李院妻女の江の島紀行   トップ 
 鎌倉市史に李院という人の「江の島紀行」が掲載されているという情報を、四番町歴史資料館滝口氏からいただき、早速調べたところ、鎌倉市史近世近代紀行地誌編(昭和60年1月発刊)にその紀行文が掲載されていた。
 
 この現本を鎌倉市役所総務課、鎌倉図書館のご好意で見せていただいた。 
 
 写真のように厚紙の箱に保管されている原本は、半紙ニッ折で23丁からなり、最後の1丁が「朴園陳人」なる人の跋文となっている。

 箱には「江の島紀行」とあるが、原本表紙に貼られた題箋には不鮮明ながら「江乃嶋記行」と読める。
 また裏表紙には「仁杉」とある。
 本文は150年の歳月を経てかなり虫食いも進んでいるが、墨跡あざやかで判読には支障はない。

          箱 表紙 裏表紙
仁杉という表記あり
本文
虫喰がかなりあるが判読に支障はない。

内容
 文頭に「鎌倉鶴が岡、江の島詣でをしたいと何年も思っていたが、何かと忙しく、少し遠いこともあり実現しなかった。 今年は何の支障もないので卯月の中の八日早朝に出立」という記述がある。
 跋文から、これが
安政2年(1855)4月18日である事がわかる。 
 内容は18日に江戸を発ち、23日に帰府する5泊6日の小旅行の紀行文で、その行程はおおよそ次のとおりである。
4月18日 高輪⇒大森梅園⇒六郷(舟渡し)⇒川崎宿万年屋(昼食)⇒神奈川宿井枡屋(宿泊)
4月19日 神奈川宿⇒台の茶屋⇒浅間社⇒程が谷(保土谷)⇒関の立場(小休)⇒能見堂⇒金沢八景見物⇒一葉の松⇒瀬戸橋⇒東屋⇒照手姫ふすべ松⇒野島・夏島(潮干狩)⇒一覧亭⇒東屋(宿泊)
4月20日 東屋⇒瀬戸明神⇒枇杷島弁天⇒金竜院⇒竜灯の松⇒朝比奈切通し⇒鼻欠地蔵⇒梶原屋敷跡⇒頬焼阿弥陀⇒杉本寺⇒荏柄天神⇒大塔宮上の牢⇒大倉⇒宝海寺前⇒頼経将軍屋敷跡⇒鶴岡三の鳥居前⇒雪ノ下入沢屋(小休)⇒鶴岡八幡宮⇒源頼朝墓⇒大江広元墓・島津忠久墓⇒鶴岡八幡宮⇒丸山稲荷⇒青梅聖天⇒新居閻魔堂(円応寺)⇒建長寺⇒杉谷弁天⇒北条時頼墓⇒東慶寺(小休)⇒円覚寺⇒浄智寺⇒化粧坂⇒海蔵寺⇒弘法大師十六の井⇒扇谷管領屋敷跡⇒寿福寺⇒若宮小路⇒雪ノ下大沢屋(小体)⇒段葛・ニの鳥居⇒長谷小路⇒長谷三ッ橋屋(宿泊)
4月21日

長谷谷三ッ橋屋⇒光則寺⇒深沢三仏⇒長谷寺観世音⇒佐助稲荷⇒長谷三ツ橋屋(昼食)⇒御霊社⇒虚空蔵堂⇒朝比奈切通し⇒浄善寺・極楽寺⇒弁慶腰掛松⇒日蓮上人袈裟掛松・十一人塚⇒茶屋(昼食)⇒七里が浜⇒腰越村⇒満福寺⇒片瀬付竜口寺⇒(舟渡り)⇒江の島恵比寿屋⇒下の官⇒上の官⇒遊行上入成就水⇒岩屋本社⇒稚児が淵⇒岩屋⇒奥の院⇒江の島恵比寿屋(宿泊)

4月22日

江の島恵比寿屋⇒岩屋⇒下の宮鳥居前(貝細工買物)⇒江の島恵比寿屋⇒(舟渡り)⇒石上村⇒藤沢宿湊屋(小休)⇒遊行寺⇒戸塚宿⇒追分・長芋坂・焼餅坂⇒武蔵・相模国境(小休)⇒程ヶ谷宿並岡屋(宿泊)

