山切(やまきり)地名の歴史

歓料寺跡 半僧坊(観音堂)

 山切川中流域に位置する。弥生後期〜古墳時代の宮平遺跡、古墳後期の東久佐奈岐古墳群などがある。

 [近世] 山切村 江戸期〜明治22年の村名。駿河国庵原郡のうち。幕府領。元禄11年からは旗本石川氏領。村高は、「元禄郷帳」267石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに268石余。助郷は東海道興津宿へ出役。産物は竹・木・柿・栗・薪。村内には弾正ヶ淵と呼ばれる谷川の淵があり、平家の一族平岡弾正正包が居住した所という。寺社は臨済宗保福寺・同宗歓料寺・御岳権現社、明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称)。同4年静岡県に所属。同7年 成舎を設立。明治22年庵原村の大字となる。 

 [近代] 山切 明治22年〜現在の大字名。はじめ庵原村。昭和36年からは清水市の大字。明治24年の戸数57・人口422・厩3

(「一村一家」庵原まちづくり推進委員会発行)より抜粋

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伝説・民話 山切川の氾濫(はんらん)

西山から清水港(駿河湾)を望む

 山切川が、草ケ谷を流れる際には曲がりくねっていたため、時々洪水による災害があった。そこで、天野家の祖先が河道を変更させて、現在のように直通させたという。なお、「庵原村誌」に「現今ヨリ約80年前ニ於テ、山切川・庵原川氾濫シテ大洪水トナリ、当時稲ハ腐蝕シタルヲ以テ稗(ヒエ)ヲ蒔キテ食料トセシトゾ」と記録がある。

(「一村一家」庵原まちづくり推進委員会発行)より抜粋

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山切(やまきり)の歴史

西山から寺山(保福禅寺)を望む

 寛永(1624−1644)の改め高は267石9升9合で、享保10年もまったく同じである。旗本の石川大隅守正邦(4千石)の知行所で、更にこの中に保福寺の除地(免税地)が2斗5升、歓料寺の除地5斗があった。 

 山切と言えば、太田氏について語らなくてはならない。(系図は省略)三保の太田と同じ系統である。太田本家は太田政雄氏のお宅である。ポンカンをやっているお宅(松太郎氏)、源左衛門氏(現在はない)のお宅は分家になる。この源左衛門氏のお宅の立派な石垣は今も残っている。このお宅の4代前が初代の太田臥牛という方で、清水銀行の設立に加わったり、清見寺で禅を学んだり、農林業や駿河半紙などの事業を経営した。その後、明治27年に太田製紙を創業した。しかし、明治41年に経営不振となり、吉川製紙となり、これも不振で巴川製紙に合併した。という訳で、現在の巴川製紙の前身を築いたのは太田氏である。当時山切は、紙漉きが盛んであったから、そこから出発した。新天地を求めて始めた偉大な第一歩であったが、旦那商売で人を疑うことを知らず倒産してしまったのである。現在では、子孫の方が焼津で食料品屋をやっていることがわかり、何か残っていないかと調べさせていただいたが、残念ながら重要なものはなかった。こうしたお宅が村を去って行くということは、大きな時代の変遷を思い、しばし無常観に浸るのである。(杉山とか土肥といったお宅も旧家である。土肥氏は神奈川県から移住してきたし、青木氏も神奈川から来ている。) 

 土肥氏は、桓武天皇を祖とし、頼朝の挙兵に応じ、石橋山の危急を救い、頼朝の重臣となった土肥次郎実平の末裔であると言われている。古くから伝わっているものは多かったが、現在は何も残っていないということである。 

 青木氏の祖先は、石切りの棟梁で、北条の家臣だったが、穴山梅雪に仕えて江尻城を築くとき、土肥(今の神奈川県の真鶴付近)から移って来た。こちらへ来てから青木を名乗った。この青木氏が庵原村内に広がって行った。又、上青木家には、頓智をきかせて家康を喜ばせ、彼からいただいたソテツが残っている。(現在清水西高にあるということである。) 

 尾羽の牧田本家の先祖、平岡弾正包盛は、平家の一族と言って始めは山切に入り、尾羽へ移った。このように言われているが、ひとつ疑問がある。それは尾羽の八幡神社を祀ったことである。八幡さんは、源氏の神様だから、これは何かの間違いであろう。

 その他、天神森には天神さんがあるし、地蔵山には地蔵尊を祀っている。このように、地名には何かの理由がある。又、これは草ケ谷に天気さんと言われるお宅(朝比奈さん)とか、隠居とか本家とか新屋(しんや)、(にいえ)等、このような屋号の理由は、何かと疑問をもって欲しい。又、中村、上、下、藪の家(やぶのうち)等の屋号の家は古い家である。タバコ屋等は新しい家で明治以後のものである。油屋とか、酒屋などは古い。このようなことにも興味をもって調べてみるのも面白いと思う。

(「一村一家」庵原まちづくり推進委員会発行)より抜粋

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