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与力の俸禄 与力の禄高は平均200石であるが、大名や大身の旗本のように特定の知行地を持っているわけでなく、南北合わせて50騎分の合計1万石が上総、下総に与えら、ここに給知世話番をおいて年貢を集め、各与力に分配した。 検見取(けみとり)といって、毎年の収穫高により年貢高が決まるので、年の豊凶により増減があったが、収穫が200石とすると、4公6民で年貢は80石となった。 この一部を現金に変え、家族、家来あわせて20人ほどが1年間生活するのである。 初任の与力は130石。 役格が上がっていくに従い禄高があがって200石になる。更に同心支配役や年番方などの要職につくと230石程度まであがった。 与力は与力以外への転職は絶対になく、どんなに優秀でも成果をあげてもこれ以上の昇進は絶対になかった。 これが旗本とちがうところである。 しかし、与力はその仕事柄、諸大名や豪商などからの付届が多く、その実収入は少なくとも5,600石クラスと言われ、多い人は禄高の20倍にもなったという。同じくらいの禄高の旗本に比べるとはるかに生活は豊かだった。 付届は収賄でなく、「役得」として認められていた。すべての与力家がこのように潤沢な役得を得ていたわけでなく、役得のない与力は貧乏旗本と同じで、その生活には余裕がなかった。 さらに、200年間もの間、まったくベースアップがないのに、江戸中期以降の貨幣経済で物価はどんどん上がったから、旗本、御家人は皆、借金に追われる状況にあったようだ。 与力職は「一代抱え席」とはいうものの、実際にはよほどのことがない限り、世襲が認められており、少なくとも男子1人には与力職を相続できた。 13歳くらいになると無給見習となり、段階を追って給金も上がっていくが、親が与力現職である間は本勤並となりどんな役についても20両程度の俸禄であった。 町鑑をみても親と同じ組、席次の中でまさに「部屋住み」である。(鹿之助は本勤並になって、火消人足改めになっている。)町鑑をみても親と同じ組、席次の中でまさに「部屋住み」である。 次男、三男などはどこか実子のいない与力家の養子の口を探す以外は与力にはなれず、士分を離れ町人、農民になるしかなかった。このため、裕福な与力家では積極的に町屋や店舗、農地を買い、与力を相続できない次男、三男たちの自活の糧とした。 諸侯などからの付け届け 町与力は200石程度の俸禄であるが、諸大名や豪商からの付届けなどの別途収入が多く、同じくらいの禄高の旗本に比べるとはるかに生活は豊かだったといわれる。 大名諸侯は江戸に上屋敷、中屋敷、下屋敷などを持ち多数の家臣・家族が住んでいた。これらのものが江戸市中で事件を起こしたり、事件に巻き込まれる事がままある。 このような時に諸侯の名が出たりするのをきらい、穏便に済ませてもらおうと、日頃から町奉行所や特定の与力に誼を通じて置く。 これが大名家からの付届けであり、公儀も奉行所も認める「公式な」役得であった。 大名諸侯からはわざわざ奉行所まで大名家の用人が届けに来たといい、また屋敷に届けに来れば与力の妻が堂々とこれを受け取ったという。 原家の家計を見ても上杉、鍋島、伊達、南部など錚々たる大名家が、「何か面倒な事があったら処理願いたい」と定期的に付け届けをしていたようだ。また、法律顧問のような役目も果たしていた。 各大名は参勤交代で国許から江戸に戻るたびに将軍に国産品(それぞれの領地の名物)を献上するが、この残りという意味の「献残」として届けられた。 中には毎年決まった量の米を何人扶持として届ける大名家もあり、この場合はその家の家紋入りの羽織も支給され、その屋敷に伺う時は家紋入りの羽織を着用した。 有力な与力家、要職にある与力家ではいくつもの大名家の家紋入りの羽織を持っていたという。 付け届けは大名家だけではない。大身の旗本や富裕な商家、大きな寺院なども保険契約のようなつもりで与力や同心に付け届けをしていた。 これらの付届けなどによる収入で実質収入は少なくとも5百から6百石クラスと言われ、多い人は禄高の20倍にもなったという。 記録によれば3000両もの役得収入があった与力がいたり、大名家や豪商から別荘、別宅を提供されていたものもいたという。 付け届けは収賄でなく、「役得」として認められており、与力の奥方はこれらの付届けに対して、相手の求めがあれば堂々と領収書を書いて渡したという。 与力家の家計は、このような役得収入をあてにして膨張し、逆に役得収入がなければ家計を維持できない構造になっていた。 