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「南撰要集」によれば堀口六(郎)左衛門は「文化2年3月28日 抱入れ」とある。 また天保12年(1841)11月5日の封回状には61歳とあり、逆算すれば安永10年(または4月に改元されて天明元年、1881)の生まれとなる。 五郎左衛門より6歳年長である。 享保、延享時代の町鑑には堀口姓の同心は見当たらず、古くから同心職を世襲していた家系ではないようだ。 文化4,10,16年、文政5年、天保2,9,12年の町鑑には 文化4年 一番組 堀口勘五郎 文化10年 一番組 堀口■右衛門(御詮議役下役) 三番組 堀口佐五右衛門 文化16年 一番組 堀口■右衛門 文政5年 一番組 堀口■右衛門 天保2年 一番組 堀口六佐衛門(年番下役) 堀口貞五郎(御詮議役下役) 天保9年 一番組 堀口六佐衛門(年番下役、江戸御橋廻下役) 堀口貞五郎(御詮議役下役) 天保12年 一番組 堀口六佐衛門(年番下役、御閑■り) 堀口貞五郎(御詮議役下役) とある。文化4年の「■右衛門」は年代的に考えて六左衛門の父と見てよさそうだ。 六左衛門は天保2年から天保12年まで年番下役をつとめ、年番方与力五郎左衛門の部下となっている。 息子の貞五郎は同じく天保2年から御詮議役下役を勤めている。 同心 同心には年寄役、同増、同並、物書役、同格、添物書役、同格、本勤増人、本勤並、見習、無足見習の役格があった。 毎年、大晦日の夜に上役与力の役宅へ呼ばれて、再契約を云い渡されるのである。待遇、給与も大差があり、それゆえ明治新政府になって、四民の身分制度が改められる際に、大名は貴族になり、一般武士階級は士族となったが、与力は士族に属し、同心は商工農の平民と士族の中間になる卒族なる名称が与えられた程である。 また与力は裃役であったが同心は無袴、俗に言う「お供先でも着流し」。勿論、裃を着る身分ではなかった。 与力は騎馬の身分であるため、「一騎」と呼ばれたが同心は徒士のため一人二人と数えられたのであった。 同心の俸禄は30俵2人扶持、同増人は20俵2人扶持である。 以上、徳川制度の定本ともいわれている松平太郎著の「江戸時代制度の研究」(柏書房刊) お救い米買付 天保7年、未曾有の飢饉にあたり江戸市民救済のための御救米買付を南町奉行所が担当することになった。 買付責任者となった五郎左衛門のもとで堀口は佐久間伝蔵とともにこの役についた。 何とか米の買付はうまく行き飢饉も落ち着いたので奉行の筒井伊賀守から褒美もいただいた。 それから5年後の天保12年(1841)、この御救米買付で不正があったのではないかと執拗に調べている旗本がいた。 矢部定謙である。 矢部は勘定奉行をしているときにこの噂を聞いたが特に気にしなかったが、その後西の丸の再建をめぐって老中の水野忠邦に反論を唱えたために西の丸留守居役という閑職に左遷され、更に小普請奉行に転じていた。小普請奉行も名前だけで無役に等しい閑職である。 何とかもう一度陽のあたる舞台に立ちたい矢部は勘定奉行時代に小耳に挟んだ御救米買付の事を思い出し、独自の調査を始めた。 実際に買付にあたった商人仙波太郎兵衛から当時の書類伝票を取り寄せて調べたり、五郎左衛門を呼び尋問したりしたががなかなか関係者が口を割らない。 ところが、堀口は口を割ってしまった。 三田村鳶魚によれば矢部は姑息にも堀口の娘に近づき、なんとその娘を妾にして堀口の口を割らせたという。 このあたりは小説にも面白おかしく書かれているが真相はわからない。 堀口からの情報で米買付に不正があったという報告書を書いた矢部はこれを水野に提出し、首尾よく筒井政憲を引きずりおろし、後任の南町奉行に就任した。 奉行所内刃傷事件 矢部の奉行就任で堀口とその息子貞五郎は急に羽振りが良くなった。小説などでは堀口が念願だった定町廻りになったと書いているが、これは確認が出来ない。 この年の町鑑を見ると 堀口六佐衛門 年番下役、御閑■り 堀口貞五郎 御詮議役下役 とあり、特に変わってはいないが、「御閑■り」というところに堀口の名前がある。この役がなんであるかわからない。 新奉行になり、羽振りの良い堀口親子を見て収まらなかったのが同僚の佐久間伝蔵である。 佐久間は6月2日の午前(八つ時というから10時ごろ)、出勤してきた堀口の息子貞五郎に突然刃を向け、殺害した。 藤岡屋日記に次のような記述がある。
