八右衛門家2代 幸雄    トップ

町鑑に見る経歴

 文化13年(1816)8月与力見習となっており、文化15年の町鑑に五郎八郎としてはじめて名が見える。 
 文政12年8月17日の正午、麻上下着用で奉行所の内座に出頭するよう指示があり、その場で父の引退と幸雄の抱え入れが申渡された。実に13年間も見習に甘んじていたことになる。
 
五番組序列4位。父と同じく御詮議役でスタートし、天保9年(1838)まで御詮議役となっているが、天保12年には何故か籾蔵廻りという閑職についている。 この年に御救い米買付事件が明るみに出て、五郎左衛門がこの事件に連座し、投獄されていることと関係があるのだろうか。

 翌天保13年(1842)には南町奉行所は与力、同心の欠員が多く、大幅な異動があった。 この5月28日、八右衛門幸雄は五番組序列3位という地位にもかかわらず、年番助、市中取締、日光取締などという要職についている。
 同心支配役になる前に年番に任命されるという例は残されている町鑑を見る限りない。五郎左衛門の事件で混乱期にあったといえ、年番助という聞きなれない役職で実質的に年番方を勤めた極めて異例な人事であった。
 この秋には町鑑があらためて発行されるほど大幅な機構改革もあり、この時に五番組序列1位の同心支配役となっている。
そして翌14年12月26日年番方本役になっている。
 その後、弘化2年(1845)の町鑑では、同心支配役、年番方、市中取締、御吟味役と南町奉行所の重要役職をすべて兼ねている。
 安政2年(1855)の町鑑でも
   同心支配役、年番方、御肴青物掛、非常取締掛、諸問屋組合掛、古銅吹所見廻役
を兼ねており、名実ともに南町奉行所の中心的な与力だった。

 
なお、長男は八右衛門家3代目となる幸昌であるが、次男は北町与力の谷村家の養子となった官太郎で、明治になって谷村正養と名を改め、能楽師という意外な分野で名を成している。
    谷村官太郎(正養)参照

る.将軍の日常生活から大奥・勘定所・評定所・目付・町奉行・外国奉行・代官・町与力等に関する証言を収録.

史書に残る事跡
1)雛道具
 仁杉家には原家の台所道具とならんで八丁掘の名物といわれた有名な雛道具を所有していたが、雛道具研究家の川内由美子氏によれば天保12年(1841)頃の作ということなので、幸雄の時代に仁杉家のものとなった可能性が高い。仁杉家の雛道具

2)護持院原の仇討 
 森鴎外の作品「護持院原(ごじいんがはら)の敵討」は、天保年間に起きた姫路藩士の仇討事件を描いたものであるが、この中で、仇討終了後にその藩士を奉行所で取り調べたのが仁杉八右衛門となっている。

  森鴎外「護持院原の敵討」抜粋
この日酉の下刻に町奉行筒井伊賀守政憲(つついいがのかみまさのり)が九郎右衛門等三人を呼び出した。酒井家からは目附、下目附、足軽小頭に足軽を添えて、乗物に乗った二人と徒歩(かち)の文吉とを警固した。三人が筒井政憲の直(じき)の取調を受けて下がったのは戌の下刻であった。
 十六日には筒井から再度の呼出が来た。酉の下刻に与力(よりき)仁杉八右衛門の取調を受けて、口書を出した。

 これは事件発生から仇討まで、日付入りでたんたんと描いた小説というより史書といえるもので実際の史料に基づいたものと考えられる。
 この小説は下記HPでその全文を読むことが出来る。
        森鴎外著「護持院原の敵討」


3)シーボルト事件の高橋作左衛門吟味で褒美   

    八右衛門への申し渡し控(南撰要集より)

 天保元年(1830)、八右衛門は前年の高橋作左衛門の吟味で骨を折ったとして銀2枚の褒美を授与されており、右のように9月9日、奉行所内座で申渡を受けている。

 この高橋作左衛門の一件というのは俗に「シーボルト事件」と呼ばれ、作左衛門が国禁となっている地図などをシーボルトに渡したことが問われた事件である。
 この事件は当時としては重大事件であり、たとえば秦新ニ著「文政11年のスパイ合戦」(文芸春秋社刊)に詳しい。
 シーボルトに伊能地図の写しを与えた作左衛門は伝馬町の牢屋敷で揚り屋に収容された。 
 この事件の吟味を担当したのが南町奉行所仁杉八右衛門だった。 
 作左衛門は伊能地図を渡すかわりに世界周航記という書物や樺太測量図などを手に入れていた。
 遠く長崎や異国の関係する事件であったため吟味に大変難航した上に文政12年(1829)2月26日作左衛門が獄死してしまった。 
 奉行所は判決が出るまで作左衛門の遺骸を塩詰にして保存し、「存命なら死罪」の判決を言い渡した。
 