また与力の家ではこのような収入で郊外の土地や町屋を購入したり、商家の株を買ったりした。 「一代抱え席」とはいうものの、実際にはよほどのことがない限り世襲が認められており、少なくとも男子1人は与力職を相続できたが、次男、三男には婿入りの機会でもない限り相続することは出来ず、士分を離れて帰農するか商売をはじめるしかなかった。購入した土地や町屋、商店の株などはこれら次男、三男たちの自活の糧となった。 奢った与力の例 佐久間長敬の回顧録の中で、祖父が吟見方寄力をしていた頃(天保改革前)の記述があるので紹介する。 天保改革以前の天下泰平の時代の話だが、年末年始はただただ飲み明かしたという話、妾を何人も持っていたという話、自宅で博打をやった与力の話などが含まれている。
与力家の家計 西山松之著「江戸町人の研究」(吉川弘文館)に天保年間の与力家の家計がどのようなものであったかを推測できる資料がある。 これは天保11年、当主の与力が隠居し、家督を息子に譲るにあたり、家計についての訓戒と収入、支出の概略を記したもの。 有力な与力家のひとつであった原家のものと思われるが、この家計の特徴は、何といっても諸大名家からの付け届けによる収入が63両3分にものぼる事である。俸禄米をすべて現金に換算した総収入が80両であるから、俸禄に匹敵するくらいの付け届けがあったわけである。 また地代収入が3件で合計16両ある。総収入の1割ちかくを占めている。 すべて現金(両)に換算すると収入合計が171両、支出合計が124両で、差引47両の黒字となっている。 当時の熟練大工の日当が銀5匁、年間300日働いたとして1貫500匁。両に換算すると年収は約25両となる。 庶民に比べればかなりの高収入である。 しかも官舎の家賃はゼロで又貸しによる家賃収入もある。
貨幣価値に換算した収支
しかし50家すべての与力家がこのように裕福であったかというと、そうではなく年番方吟見方、同心支配役などの要職につける一部の家だけであったらしい。 南町では佐久間、原、仁杉の3家が草創与力家といわれ、このような恩恵にあずかったものと考えられる。 米の支出を見ると菩提寺斉米というのがある。毎年菩提寺に斉米と称して米1俵を納めていたようだ。 また湯屋定式というのがある。湯屋(銭湯)に毎年一定の米を与え、留湯としていつでも湯に入れるように契約していた。 これで江戸八丁堀に記したように、毎朝、女湯に入る特権もあった。折々の季節に使う餅米や味噌・醤油の麹にも大量の米を使っていたことがわかる。 別途収入がない与力の家計 前述の著書には天保8年2月に決起した大塩平八郎の家計についても記載されている。要約すると下記のようになる。 家族、使用人が多いため、同じ与力の俸給でも別途収入がない場合、与力の俸給だけでは赤字になってしまう。 江戸後期の貧乏旗本、貧乏御家人の典型的な姿である。 大塩平八郎(大坂東町奉行所与力)家の家計
与力の拝領屋敷 下図は江戸中期の八丁掘与力屋敷の間取り図である。 享保3年(1718)以来、代々北町奉行所で与力を世襲していた都築家の拝領屋敷の間取り図である。この間取り図の屋敷は延享3年(1746)3月の火事で焼失している。 与力の屋敷は300から400坪の土地に塀を廻らし、冠木門(かぶきもん)を入ると白砂利の庭から式台つきの玄関がある。 武家の屋敷は一般に主人の接客・対面の部屋「書院」を中心として書院造りという形式をとっているが、この屋敷でも、A玄関横の接客用の座敷、N主人がふだん用いた奥、O離れの隠居、の3つの書院を中心に構成されている。 中央右の小さな部屋Hは囲居(かこい)とも呼ばれた茶室であり、A座敷に通された客が庭の飛び石伝いに入る趣向となっている。 全体で10部屋以上もあり、厠(便所)が5箇所もある大きな屋敷である。使用人は正門横の長屋などに寝起きした。
冠木門 武家屋敷の門はその禄高で様式が決まっており、八丁堀の与力屋敷の正門は太い貫(ぬき)を渡しただけの冠木門だった。 しかし、右下の写真にあるように大坂町奉行所の与力屋敷の門は長屋門だった。 使用人の住居と門を兼ねた長屋門はより上級の武家屋敷の門とされていた。大坂では地付きの武士は少なく、町奉行所の与力といえば権威が高かったのかも知れない。
