地面の高まりと呼んでいます。
神話によれば、スサノオが芦毛の馬の皮を
ために
に向かう前のことです。
祇園社の神が芦毛の馬を嫌うのは、この神話にかかわりがあります。普通、祇園社の神は牛頭天王といって、スサノオのこ
ととされます。しかし、ここの神は芦毛の馬を嫌うというのですから、神の実体はアマテラス2世ではないでしょうか。
芦毛の馬を飼わないのは、久山町猪野も同じです。『筑前国続風土記拾遺』に、伊野村では
「農家に芦毛の馬を飼時は
とあります。皇太神宮のアマテラス2世が芦毛の馬を嫌うのです。
スサノオは、高天原を追われたといいますが、アマテラス2世とのウケヒの場では、身の潔白が証明されたとも言います。
もしかすると、後に名誉回復されたスサノオが、アマテラス2世の墓前で祭られているのかもしれません。もしそうだとすれ
ば、この円丘がアマテラス2世(孝霊天皇・卑弥呼)の墓であることは動かないと思います。
「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼の墓の径は、およそ百歩だといいます。四分の一にすると二十五歩、およそ36メートルで
す。天王山の
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ただここで、伊賀薬師堂が中津宮になったことについては、説明が必要です。薬師堂といえば普通は仏教のお堂であって、
神社ではないからです。現地に行ってみると、薬師堂の境内に、推定樹齢450年という大きな楠の木があります。入り口には
二本の石柱が建っていて、鳥居のように見えます。名前は薬師堂ですが、たたずまいは神社です。地図にも神社のマークが付
いています。そこから800メートルほど南に若宮という地名があるのは、中津宮に由来するかもしれません。
粕屋町の教育委員会が立てた案内板によれば、昔このあたりに東円寺という大きな寺があったといいます。ところが1586年
に、島津氏の兵火によって寺が焼失しました。幸いに本尊が無事だったので、土地の人が薬師堂を建てて本尊を安置したとい
います。寺は再興できなかったようです。
思うに、兵火で消失したのは寺だけではないでしょう。一緒に神社も焼失したと思います。予算の都合もあったでしょうか
ら、神社の旧地に薬師堂を建てたと思われます。
| 宝満旧社 |
『筑前国続風土記拾遺』の那珂郡の巻に、宝満旧社の見出しで次の文章があります。
| 宝満旧社 | |
| 五領に在。所祭玉依姫、応神天皇、神功皇后なり。──略──。今農家にある社記に、此社は玉依姫の山陵なり。 故に地名をも御陵という。古昔御陵の上に神廟を立て崇祭(まつ)れり。景行天皇、神功皇后などこの神廟に御祈念の 事あり。その後、斉明天皇の勅願により、天智天皇元年再建し給ひ、同十年奉弊使を下され宝満宮と勅号をまゐらせ らる。御陵の北なる大岳塚は文武天皇藤原広嗣を勅使として、初天智天皇の御奉納の御劍を埋め給ふ表なり。などあ り。皆孟浪の説にて信用し難し。昔の社は今御陵の松と云伝る樹の東傍に有在しと云。◯扨享和二年今社の南の山中 より古鏡及太刀を掘出せり。鏡径七寸、裏に細紋并に □「天王」 如此の文字有。今破て数片になれり。太刀は朽 損して三段に折たり。これらをもって考ふれば、いづれむかし、由縁ある所なるべけれども、今は徴(しるし)をとる べきものなし。御陵といふこと故あるなるべし。上の農間にある所の社記の説は悉くは取がたし。暫書して後人の考 勘を俟(まつ)のみ。 |
|
宝満旧社とされるのは、大野城市中一丁目の宝満神社です。神社の横には御陵(ごりょう)中学校があります。大野城市の北
端にあたり、昔は那珂郡に属しました。地形的には、井野山の西のふもとにあたります。井野山から西北に向かって月隈丘陵
が伸びていますが、その南端にあたります。
月隈丘陵の東は粕屋郡志免(しめ)町で、西は昔の席田(むしろだ)郡です。席田郡は、志免町と面積がほぼ等しい小さな小さな