 この一件の取調に八右衛門が骨折だったと褒美を与えられたのである。
 この褒美授与には明和四年9月山縣大弐の一件で当時の町奉行依田豊前守組与力2人が金7両の褒美をもらっている事が前例として挙げられている。
 また八右衛門が褒美を受けた高橋作左衛門の一件は、五郎左衛門の一件で北町の与力に褒美を与えるときの前例となっている。
 何事においても「前例に習う」という当時の役人の慣習が良く見える。

シーボルト事件のあらまし
 高橋作左衛門は幕府の御書物奉行と天文方を兼帯していた。
 天文方は文字通り天文観測を行い、複雑極まりない江戸暦を作成していた。
 また地図作成も職掌のひとつであり、伊能忠敬に命じて蝦夷地の地図作成を行い、その地図を保管していた。
 
 文政9年(1826)4月にシーボルトが江戸に参府したときに作左衛門は伊能地図の写をひそかにシーボルトに与えた。
 シーボルトはこの他にも様々な情報を仕入れて長崎に帰り、文政11年(1828)帰国しようとした。
 この船が折からの台風で座礁し、そのために禁制品の日本地図持ち出しが発覚し,いわゆるシーボルト事件が起きた。
 シーボルトは一年間出島に軟禁された後,翌年国外追放されたが二度と日本に入国を禁止する処分となった。 

4)諸国問屋株式再興
 嘉永4年(1851)年の諸国問屋株式を再興するという文書にも、北町奉行遠山左衛門尉景元、南町奉行井戸対馬守覚弘のあと、与力連名が附されているその筆頭に仁杉八右衛門の名が見える。
 この文書は、天保12(1841)年12月に廃止された諸国問屋株式を、嘉永4年3月に再興するための達し書である。当時、両奉行所に「問屋再興掛」が置かれており、八右衛門幸雄が南町の係りだった。

5)仁杉村大乗寺との交渉
 嘉永5年(1852)、五郎左衛門が建立した仁杉村の幸通墓所でいざこざが起きた。墓前の由来碑の碑文に「大乗寺殿」と書かれている事が再び問題になったのだ。
 仁杉村の元名主の善兵衛、当時の名主吉衛門、組頭仁兵衛の3人が相談し、江戸表の仁杉家当主となっていた八右衛門幸雄に掛け合い、碑文から大乗寺の「大乗」の2字を削り取らせたいきさつがある。いまも仁杉村に残る由来碑の「大乗」の二字が削られているのが確認できる。

6)米国との通商についての上申書
 八右衛門は嘉永6年(1853)6月、米国との通商について幕府から諮問を受け、勝麟太郎などとともに、これに上陳した文書が東京大学史料編纂所に残っている。

 嘉永6年(1853)はペリー率いるアメリカの東インド艦隊が日本近海に出没し、国内が騒然となった年である。4月19日、琉球に到着した艦隊はその後小笠原に寄ったりして6月3日に浦賀沖に現れた。
 浦賀奉行所の与力・中島三郎助が交渉し、長崎へ回航するよう要請したが受け入れられず夜の時砲で沿岸が騒然とした。翌日の再交渉でも長崎回航が受け入れられずミシシッピー号は江戸湾奥まで示威行動を行った。
 6月9日、浦賀奉行 戸田氏栄、井戸弘道は久里浜でペリーと会見し、やむなくアメリカの国書を受け取った。 艦隊は示威のため再び江戸湾を周回し、12日にようやく那覇にむけて出航した。
 幕府は6月15日、朝廷にこのことを上奏するとともに、幕府内各組織にこの対応策について意見を述べるよう通達している。
 下記は評定所一座に対する通達である。(幕末御触集成6040)

嘉永6年6月26日 伊勢守殿 備前守殿直御渡
                   評定所一座へ
今度浦賀表へ渡来の阿墨利加船より差し出し候書翰の和解写二冊相達し候。此度の儀は実に国家の御一大事にこれあり、通商の御許容に相成候えば、御国法相立ち申さず、却って後患も少なからず。 御許容これ無き節は、防禦の手当、上下一同格別厳重に行き届かれず候ては、御安心の場合には至り難く候間、右書翰の趣を得と熟覧を遂げ、彼方の術中に落入らざる様、一体の利害得失、御来の所までも銘々深く思慮を尽くし、いか様の御処置にて其の図に当り申すべきや、たとえ忌諱に触れ候筋にても苦しからず候間、いささかも心底を残さず、遺策これなき様、十分に評議致し、申し聞かるベく候事。   
  

