仁杉家の拝領屋敷   トップ

 仁杉五郎左衛門の拝領屋敷が八丁堀のどこにあったかは明らかになっていない。しかし、分家の八右衛門家の拝領屋敷が八丁堀の北側、茅場町に近いところにあった事は、八丁堀細見図などで明らかになっており、更に地図研究家中村静夫氏の調査結果で、その屋敷図、広さ、通りに面した地面の賃貸状況まで明らかになっている。:仁杉家拝領屋敷 参照。

仁杉八右衛門家の拝領屋敷
   下 周辺地図
   右 屋敷図


 この八右衛門家の拝領屋敷は、五郎左衛門時代の仁杉家、つまり本家から継続したものではないかと考えられる。 その理由は次のとおりである。

 五郎左衛門は御救米事件に連座、投獄やがて獄死を遂げ、「存命なら死罪」の判決で仁杉本家は断絶となっている。
 この時代、当主が罪に問われればその一家眷属も連座となるが、八右衛門は罪に問われるどころかその直後に異例の出世を遂げている。奉行所の最高役職である年番方は5人いる同心支配役(各組の与力の序列1番)から選ばれる慣習であったが、八右衛門はまだ同心支配役になっていないにもかかわらず年番方に就任している。
 
 年番方は奉行所内の総務、人事、会計などを担当するが、八丁堀の組屋敷の差配もする。
 八右衛門家は仁杉家本家の墓所、過去帳などを引継いでおり、また先祖伝来の家宝も引き継いだであろう。本家がいた屋敷に移れば都合が良い。 おそらくそうしたであろう。
 三宅島に配流となった本家の嫡子は島に滞在中、水汲女という内縁の妻がおり、しかも娘までもうけている。 普通の流人は食うや食わずの生活であり、水汲女など持てない。 唯一実家または親戚に充分な資金力があって毎年「見届物」という生活物資を送ってもらえる流人のみに可能な事である。 鹿之助には八右衛門家から充分な「見届物」が送られたと推定される。
 この拝領屋敷の近辺には原家、佐久間家など南町奉行所の名門とされる与力家の拝領屋敷が多い。 五郎左衛門がこの近辺に拝領屋敷を持っていた可能性が強い。 角地であり利便性が高い土地である。