一刀で首を打ち落としたという。佐久間は相当な腕前だったようだ。 伝蔵の狙っていたのは堀口六左衛門であったが、堀口はこの日非番だったのか、遅刻したのかとにかく奉行所にはいなかったので難を逃れた。 しかしその後の調査で、これが御救米買付にかかわる事件だということがわかり、堀口は吟味を受ける立場になり、10月上旬(藤岡屋日記)には牢に入れられた。 更に11月5日にはこの事件の判決申渡しがあり、五郎左衛門と同じく「一通り尋の上揚屋へ遣す」と申渡された。
堀口は五郎左衛門と同じ小伝馬町の牢屋敷に投獄されたが、61歳という高齢で牢屋敷の劣悪な環境に耐えられなかったのか、ほどなくして病死したという。 五郎左衛門の死は天保13年1月10日とされているが、堀口の死亡日はわからない。 欠所(闕所)の判決 天保13年3月21日、評定所で堀口は「存命なら中追放」という判決を受けた。中追放というのは、3段階ある追放刑のひとつ。
天保撰要の中に
この中には判決申渡しの当日に、堀口が所属する組の支配与力中村八郎左衛門から 「判決が出たので堀口の妻子を親戚に預け、拝領地面の長屋および与力から借りている土地に建てた住居、土蔵を欠所とする」という意味の文書(下のB)が奉行に提出され、これを受けて翌々日の23日、南町奉行鳥居甲斐守から老中宛の欠所の伺い文書(下のA)が作られ、鳥居の家来で公用人の葉山六左衛門が水野忠邦に届けている。
欠所は本来、闕所という字をあて、罪に問われた者の財産を没収することである。 江戸時代、庶民に対する刑罰のひとつで、磔(はりつけ)・火罪・獄門・死罪・追放などの付加刑として、地所・財産を没収することを言った。 武士階級に対しては普通「改易」という言葉を使う。 所領や家禄・屋敷を没収し、士籍から除くことをいい、蟄居(ちっきょ)より重く切腹よりは軽い。 貸長屋 上記の堀口六左衛門への判決で「拝領地面貸長屋云々」とあるように、八丁堀の同心は拝領した地面(およそ100坪)に長屋を建て、これを町人に貸していた。 同心の拝領屋敷(地面)は左図のように細長い形が多いので、一番奥に自分と家族が住む小さな家を建て、他の部分に貸家用の長屋を建てた。 長屋は俗に「九尺ニ間」といわれるが、左図の同心大久保某の場合も3坪から4坪という小さな長屋を多数建てて家賃収入を得ていた。 中には拝領した地面いっぱいに貸家、貸長屋を建て、自分は別のところに家を借りて住む、あるいは土地を借りて家を建てる、などという同心もいた。 現在で言えば官舎を何人かの人に又貸しして、自分は別なところに住み、家賃収入と支出のサヤを取ることに相当するが、こんな事が黙認されていた。 同心といえば武士の中の最下層、俸禄は30俵2人扶持であるが、この俸禄だけしか収入のないのは町方以外の役所にいる同心たちで、町奉行所の同心はなにかと副収入の多い役柄だったので、ここまでしなくともと思えるが、これが普通であった。 堀口六左衛門は 「且同組与力地所借地住居建屋土蔵欠所」 とあるように、拝領地面には長屋を建て、自分は同じ組(南町奉行所)の与力の拝領屋敷内に家を建て、しかも土蔵まで建てていた事がわかる。 ちなみに普通の町屋の九尺二間の長屋の店賃は江戸後期で約700文から900文だったので、10部屋もあれば月2両(1両を4千文とする)前後の収入になった。 一方、長屋の建築費については次のような記録から約60両程度と推定されるので3年もたたない間にもとをとれる良い投資だった。 当時の長屋建築費を推定できる文書 弘化4年(1847)のことだが、拝領地面に長屋を建てた北町の同心高部安次郎が、長屋建築費60両と銀5匁を払ってくれないと、甚左衛門町の大工幸助が南町奉行所に訴え出た。 南町奉行所では年番与力の村井専右衛門と仁杉八右衛門連名で北町の年番谷村源左衛門、都築十左衛門にあてて「このままでは高部を南町に召喚せざるを得ない、善処をしてください」という手紙が出ている。 |