(邪馬台国と大和朝廷を推理する)
  T伝説の巻  二章 邪馬台国 (5・6・7・8)
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7 女王卑弥呼の都(前)

二度の使者・二つの都

 不弥国の次は、投馬国と邪馬台国です。南の投馬国へは船で二十日と書かれています。さらに、南の邪馬台国へは船なら十日、歩けば一月と書かれています。順次式の読み方では、まず投馬国に渡り、投馬国から邪馬台国に行くと解釈されます。文法的にはこれでよいのですが、全行程が一万二千里を超えるところに問題があります。ですが、問題はそれだけではありません。

 不弥国の前後では、行程記事が不自然なつながり方をしています。大事な問題ですが、なぜか注目されていません。あるいは、納得のいく正しい説明がされたことがないと思っています。


 第一に、ルートの取り方が不自然です。伊都国を出た後、魏使は博多湾の奥に入って、国と不弥国を訪ねました。伊都国は、一大率がいるから、使者の往来に必ず立ち寄るところとされます。しかし、奴国と不弥国に向かう理由がわかりません。なぜ、まっすぐ投馬国に向けて船出せずに、博多湾の奥に入るのか。初めてここを呼んだときから、どうしても納得できないでいます。

 第二に、道のりの表示が、里数から所要日数に変わるのが不自然です。

 問題の答えは一つ。
不弥国を境にして、報告者が違うのではないか。ルートはひとまず不弥国で絶えていて、そのあとに別の報告を継ぎ足したのではないか。そう思うのです。

 
不弥国までの道のりが里数で示されているのは、報告者が地理の把握力に優れていたせいです。このことは、不弥国までの方角記事にも表われています。記事の方角は、狗邪韓国から不弥国に至るまで、規則正しく45度ずれています。西北を北と見ているのです。これは、冬の北西風を磁石代わりにした可能性があります。この報告者は、冬の季節風を利用して、やってきたのでしょうか。冬の玄界灘は、船で渡れるのでしょうか。

 いずれにしろ、この記事は報告者の性格を良く表わしています。報告者は道のりを里数で測ることができ、方角を見る方法を知っています。こうした能力を持つと予想される人物は、最初の使者、武官の
梯儁(ていしゅん)です。武官にはこうした能力も必要だと思います。

 不弥国までのルートを報告したのは、おそらく武官の
梯儁(ていしゅん)です。不弥国でルートが絶えているのは、その近くに卑弥呼の都があったからだと思います。梯儁(ていしゅん)がめざしたのは、卑弥呼の都だったからです。

 不弥国以後のルートを報告したのは、二度目の使者の張政です。事務官の張政は、地理の把握は得意ではなかったかもしれません。道のりが所要日数で書かれているのはそのためでしょうし、方角記事も信頼性が低いかもしれません。とは言え、台与の都まで一万二千里と報告したのは張政です。得意ではなかったかもしれませんが、一般常識としての地理の知識は持っていたと思われます。

卑弥呼の都

 多々良川の河口から東北へ数キロのところに粕屋郡久山町があります。ここに興味深い神社があります。まず平野部の奥まったところに、江戸時代にトミガタケと呼ばれた遠見(とおみだけ)があります。遠見岳のふもとに猪野天照皇太神宮があり、アマテラスが祭られています。猪野から川下方向に2キロほど下ると、上山田に神功皇后の斎宮跡の伝承地(聖母宮・しょうもぐう)があり、さらに川下の下山田には若宮八幡宮があります。この町には、アマテラスを祭る三宮が作られたようです。

 
 遠見岳────皇太神宮────若宮八幡宮(または聖母宮)

 若宮八幡宮は、卑弥呼の都跡と思われます。ただし、都跡には第二候補があります。神功皇后の斎宮跡(聖母宮)です。いずれも神功皇后を祭っていますが、古い祭神はアマテラスだと思います。また、いずれも以前は別の場所にあったといいます。もとは一つの神社だったかもしれません。斎宮跡の旧地は不明ですが、昔の八幡宮は、南へ400メートルのところにあったといいます。

 もし斎宮跡が卑弥呼の都だったとすると、新たに斎宮跡を探さなければなりません。幸いにも神功皇后の斎宮跡は、古賀市小山田にも候補地があります。『日本書紀』には、斎宮は小山田に作ったとありますから、古賀市小山田のほうが有力候補です。しかも小山田は、
小呂島(おろのしま)ノ島(あいのしま)を結ぶ直線の延長線上にありますから、古くからの聖地だったと思われます。

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