郡です。北と西と南を那珂郡に囲まれています。今は博多区に属しています。席田郡の中北部に卑弥呼の墓と牛頭(ごず)天王
八幡宮があります。席田郡は、おそらく卑弥呼の墓を守る人々だけで構成された、特別な群だったと思います。
初め、宝満旧社の記事はどこか怪しいと感じました。それは、宝満山(竈門(かまど)神社)に祭られる玉依姫(たまよりひめ)
以下の神々は、宇佐から移って来たことがわかっているからです。しかし、御陵の地に席田(むしろだ)池という溜め池のある
ことに気付いて、意味がわかりました。
御陵の地は那珂郡に属していても、席田(むしろだ)郡と地続きで、北の席田郡と地縁・血縁の濃いつながりがあったと想像
されます。
旧平尾村の祇園社(牛頭天王八幡宮)と御陵の宝満神社は、本家と分家のような関係にあって、もとはともに卑弥呼(アマテ
ラス)を祭る神社だったと思います。のちに、祇園社は八幡宮を合祀して今日に至り、宝満神社では祭神が入れ替わって今日
に至ったのでしょう。
青柳種信は、宝満旧社の来歴を信用し難いといいます。しかし、祇園社の来歴が分家の宝満神社に移ったと考えるなら、怪
しい話ではありません。宝満神社の来歴は、天王山が卑弥呼の墓であることを示す傍証になると思います。
なお、福岡黒田藩には、藩命によって書かれた地誌が三部あります。それぞれ通称があり、『本編(ほんぺん)』・『附録
(ふろく)』・『拾遺(しゅうい)』といいます。
貝原益軒…………………『筑前国続風土記』
加藤一純・鷹取周成……『筑前国続風土記附録』
青柳種信…………………『筑前国続風土記拾遺』
| 参考 ブログの記事へリンクします。 |
| 規則正しく45度ずれていると指摘したのは誰 追加 2008・04・16 |
邪馬台国を文章に書き起こそうと考えたときから、先人の業績はできるだけ紹介したいと考えてきました。しかし困ったこ
とに火災で本を失ったこともあって、思うようになりません。これは誰かの本で読んだことがあるとはっきり覚えているの
に、著者の名前も本のタイトルも覚えていないということがあります。狗邪(こや)韓国から不弥国まで、方角が規則正しく
45度ずれていると最初に指摘したのは誰か、あるいは誰の本を読んだのか、というのもその内の一つです。
候補者が二人いました。奥田正男氏と佐藤鉄章氏です。お二人の名前は記憶があります。奥田氏の場合は、別に雑誌で読ん
だ記憶もあります。そこで今日、荒本の大阪府立図書館へ行ってお二人の本を読んできました。
奥野正男 『邪馬台国はここだ ― 鉄と鏡と「倭人伝」からの検証』 毎日新聞社 1981年
佐藤鉄章 『隠された邪馬台国 ― ついにつきとめた卑弥呼の都』 サンケイ出版 1979年
困ったことに、どちらの本も「この本を読んだ」という確かな記憶がありません。その代わり、奥野正男氏によれば、原田
大六氏が『邪馬台国論争』の中で論証していると、紹介しています。そこで、その本も読んでみました。すると、355ページ
に「方位と距離・再論」と題して自説が展開されています。
夏至の頃には東から30度北寄りのところから太陽が昇ります。魏の使者は夏至の頃に倭国にやって来て、日の出の方角を東
と判断しました。その結果、実際の方角とはおよそ45度のずれが生まれてしまいました。というのが、原田大六氏の考えで
す。
原田大六 『邪馬台国論争』 三一書房 1969年(ウィキペディアによると、初版は1961年らしい。)
この本も読んだ記憶はありません。しかし原田大六氏なら『実在した神話』か『卑弥呼の鏡』を読んだと思います。そのな
かでも同じ主張をしたと思われます。原田大六氏は糸島の人ですから糸島の地理に明るく、そのことが大変参考になって強く
印象に残りました。その分だけ、方角が45度ずれているという説の印象が薄れたかも知れません。昔私が読んだ本がどうであ
れ、方角が45度ずれているという説の初見は、原田大六氏の『邪馬台国論争』で間違いないと思います。
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