4月23日

程ヶ谷宿並岡屋⇒神奈川台(小休)⇒川崎⇒六郷大森山本屋(昼食)⇒品川⇒八ッ山(小休)⇒泉岳寺⇒田町三田八幡社⇒帰宅


 疲れを知らない精力的な観光旅行で、特に3日目の行程には驚かされる。金沢八景で前日の残りの名所旧跡を訪ねた後、朝比奈峠を越えて鎌倉に入り、夕方暗くなるまで鎌倉中を観光して廻っている。
 また、@出立のとき、A金沢八景、B鶴が丘八幡宮、C江の島、D帰着のとき、にそれぞれ和歌を詠んでいる。

 この紀行文本文には筆者名は記してないが、跋文の内容から筆者を李院妻女としている。鎌倉市史の編纂委員長でもある児玉幸多氏は、この紀行文の説明の中で、「筆者の身許は不明であるが、女性らしいやさしい筆致で、旅情はよく出ており、おそらく下町の商家の妻女だろう」と推定している。

児玉幸多氏の説明
江の島紀行
 
筆者の李院妻女の身許は不明である。 帰りが品川から泉岳寺へ参り、田町の八幡宮に詣でて帰宅したところをみれぱ、その住所は、いわゆる山の手ではなく、恐らく下町の商家であろう
 
安政2年(1855)4月18日に江戸を出発して、大森の梅園で遊び、川崎の万年屋という有名な茶屋で昼食をし、神奈川の丼桝屋に泊っている。まだ早かったので権現山に登って海上の風景などを跳めている
 
19日には程ケ谷より金沢への道に出て、金沢八景の探勝に赴くのは、当時江戸から来る人の一般的な道筋であったからである。 瀬戸橘の傍らの東屋を宿と決めてから、船で湾内を巡ったり、干潟に下りて貝を拾ったり、ゆっくりした見物を楽しんでいる
 
20日にそこを出るが、ここに金沢侯の陣屋とあるのは、この地方を支配した大名米倉氏の陣屋である。 1万2千石の小藩で、初め下野国の皆川に陣屋を置いたが、享保7年(1722)に武蔵国久良岐郡金沢に陣屋を移して、幕末に及んだのである。
 この人も朝比奈の切通しから鎌倉に入り、「案ない子」を伴って諸杜寺に参詣している。

 
八幡宮・建長寺、.浄寿寺、東慶寺、円覚寺、浄智寺などを型の如くに巡って、長谷の三つ橋屋を宿とした。
 21日には光則寺から深沢の大仏、長谷の観音、それから佐助稲荷などを経て腰越に出る。 ここから船で江の島に渡り、恵比寿屋を宿と決めてから島内を巡るのは誰もする通りである。 翌日は小雨のなかを再び岩屋に行っている。 磯うつ浪のさまを美しく描いている。

 
貝細工などを求めて、また渡し場から片瀬に渡り、藤沢に出て、遊行寺に詣でて、程ケ谷まで戻って泊る。 
 翌23日に江戸に帰ったのであるが、同行者のことには全く触れていないので、どういう旅行ぶりかはっきりしないところもあるが、女性らしいやさしい筆致で、旅情はよく出ている。
 
この原本は澤壽郎氏所蔵の写本であるが、雑誌「鎌倉」第12号に収録されている。

 
市史に、この紀行文が雑誌「鎌倉」に収録されているというので、鎌倉中央図書館所蔵の「鎌倉」第12号(昭和39年5月発行)(写真左)を調べたところ、所蔵者である澤壽郎氏は、この日記の筆者について「江戸の李院という人(不明だが、やはり富有な町人であろう)の妻女」だろうと推定しており、更に「裏表紙に仁杉とあるが、あるいは筆者の姓ででもあろうか」と書いている。 
雑誌鎌倉の表紙と澤壽郎氏の解説
江の島紀行.
 これは、江戸の李院という人(不明だが、やはり富有な町人であろう)の妻某女の自筆の紀行である。 裏表紙に「仁杉」とあるが、或いはその姓ででもあろうか。
 ここには省略したが、「八十翁、朴園陳人」という人の跋があり、それに依ると、この紀行は安政乙卯(二年、1855)に成ったものである。
 即ち、筆者の某女は、安政2年4月18日に江戸を発ち、金沢・鎌倉・江の島にそれぞれ一泊して巡覧し、23日に帰宅したのである。 文字も文章もしっかりしているのは、なかなか素養のあった婦人と思われる。
 原本は、半紙ニッ折で二十三丁、内最後の一丁が跋である。                   (沢 寿郎)

