扇面の蒐集家「仁杉李院」  玄関へ戻る

 インターネットで「仁杉」を検索したら、「仁杉李院」をヒットした。
 アクセスして見ると佐賀大学に「仁杉李院」著の扇譜があるという記事だった。 佐賀大学付属図書館には民族学者市場直次郎が近世後半から明治期にかけての小説(草紙)類などの和書と文人の書画を集めた膨大なコレクションが所蔵されており、このコレクションの中に「仁杉李院」という人が著した「扇譜」があるという。
 市場直次郎は佐賀の出身ではないが、戦前に佐賀の師範学校教授、高校長などを歴任した関係で佐賀と密接な関係があり、佐賀大学が3期にわけてコレクションのすべてを購入して現在は付属図書館に所蔵している。

 その第一期コレクション818点のうち、近世の文人による扇面に描かれた書画(扇面)が500点を占め、全国的にも例がないという。   

  佐賀大学図書館 所蔵扇面についての解説

花卉をあしらった華やかな扇面
  (佐賀大学HPより)
      仁杉李院の扇面


 扇は本来の用途を越えて、服飾儀礼に用いられたり、和歌などを書き留めるに使われたりするようになり、更に芸術的な書画が描かれるようになって、扇が実用性から離れてあたかも芸術表現の画面、キャンパスとなった「扇面」が発達した。
 仁杉李院はこの扇面の大蒐集家だったようだ。

「仁杉出自考」としては「仁杉」に関連することはすべて調べる、という精神で、佐賀大学図書館を訪問し、その扇譜を見せていただいた。

扇譜は上の写真のようにB5くらいの大きさで60ページほどの小冊子、表紙こそ何の装丁もない簡素なものだが中を見るときちんと木版印刷されたもので、多数印刷されたものの一部のようだ。天保9年(1838年)の刊とある。


序文、前書、後書の検証
1)立原任序文  
 内容を見ると、まず立原任という人の漢文による序文(天保9年3月)がある。立原任は江戸中期から後期にかけての南画家。 天明年間に水戸藩士の家の長男として生まれ、長じて水戸藩に仕えたが、江戸に出て谷文晁に師事して南画の道を究めた人だ。




釈文 (藤澤国興氏 協力)

物は好むによりて集るといへり、されど好む事深からされば集り来ることなし。
仁杉李院大人、年久しく書画の扇を集め給ひて其数千柄に余るを、おほやけ(公)事のいとま(暇)に是をもてあそび(注1)て楽しみ給ひける。
ひとめやつがれ(自分)に向ひて、是がなにはのよしあしをただし(注2)、其内よりぬけいで候よしとめでぬべき絵の人名を書つけ目録となしてたび(度)収めさらば、人々にも見せんと乞はれけり。
是其好む事深きによりてかかるめずらかなるものの集りぬるに、されど李院大人の心さしをめでて、以ってけけ(結解 注3)が其よしを端つたに書つつ。
       天保九年戊戌仲冬  
                  古藤養山  印

   注1 もてあそび    賞玩する、大切にするの意
   注2 なにはのよしあし:古来有名な「難波の葦」にかけてよしあしと続けたもの。
               いいか悪いか、事の善悪、是非
   注3 結解      :結ぶことと解くこと、始めることと終わること  
   注4 戊戌       干支 ちつちのえいぬ(天保9年)
   注5 仲冬       11月のこと   


序文を書いた立原任についてはWikipediaに

立原杏所(きょうしょ)
 江戸中期から後期にかけての南画家。
 天明5年12月26日、水戸横竹隈に水戸藩の藩儒で、水戸藩彰考館管庫であった立原翠軒の長男として生まれた。祖父は水戸藩彰考館管庫の立原蘭渓。
 水戸藩藩士として、7代藩主徳川治紀、8代斎脩、9代斉昭に仕える。幼い頃、林十江に画筆を学んだ。以来、画の道を究め、父の門下で鮎画の名手であった小泉壇山などに師事し、伊勢国寂照寺の僧にも影響を受けたという。
 享和3年に父が隠居し、家督を継いで先手物頭、扈随頭などの職を務めた。文化9年、江戸に出府してからは谷文晁に師事し、中国の元代から明、清の絵画にも通じたという。とくに憚り南田、沈南頓の画風を学んだという。その作品には謹厳にして、高い品格を漂わせ、すっきりと垢抜けた画風が多い。渡辺崋山、椿椿山とも交流があった。
 その他、業績としては日本画多数。著書に『水滸伝印譜』、『近世書画年表』、『墨談評』などがある。
 諱は任、字は子遠。任太郎とも。東軒、香案小吏、杏所などと号した。三男は幕末の志士・立原朴次郎、子孫に大正時代の詩人で建築家でもある立原道造がいる。
 天保11年5月20日没。56歳。墓は茨城県常澄村六地蔵寺。

とある。

2)古藤養山の序文

次に古藤養山という人の序文がある。 古藤養山という人がどのような人であるか残念ながらわからない。内容は写真のように仮名まじりの文章であり、文中に
 仁杉李院大人、年久しく書画の扇を集めぬひて其数千柄に余るを、おほやけ(公)
  事のいとま(暇)に是をもてあそびて楽しみ給ひける。」

とある。 李院という人は公務の余暇に数千にものぼる扇を集めて賞玩し楽しんでいる、という意味である。               

釈文 (藤澤国興氏 協力)

