![]() 本尊・木造如意輪観音菩薩坐像は、像高ニ尺大。右足を立て膝にして座し、右手を頬にあてて、思惟(しい・・・思索。思考。)の相をし、左手は垂れて地をおさえています。如意輪観音は普通、一面六臂(ろっぴ・・・ひじ。)の坐像が多いが、当寺御本尊は一面二臂であります。(六臂の密教以前のもの) 高い宝髻(ほうけい・・・もとどり。たぶさ。)を宝冠で飾り、胸には瓔珞(ようらく・・・連珠の飾り。)が揺れます。像の相好がおおらかで人間的なものを感じさせます。 六観音または七観音の一つです。如意宝珠の三昧に住して自在に説法し、衆生のあらゆる苦しみを取り除き、利益を与えるといいます。 |
![]() 臨川山(山切川を臨む保福禅寺)創建当初から宝歴(1751〜1763)年間までは、当寺の山号は「長慶山」でした。昔、山切村には度々洪水による災害があったようで、その影響で山切川の流れが当寺の前にまで近づいていたようです。 その災害による結果、当寺の前に縁ができたことから、山号を「臨川山」と改めたようです。(大正7年から2、3年がかりで耕地整理をし、山切川は現在の位置に戻されています。現在当寺から西へ200メートルほど離れた所を流れています。) |
![]() 旧太田家裏門今から約一世紀前、山切の太田源左衛門氏(初代の太田臥牛という方は、明治27年に巴川製紙の前身、太田製紙を創業した人物。)の一家が絶えようとした時に、当寺壇信徒の方が、その屋敷の裏門を買い求め、寄贈して下さいました。それが現在の山門です。この寄贈がある以前は、山門と呼ばれるものはありませんでした。山門が修復されるまで、瓦には太田家の家紋が刻まれていました。(平成18年1月18日から同月下旬にかけて、再び山門の修復工事が行なわれました。) |
![]() 洗心童子像(別名箒小僧)石質立像三尺大「洗心」とは、心の塵を洗いおとすこと、心の煩累を洗い去り浄めること、改心することをいいます。心を浄めることは常に心がける必要があります。 子宝に恵まれない一婦人がこの小僧の頭をなでたところ、不思議と懐妊されたと聞きます。 |
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![]() 聖観世音菩薩像(観自在菩薩)木質座像一尺四寸大横澤山歓料寺(焼失)の御本尊。歴代住持位牌・過去帳ともに保福禅寺が管理しています。大慈悲心の体現者であり、三十三に化身してあらゆる形の苦難から人々を救われます。 |
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山切の地に住う人々を慈しむ地蔵尊お地蔵様が信仰されてきたわけは、子育て(子供を丈夫に育てる力)、安産(安産させる力)、抜苦(この世の苦しみを和らげる力)、衆生済度(誰にも御利益を与える力)など霊験(不思議な力)があると言われてきたからです。今あるこの世の大地の中に、総てのものを育てる力が内蔵されているように、人々を慈しむ心を無限にもっておられることから「地蔵」の名が付いたとされております。時代の流れと共に、さいの河原の信仰と結びついて、親子の所縁が薄く旅立った幼児、また母の胎内から出ずに逝った嬰児達の苦しみを救ってくださるのが地蔵尊であると言われています。 山切の地蔵尊は、江戸時代の中期に山切川の氾濫や川遊びでの水死、また水害によって命を落とした、多くの子供達を里人が哀れみ、浄財を寄せ合って、歓料寺の住僧(元文4年7月示寂)の世代に建立したものと伝承されています。 一説には、青木家或いは土肥家の寄進だとも言われており、始めは川の近くに建立しましたが、江戸末期の洪水で流失の恐れが出たため、山の中腹に移転し、山切部落を見守ってくれていました。その後、山切部落で維持管理してきましたが、戦後建物がいたみ、交通の便も悪いことから、昭和47年に当寺境内の地蔵堂に移し、納められました。 それからは交通の便も良くなり,当寺現住職を始め多くの人達から、お地蔵様を元の場所に戻したらどうかという意見が出たことから、平成9年3月に現在の場所(峠)に再度移転されました。(地区内多数の皆さんから寄せられた浄財によって、立派な地蔵堂が再建されました。) 地蔵尊の霊験を今一度思い起こし、山切の歴史を大切にすると共に地域が平安でありますよう願いたいものです。 |
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峠の地蔵尊様の御詠歌(和文を用いて仏徳を讃嘆する讃歌)の紹介峠の地蔵尊様には下記二首の御詠歌が伝えられています。主に祭事や観音講などで唱えられます。
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