 市史には掲載されていない跋文を見ると、下の写真のように本文とは異なる筆跡で、
  安政乙卯のとし仲夏 八十翁 朴園陳人
とある。
 朴園陳人が誰であるかはわからないが、文面によると、以前李院の「木曾道中の旅日記」に跋文を書いており、この縁で妻女の江の島紀行にも跋文の依頼があった、としている。

 いにし年、李院君の木曾道中の旅日記のはし書せし事ありしに、こたび内君江の嶋日記詣ふでの旅日記の末に、己が文を飄迺屋のぬしもて乞ひ給ふ。 
 其旅日記をつら/\見侍るに、名處/\の歌さへ書ひつけて目のあたり景色を見ることく、いと/\面白う覚へける。 
 李院君は五七五の俳句・ざれ歌の滑稽を宗とし、内君は景色を□はりに記して歌よみ給ふ。
 夫婦別ありのひしりの教へにかなひて、□ふたの中、むつましき家のいやさかゆへしるしなるべし。 
 はし書せしえにしあれば、又巻の末に文しるしぬるは、冬尾調ふ嬉しさに、老も拙も忘れて□を□□する事しかり。
          安政乙卯のとし仲夏 八十翁 朴園陳人

 以上の事から、この紀行文の筆者が、多くの扇面を蒐集し、扇譜を編纂した仁杉李院の妻女であると断定してよい。

 
 問題は、「仁杉李院」が誰であるか、である。
 これまで、仁杉李院=仁杉五郎左衛門と推定しているが、、五郎左衛門の妻は天保10年(1839)に死亡しており、安政2年(1855)4月の紀行文の筆者になり得ない。
 この李院が扇面収集家の「仁杉李院」であるなら、「仁杉李院=仁杉五郎左衛門」説は否定される。
 五郎左衛門には妾がおり、五郎左衛門獄死後も生存していると思われるが、李院を名乗ったかどうか。可能性としては低いと思われる。

 仁杉李院が五郎左衛門ではなく、同時代の八右衛門(幸雄)とする推定も成り立つ。 幸雄もその妻もこの紀行文の年(安政2年)には存命であった。
 しかし、幸雄はこの翌年、安政3年6月に死亡しており、妻・智も4年後の安政6年8月に死亡している。 安政2年には、かなり高齢になっていたはずだ。
 旅行の日程から見ても、この女性はまだ十分に健康で、歴史の知識があり、且つ、和歌を詠む素養があったと推定される。
 八右衛門幸雄の妻だとすると、厳格な規則、習慣に縛られていた町方与力の妻女が、物見遊山で江の島に旅行できたのか、疑問である。
 

李院の「江の島紀行」解読文(全文)

 江の島紀行 解読文

 鎌倉鶴が岡江の島詣の事、あまたとしおもひわたりけれど、何くれと世のことわざしげく、また道の程もやゝ遠ければ、心にもまかせざりしを、ことしばかりは何のさはる事もなくて、卯月中の八日しのゝめに出たつ。 空のけしきいとしづかなり。

  ねぎ事の としをかさねて 夏衣
       けふおもひ立 たびぞすゝしき

 高輪にてしばし休らふ。東海寺・海安寺の紅葉過にし秋見しおもかげなどしのばれて、青葉しげれるさまも見まほしけれど、行先のいそぐまゝに立もよらず。さめず・あらゐが崎をも打過て、大森なる梅園に遊び、六郷の舟渡しもいとやすらかにこえ、川崎の万年屋といへるに立よりて、昼の支度などとゝのへ、神奈川の井桝屋にやどりぬ。 それよりむかひなる権現山にのぼり、海面はるかに野毛・本牧のあたりを見れば、ゆふ日のけぶり心ぼそくたちのぼり、うしろざまに見かへれば、田畑もまた一つの景色なり。やゝ日も西にかたぶけば、元のやどりに帰る。