物は好むによりて集るといへり、されど好む事深からされば集り来ることなし。
仁杉李院大人、年久しく書画の扇を集め給ひて其数千柄に余るを、おほやけ(公)事のいとま(暇)に是をもてあそび(注1)て楽しみ給ひける。
ひとめやつがれ(自分)に向ひて、是がなにはのよしあしをただし(注2)、其内よりぬけいで候よしとめでぬべき絵の人名を書つけ目録となしてたび(度)収めさらば、人々にも見せんと乞はれけり。
是其好む事深きによりてかかるめずらかなるものの集りぬるに、されど李院大人の心さしをめでて、以ってけけ(結解 注3)が其よしを端つたに書つつ。
       天保九年戊戌仲冬  
                  古藤養山  印

   注1 もてあそび    賞玩する、大切にするの意
   注2 なにはのよしあし:古来有名な「難波の葦」にかけてよしあしと続けたもの。
               いいか悪いか、事の善悪、是非
   注3 結解      :結ぶことと解くこと、始めることと終わること  
   注4 戊戌       干支 ちつちのえいぬ(天保9年)
   注5 仲冬       11月のこと    

3)古筆了伴の序文

次は古筆了伴という人の仮名混じりの序文である。 仁杉李院氏は年来古筆の扇面を好んで集めその数千々にあまる。今度その中から選んで世の人々に長く公開するので真偽をただし、ついでに序文を頼まれた、というような意味の文章である。  
 最後に長月とある。これは天保9年の9月と考えられる。

         古筆了伴の序文

釈文

ここに仁杉李院うじ(氏)は年来古筆の扇面を好み集て所持せらるること千々にあまれり。

こたび其中にも猶名高き人々を撰出し、おのれに見せ、正しきを揃木にえ(選)りて同志の人々にも見せ永く伝えむとなり。

凡扇面をあつ(集)むる人もあれば此えらび(選)には及び難し。

真偽をただしついで(序)に端書せよとあれはもたしがたくてかくなむ
  長月   古筆了伴
   

古筆了伴はこの時代の著名な鑑定家で、仁杉李院とも交友があったようだ。思文閣芸術人名辞典によれば、代々、芸術鑑定を家業とする「古筆」家の本家第十世。父は了意。名は最恒、通称弥太郎、号は大蓬菴夢翁。嘉永6年(1853)64歳で歿。
「古筆」家の開祖は江戸初期の古筆了左。 本家、分家、門人筋などに分かれたが、江戸期を通じて和漢図画鑑定の権威として活躍した。

4)香雪山晋識の後書
 後書の冒頭に  「李院君劇(激)務余暇聚書画扇為楽毎獲一扇・・」とあり、李院が忙しい本業の余暇に書画扇を集めていたことを記している。


本編目録

目録編には「仁杉李院秘蔵」として左の写真のように後陽成院(天皇)の宸翰歌一首を筆頭に公家(鷹司、近衛、冷泉など)、大名、画家、儒者、書家、僧侶、国学者、文学者など実に500点に上る扇面のリストが挙げられている。
 なかにはその作品が国宝になっている人も多く、この蒐集には膨大な資金が必要だったであろう。
 
 この実物が現在どうなっているのかわからない。 

 佐賀大学には近世の文人による扇面に描かれた書画(扇面)が500点もあり、全国的にも例がないという。
 李院のコレクションの全部または一部でも佐賀大学に所蔵されているのか、調査が必要である。


仁杉李院は誰か? 
 仁杉という苗字はそれほど多いものでない。 仁杉李院は仁杉家と何らかの関係があったものと考えられる。
 この扇譜が発刊されたのは天保9年。 この頃は仁杉与力本家の当主・五郎左衛門が南町奉行所の年番与力として絶頂期にあり、また分家の2代目八右衛門も吟味方与力として活躍していた頃である。
 上記扇譜の後書には
  「李院劇(激)務余暇以聚書画扇・・」
とあり、他の業務の合間に扇面の蒐集をしていたとあり、扇面蒐集が本業ではなかったようだ。
 また古藤養山の序文には
  「おほやけ(公)事のいとま(暇)に是をもてあそびて楽しみ・・」
とあり、その業務が公の仕事、すなわち役人であることを示唆している。

 仁杉家の雛道具
で述べたように仁杉家では天保年間に家作一軒が建つほど高価な雛道具を購入して後世に伝えている。 このように五郎左衛門は書画工芸には造詣が深かったので、雛道具を集める一方で扇面も蒐集していた可能性は十分にある。

また、八右衛門家3代目幸昌の若い頃の日記にも、仁杉家で扇面を所蔵していた事を窺わせる記事がある。
 与力の日記の嘉永2年5月7日の項に
  
七半時頃より大雨中雷あり、夜五半時頃より曇りなから星出ル今日惣休二有之、建斎・湯浅薬民・鈴木良庵・野田貴二扇面為見物相越ス、夜八ツ時済・・。
とあり、同僚あるいは部下の同心と思われる四人が、扇面見物のため屋敷に来た事を記している。 さらに同月12日には意味がわからないが、「寄場扇面見物」という記事もある。


 これらの事から、この「仁杉李院」は仁杉五郎左衛門あるいは分家八右衛門(幸雄)の余暇活動、趣味の世界の別名と考えられる。
 天保9年といえば五郎左衛門は51歳で南町奉行所の支配与力、分家八右衛門幸雄は30歳台の吟味役である。 
 扇面収集という趣味は年長で経済力にも優る本家の五郎左衛門である可能性が高いが、それを断定する史料は見つかっていない。

 
なお、この版木の刻者は「邱嘉平」とある。


 この李院の名による「江の島日記」という紀行文が鎌倉市史に掲載されているという情報を四番町歴史資料館の滝口氏から伺い、早速調べて見た。   李院妻女の江の島日記.参照