仁杉家の拝領屋敷(幕末) 拝領屋敷参照 谷村家の拝領屋敷(天保8年) 江戸も後期になると八丁堀与力達の生活もだいぶせちがらくなって来たようで、拝領した屋敷の道路に面している部分を他人に貸して賃料をとり、生活のタシにしている。 さすがに同心屋敷のように、敷地いっぱいに9尺2間の長屋を建てて町人に貸す(堀口六左衛門欠所参照)ようなことはしていないが、どの与力も医者や儒者、寺子屋師匠、武芸指南などに貸してせっせと賃料収入を得ていた。 拝領屋敷のページでも述べたように、南町奉行所の同心支配役、年番与力を勤めていた仁杉八右衛門の屋敷でも医者、儒者など3人に道路に面した土地を貸しているが、北町奉行所の与力谷村家の屋敷図も残っており、左図のようにやはり道路に面した部分を貸地としている。 屋敷図を見ても江戸中期の都築家屋敷よりかなり小さく、部屋数も少ない。 原家の家計に 夏成綱運上 3両1分 帆原盲検校地代 6両1分 岩間地代 9両3分 笹岡南方同心地代 2朱 などという家賃や地代の収入が計上されている。 米を売却して得る本来の収入が30両であるのに対し、地代家賃などの収入も20両近くになり、重要な収入源であった事がわかる。 注) 与力や同心の屋敷図が現在に伝わっている例は少ない。 上記の谷村家の屋敷図は当主の谷村猪十郎が罪を犯し、欠所となったために屋敷の記録が残った。 事件は水油(菜種油などの燈油)に関連する不正であった。 天保7年12月上旬には市中に水油がいっさい出回らず、魚油ばかりとなった。当時勘定奉行だった矢部定謙の吟味により、水油の買い占めや、油に混物がなされていたこと、与力同心が賄路を貰ってこれを見逃していたことなどが明らかになった。 この結果、油問屋、町奉行所与カなどがつかまり入牢した。 その直後には無かったはずの水油が市中に出回ったという。 翌8年3月13日の処分では関係者多数が罰をうけているが、北町与力谷村猪十郎は重追放となり、当然家屋敷は欠所となった。 その欠所関係書類の一部として上記屋敷図が残された。 与力の「通勤」 与力の通勤は外の下級武士に比べて楽だったようだ。江戸の治安を守るためお城に近く、且つ江戸の中心でもある日本橋にも近い好位置に拝領屋敷を持っていたからだ。 八丁堀から数寄屋橋御門内の南町奉行所まで直線では1km以下、歩いて15分から30分の距離だった。下図参照 ![]() 退勤は7つ(午後4時)。もちろん事件などがあれば別だが普段はずいぶん勤務時間が短かったようだ。 与力は騎乗が認められていたが、江戸中期以降は屋敷で馬を飼うものはなくなり、屋敷から奉行所への出勤は徒歩で行き、公用の外出に時にのみ奉行所の馬を使うようになった。 通常の通勤はは略式で一人くらいの供で歩くことが多かったが、式日や改まった外出には規定どうり、若党、槍持ち、草履取り、挟み箱持ち各1人を従えた。 これだけの人数を常に雇用しているわけではないので、必要なときは口入屋から臨時に中間などをまわしてもらった。 奉行所への出勤には継裃に福草履だったが、式日には熨斗目小袖に麻裃を着用した。 挟箱の中には要用15点といって紋付裏付肩衣、絹の着物、帯、帯締、脚絆、紋付黒羽織、白・紺足袋などが入っていて、公用、訪問、出張、変装などTPOに応じて着替えられるようになっていた。 十手は袱紗に包んで懐中にしまい、出役のとき以外はめったに見せることはなかった。
朝湯と日髪 ![]() 八丁堀の与力や同心は毎朝、湯屋(銭湯)に行き、しかも女湯に入る特権を持っていたという。 朝方は女は忙しく湯屋に来る人もいないので与力や同心が「留湯」と称して入るようになった。 このため、八丁堀七不思議のひとつに「女湯の刀掛け」といわれるように、女湯ながら脱衣所に与力同心の刀掛けが備えてあったという。 与力の家は毎年あるいは半年毎に湯代として俸禄の中から米を湯屋に届けていた。 前述の原家でも湯屋定式として年間一俵半を近所の湯屋に届けていたようだ。 もう一つの特権として髪結いが毎朝与力、同心の屋敷を廻り無料で髪結いをして歩いた。 毎朝、風呂に入り、月代と髭を剃り、髪結いにかかるという贅沢は他の下級武士ではできない贅沢で、雪駄をちゃらちゃらさせて奉行所に通う与力は「江戸の三男(さんおとこ)」と言われるほどの伊達男が多かったそうだ。 その髪型は武士でもない、町人でもない独特の髪形(左図)で三角の木の葉形をした「八丁堀銀杏」と呼ばれ、一目見て「八丁堀の旦那」とわかるような形だったという。 呼称 旗本は家来や使用人から「殿様」、妻女は「奥様」と呼ばれたが、前に述べたように与力は「八丁堀の旦那」または「旦那様」と呼ばれた。 しかし、その妻女は旗本と同じように「奥様」と呼ばれたので「奥様あって殿様なし」も八丁堀の七不思議のひとつになっている。 相続 与力は「抱え席」と呼ばれ、一代かぎりの任官であったが、実際には相続が認められてた。 与力の子供(長男)は12,3才になると無給の与力見習いとなり、親の組で比較的簡単な分課から実務経験を積んで行き、親の与力が病気になったり、死亡したりすると、新たに召抱えられる形になる。 |