 十九日 晴、辰の刻近きころ此やどりを立出、台の茶店を過て浅間の御社にまうづ、富士の人穴といへるもめづらし。程が谷より金沢の道まかり/\て、関といへる立場にやすらひ、山坂のけはしき道を過て能見堂にいたりぬ。この所の景色筆にもおよび難しとて、いにしへ巨勢の金岡が筆を捨けんも実にことわりとおぼゆ。爰にふですての松とて大樹あり。むかし心越禅師この所に来り給ひて、もろこしの西湖の八景に似たりとて、八景の名をぞつけられしとかや。此寺の額の面竹葉の詩其筆今に残れり。堂のかたはらに三星といふ亭あり、そこより法師の出来て、八けいの所々見よとて遠めがねてふ物かしたり。これにいたく興をそへて爰にしばし休らひ、それより立出て道すがら、君がさき一葉の松、いにしへ頼朝公の植給ひしとかや。まがりまがりて瀬戸橋のかたはらなる東屋といへるに至りぬ。今宵のやどりをこゝに定めて、さて照手姫のふすべ松とかや、その木の本に小社有。其あたりより舟に棹さし、また漁舟をも伴ひて、野島が磯、夏島のこなたにて汐の干がたにおりたち、はまぐり其外いろ/\の貝などひろふに、近きあたりのわらはべ寄来て、にこやかに手伝ふさまもをかし。

はや夕汐みて来べしとて、舟人のあわたゞしうさゞめくに、名残つきざれど舟にうつりぬ。彼わらはべ共に菓子などあたへ、すな取舟にあみひかせつゝともに入江へかへるさの左りのかたに一覧亭とて、ぱるかの山のうへなるにあがり見れば、まことにすぐれたる所のさま、筆にも詞にもつくし難し。南ははるかに安房・上つふさの山々見渡され、浦賀の崎・さる島・ゑぼし島・夏しま・海づらにさき出、ひんがし北をのぞめば、称名の遠寺・小泉ほのかに見ゆ、乙友・平かた・野島・洲さき・瀬戸を見おろし、又見かへれば、うち川より富士のしら雪はるかにて、何にたとへむやうもなし。詠尽ざれど日は不二の嶺にかくれ、たそがれ近しとて人々のすゝむれば、この山をおりてまた舟に棹さし、瀬戸の東屋に帰りぬ。此家の高どのより遠目がね取出て遠近を見めぐらすうちに日も暮はてぬれば、灯火てらし湯あみなどす。ほどなく網もて取得し魚など望のまゝに物して持出たれば、日ごろは好まざれど盃めぐらし、とかくしてふしどにいりぬ。

 廿日 晴、夫々に支度とゝのへ、辰のこくの頃にこのやどりを出で、瀬戸明神に詣づ。このみやしろは頼朝公勧請し給ふとかや。またびは島弁財天の御やしろに詣づ。こは政子御前の勧請なりとぞ。蛇木といふ幾木ともなく生たてり。夫より金沢侯の陣営の前より金竜院へ行。堂のかたはらにおほきなる石あり、むかし三島明神を此所に勧請せし時、いづちよりか白幣飛来りて此石の上にたてり。さるゆゑに飛石と名付とかや。こゝよりはるかにのぼりてひとつの詠の亭あり。きのふ見し一覧てにいとはまた八景のさまかはりて、いとおもしろし。

  百千度 見るともあかじ 金沢や
       とりならべたる やつの名所

少しくだりて竜灯の松あり。坂をおりて此寺を立出。左りのかた塩場あり。それより田畑の中を過て朝比奈の切通しにかゝる。この所坂道なり。右の方に鼻かけ地蔵とて石の仏あり。武蔵相模のさかひとかや。弘法大師の作り給ふといふ。此峠にてしばし休らひ、又まがり/\て麦ばたを過、梶原の屋敷あと、ほゝ焼あみだ。せん水川を渡り、杉本の観世音に詣づ。坂東一番の札所なりとぞ。歌の橋をわたり、ゑがらの天神の御社にまうづ、大とうの宮の土の牢、此所右の方、頼朝公屋敷跡今は畑となれり。大くら、この処町家有。筋違橋、宝海寺前、北条ならびに頼つね将車屋敷あと、鶴が岡三の鳥居前、雪の下なる大沢にてしばし休らひ、案ない子を伴ひて赤橋といへるをすぐ。ことに左り右にわかれて紅白の蓮池あり。右のかたに島三つ有。その中に弁天の社有。いにしへは島四つ有しを、義経公八島出陣の折、切かたんとて一島をきり崩し給ふよし。左りの白はすのかたは四島あり。池の廻り松の木なみたてり。二王門は三ツ棟づくり、此二王尊は雪慶の作といふ。左りのかた護摩堂、不動尊を安置せり。大山の不動尊と同じ作の由。昔平家追討のとき、この御堂にて文覚上人にこうふくの祈りをせさせ給ひしに、左りの方の童子青牛に乗給ひしが、こうふくかんおうのしるしにや、前のひざを折しといふ。正面神楽殿、右に大塔、五智ぼさつを安置せり。同じ所にしゅろう、又臥竜柳あり。そのさまいにしへはさこそと思はるれ。なほ右のかたに姫石大明神とあがめし大石有、是をいのる時は、こしよりしもの病を治すといふ。夫より右のかた、社地を出て畑を過れば寺有。門前に天正といふ年の御朱印の制札建たり。本尊は十一面観世音を安置せり。堂の前に由井の長者の七所にたてしといふ塔一ツたてり。其娘の七つになりけるが鷲にとられて鎌倉の府の中に七所血を落したるに、其ところにたてしとぞいふ。此長者は北条家六代のころの人なりとかや。夫より尚坂をのぼれば、頼朝公の五輪の塔有。玉がき、鳥居は寛永の頃薩摩の太守より寄附せられしよし。右のかたの坂をのぼりて、大江広元・島津忠久の墓へまいる。また元の社地にいりて、右の方に薬師堂有。神功皇后を勧請せし由。若宮八幡宮の御やしろにまうづ。此御神は仁徳天皇を祝奉る由。もとは由井が浜に有しをこゝに移し奉りしといふ。此御社にて昔頼朝公のしづか御前に法楽の舞を乞給いて、義経の行へを尋とび給ひしとや。夫より経堂に参る。もろこしより七千巻の経文を奉納ありしを、八角輪蔵にをさめしよし。こゝを出て八幡宮の石段、はゞ五間有べし。十間余りのぼる。左りの下に隠れいてうとて大樹あり。むかし若宮の別当公暁、伯父実頼公を親の敵とて、此いてうの陰より出てうちまいらせしよし。北条義時のはからひなりしとか。石段をあがれば、右に鶴亀石・影向石とて三つあり。猶右に六角堂あり。随身門は是も雲慶のつくれりといふ。朱に金銀をちりばめたるみやしろのたふとしと云も余りあり。

  万代も さかえ久しき 八幡山
           あふぐもたかし 神の広まへ

廻ろうの内、若宮の神輿四ッ、八幡宮の神輿三ッを置り。鎌倉将軍以来の宝物種々あり御。社を出て左りのかたに、あいぜむ明王をゝがみ、夫より丸山稲荷、此みやしろは鎌足公勧請のよし。坂を下れば頼朝公の御社有。なほ坂を下りて十二院の惣門をいづ。昔は二十五ぼさつにかたどりて廿五院有しが、今は十二院になりし由。右の方小袋坂をのぼりて青梅聖天にまうづ。新居のゑんま、れいの雲慶の作といふ。こゝより山の内へいでゝ五山第一の建長寺へまいる。表門左りの方、長者の七塔の内一塔あり。山門を入て地蔵堂、佐山地蔵と云。本堂のうしろ、庭前の池の向ひに松の大樹あり。昔若宮の御神、跡を此まつにたれ給ふとぞ。門を出て杉が谷弁天に詣づ。弘法大師の御作といふ。はるかに洞門を出て左の方、浄寿寺へまいる。尊氏公御建立のよし。足利家十三代の御墓有と聞しかど、この日門へ入事をゆるさず。左りの方なる遥の山の上に、冷泉為相卿の御はか有と云。山の麓に山の内の上杉家の屋敷有しよし、今は管領屋敷の名のみ残りてみな畑なり。右のかたに矢柄地蔵尊立せ給ふ。権五郎景政の守り本尊と云。爰を過て左の方、最明寺時頼のはか有。松が岡東慶寺へまいる。表門に男禁制の札たてり。此所にてしばし休らふ。日光御山への例幣使、今宵鶴が岡へとまらせ給ふとて、この所を過給ふ。こゝを出て五山第二円覚寺へ参る。はるかにのぼりて大がね有。西洞和尚といふ人の鋳たてしといふ。本堂釈迦如来、天竺のかつまが作といふ。爰を出て五山第四浄智寺へ参る。門の左のかたに五名水の内、かんろ水あり。豊川御社有。北条時頼の建立といふ。此山をたゞに行過れば近道のよし、小笹おし分つゝ、細き山坂を下り麦畑を過て、けはい坂に至り、海蔵寺へまいる。このおくに弘法大師十六の井あり。その道のかたはらに千代能そこぬけの井、また景清の土の牢など有。源氏山を右に見て、英勝寺を過、扇が谷の管領屋敷にいたる。此源氏山は、むかし義家朝臣坂東の武者を集め給ひし所とかや。後に伝へて白はた山、源氏山など云よし。夫より五山第三寿福寺へまいる。此山に実朝公の御墓あり。巌窟にして唐草のほりあり。此君の絵がきほり給ふといふは、いぶかし。坂の半にれいの長者の七塔の内あり。岩屋堂、浄見寺の前を過て、若宮小路にいたる。此道右の方に、人丸姫の塚、麦畑の中に松のしるしあり。はるかに尊氏公の屋敷あと見ゆ。是も畑なり。ゆきの下大沢へ立寄れば日暮ぬ。灯火てらして、だんかづら、二の鳥居を過て、びは橋前より右へ、はせ小路にいたる。右のかたに、ばせを翁の碑有。盛久敷革のあと、松の古木あり。長谷の三ッ揚屋へ、戊の刻近き頃やどる。

 廿一日 晴、辰の刻過る頃このやどりを立出、光則寺へ参る。此寺に日朗・日親両上人の土の牢有。日蓮上人竜の口の御難の時、両上人および四条金吾兄弟も此所にて禁ごくせられしとかや。牢の前なる堂に六人の像有。門を出て左りのかた、山の頂に山王の社あり。夫より深沢の三仏へ参る。昔頼朝公、上総国大野五郎右衛門といふ鋳物師に命じて造らせ給ひしとか。堂は政子御前の御寄進といふ。北条高時亡びしころ兵火のために堂は焼失て、今はぬれ仏となり給ふ。御丈五丈といふ。稲村がさき、長谷寺観世音へまいる。御丈三丈三尺、春日大神作り給ふといひ僧ふ。本堂の内に楠の手水鉢有。東山義政公納め給ひしよし。右の方に大黒天の像あり、弘法大師の御作といふ。本堂よりひんがし南を望めば、由井が浜・三浦三崎のはてまで残りなく見へ渡リて、まことに絶景なり。坂の半に阿弥陀仏の像有、頼朝公の御寄附といふ。夫より山坂をこえて佐助稲荷へまうづ。此道ことに難所なり。また三ッ橋屋へ立寄、昼の支度とゝのへて五霊のみやしろに詣づ。権五郎景政をまつる。眼薬を出せり。袂石・手玉石などあり。社内名物力餅をあきなふ。同じ所に星の井の清水あり。坂の上に虚空蔵ぼさつへまいる。院内に宝物あまたあり。朝比奈の切通しをのぼりて、浄善寺・極楽寺へまいる。天正十八年の御朱印禁札あり。ことを出て右のかたに、弁慶の腰かけ松見ゆ。□だ□を左りに見なし、坂をくだれば日蓮上人の袈裟掛松あり。十一人の塚有。程なく支度茶屋とて三軒あり。七里が浜にいづ。右の方、横手が原の古跡有。見かへれば由井が浜・袖が浦、浪の向うよせかへるもいとめづらし。 わらはべあまたむれゐて、海に入、さま/\のわざをなす。あやふくもまた興あり。夫より腰越村に至る。彦根侯御預りの所とかや。海岸に御台場あり。満福寺へまいる。 義経の腰越状、此寺に納め有しに、僧の住ねば今は同じ所なる泉常寺に預けてあり。こゝにて見侍りぬ。夫より片瀬村竜の口山へ詣づ。院内に光りの松、うろの内に妙見大士を安置せり。左りの方、上人の土の牢、祖師の鋳像を安置せり。本堂は敷革堂とあり。左りの方に七面の御社あり。 浜辺より海面を見渡すに風景殊にすぐれたり。門前に四五軒茶店あり。こゝよりゆく/\、真砂地にて、ふりつむ雪をふみ分る心ちす。渚に出て舟渡りして江の島へ上り、恵比寿屋といへるにやどりを定めて、坂をのぼれば、なかばに下の宮の別当所あり。爰より右のかたに岩本院、奥の院岩屋の別当所といふ。随身門の前に小池あり、かたはらに、かへる石とて大きなる石有。坂を登りて三重の塔有。五智如来を安置せりと云。なほ坂をのぼりて下の宮に詣づ。慈悲上人の開基といふ。爰より左りへ廻りて上の宮に詣づ、慈覚大師の開基とかや。此宮の別当所有。金剛水ととて頂に清浄の水あり。こゝより廻りて茶店二三軒あり。遠眼鏡をかけ貝細工など商ふ。夫より原道を過て一の鳥居有。ことに遊行上人の成就水とて清水井あり。山二つの堺を地震しらずといふ。里の方になゐありても、爰にはずたえてゆらずとかや。二三の鳥居をすぎて岩屋の本社へまうづ。本社は修理果たれど、拝殿はいまだ事ならず。左の方に亀石とて、自然に亀甲のあらはれたる石あり。夫より坂をおりて海岸にいづ。此所を児ヶ淵といふ。竜灯の松あり。尚岩山を下りめぐりて、岩屋に至る。奥深く二町余り有とかや。鳩数多洞の中に巣をかけて、参詣の人になれたり。留守居の弁天とて神体有、此所より人毎に松ともして奥に至る。弘法大師かぢ水とて清き水あり。諸神諸ぼさつ鎮座し給ふ。奥の院は左右共に金胎両部を祭る。日蓮上人こし懸石などいふもあり。無明の橋少しもどりて胎内くゞりをぬけ、上人ねすがた石といふも有。此岩屋は弘法大師、つむらの湊より六字の名号をかきし舟板に果て此所に来り、ひらき給ひしといふ。頼朝公御遊覧有し時、海士をめして、貝魚などとらしめ給ひしゆゑに、魚版石・まな板石などの名ありとかや。こゝに海人の集り居たるにもとめければ、やがてうみに入、浪を分てあわび・さゞえなど取得てもて来ぬ。こゝより右に伊豆の山々、左りに三浦の浦々、また冲の方に大島見ゆ。誠に絶景なり。夫よりまた元の坂をのぼりて、奥の弁天の前にいづ。脇道を過て夕つかたやどりに帰りぬ。その夜、雨降り出ぬ。

 廿二日 小さめ小やみなし、されど海岸のさまわすれがたく、辰の刻過る頃又岩屋へまかりぬ。まな板石のうへ少しこ高き所へあがるに、此時雨間なりければ、しばらく海のおもて、磯うつ浪のけはひなどながむるに、きのふ見しよりも汐高くして、この石の上残りなく浪の打かゝれる時は、さながら白たへの中にたゝずむ心地ぞする。 寄来る浪はたゞ、すいしゃうもてつくれるかとおもはれ、岩のはざまにみなぎるなみは千尋の滝の落くるにぞまがふ。

  あら磯の 岩手打こす 浪見れば
           海のうへにも たきはありけり

爰にやゝ久しくたてれど詠めつきず、やゝもあらず午の刻近き頃、残り多くも帰らんとて、うしのあゆみの見かへり/\、心のこして本宮の前、上の宮より右のかた下の宮の鳥居前にいづ。こゝにて貝の細工物などをとゝのへ、恵比寿家に立寄て夫より嶋をはなる。此時又小雨降り出たり。渡し場を過て片瀬村、すは両社の前より同じ所の渡しをこへ、石上村に出て藤沢に至る。みなと屋といへるにて休らふ。遊行寺へまいる。開山は一遍上人とかや。仁王門を入て左りかたに方丈、右なる坂をのぼれば小栗満重の堂有。宝物種あり。主従十一人のはか、照手姫のしるし、又鬼鹿毛を馬頭観世音とあがめ、かたはらにしるし有。こゝを出て松原を過、戸塚にいたる。鎌倉への追分・長いも坂・焼餅ざかなどを過て、むさしさがみの堺木にて休らひ、程ヶ谷の並岡といへるに夜に入てやどりぬ。

 廿三日 曇、辰の刻過る頃、やどりを出て神奈川の台にてしばし休らひ、川崎・六郷をこえて、大森なる山本にて支度とゝのへ、それより品川を過、八ツ山にてやすみ、泉岳寺へまいり、田町なる八幡の社に詣で、夕暮の頃我家にはかへりぬ。

  わが宿に けふたちかへる 旅衣
             ぬぎあへぬ袖に あまる嬉しさ

 こは、道のゆくての口すさみ、所につけたるあそび、たはむれなど、いづれも其まことをしるし、はた時代の路先のおぼつかなさ、ことゞもゝ、道の邊のひな人の物がたり、あるは何ない子どものいふまゝを書つけつ、さるは後見むをりの思い出にとて。