 幕府首脳はこの事態にどうしたら良いか判断に困っていたのであろう、27日には大御番、御書院番、御小姓番の三番頭(ばんがしら)へ同様の通達を出し、7月朔日には改めて老中列座で諸侯、幕臣に口達している。

 これに対して同年7月、以下のように幕臣連名で上申書を提出している。
 この中に、勝麟太郎、小栗忠高など幕末史に名を残す錚々たるメンバーとともに仁杉八右衛門の名が見える。

嘉永6年7月是月
書院番頭花房志摩守正理、書院番久貝伝太、書院番頭組与力安藤三左衛門、小姓組番頭大岡豊後守清謙、同津田日向守信義、同一柳播磨守直方、同溝口讃岐守直清、同牧野筑後守忠直、同松平伊予守信武、中奥小性小笠原長門守長常、町奉行井戸対馬守覚広、同池田播磨守頼方、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄、同井戸石見守弘道、
町奉行支配与力仁杉八右衛門、同東条八太夫、同中村次郎八、同東条八太郎、同原善左衛門、勘定奉行本多加賀守安英、普請奉行中川飛騨守忠潔、小普請勝義邦(麟太郎・後安房守)、同向山源太夫、同井上三郎右衛門、百人組之頭三枝宗四郎、持筒頭小栗又一(忠高)、使番阿部正外(兵庫・後越前守・後白河藩主・後豊後守)、同揖斐與右衛門、小納戸大久保右近将監忠寛(後伊勢守・後越中守)、同服部藤左衛門、同吉川一学、同津田半三郎正路(後近江守)、同天野鉋之丞、目付戸川中務大輔安鎮、同鵜殿長鋭、同大久保市郎兵衛信弘、同堀利忠(後利煕・織部・後織部正)、小十人頭宮崎次郎太夫
                等、米国通商許可の諮問に、上陳す。

 この2年後の安政2年(1855)の町鑑によれば、八右衛門幸雄は同心支配役、年番方、御肴青物掛、非常取締掛、諸問屋組合掛、古銅吹所見廻役を兼ねている。

7)鎌倉大筒稽古に参加
 文化15年(4月から文政に改元)8月、叔父五郎左衛門が参加した鎌倉海岸の大筒稽古に手伝として参加した。 旧幕引継書の史料によると、五郎左衛門とともに砲術を習っていたようだ。
     鎌倉大筒稽古 参照

8)
遠山左衛門尉の病気見舞、弔問

 遠山左衛門尉景元は天保11年3月から14年2月まで北町奉行を勤め、2年後の弘化2年3月に南町奉行に復帰、翌々年(1847)に離任している。
 その後、安政2年(1855)2月29日に死去しているが、八右衛門幸雄が遠山の病気見舞に訪れている事が遠山家の日記に記されていた。
  遠山金四郎家日記  岡崎寛徳 編  岩田書院 平成19年3月刊     

 
この日記は遠山家の用人が同家の出来事を毎日記録したもの。用人は複数いた模様で、この当時は喜藤太、貢助が交代で書いている。
 安政2年2月29日の項(上記写真)には、病が重くなった左衛門尉を見舞いに多くの関係者が訪れているのがわかる。
 仁杉八右衛門もその一人で、上記のように南町の同僚与力・中田郷左衛門とともに見舞い(不快伺い)に訪れている。 八右衛門は翌日の2月晦日にも同僚ととに見舞(実際には左衛門尉は既に死亡)のため訪問している。

 これより前、安政2年正月三日には、八右衛門は嫡子嫡子五郎八(後の八右衛門幸昌)を帯同し、蜂屋・安藤・東条、中村等同僚与力とともに、年始ご祝儀申上げのため訪問している。
 また、左衛門尉の死後の5月3日に
      仁杉八右衛門より持有候冬瓜差上之
とあり、冬瓜(とうがん)を届けるか、持参している。冬瓜は秋の季語で、現在は7、8月頃に収穫されるが、この5月3日(新暦の6月)なら、高価な「初物」だったろう。

 左衛門尉は前月、本所にあった下屋敷に出かけ、そこで倒れたとのこと。22日に芝愛宕下の上屋敷に戻ったが、そのまま月末に死亡している。
 葬儀は3月2日に本妙寺で行なわれ、千住宗源寺で火葬したと日記にある。

墓所
 翌年 安政3年(1856)6月28日死去。 前年の町鑑で同心支配役、年番方、御肴青物掛、非常取締掛、諸問屋組合掛、古銅吹所見廻役などを兼帯しており、最後の最後まで現役だったようだ。
 小石川喜運寺に葬られている。現在仁杉家の墓に残っている墓石は安政年間に幸昌が建立したものだけで、正面には                

仁杉家代々之墓

とあるが、右側面に

安政3年丙辰6月28日 仁杉八右衛門幸雄

とある。また左側には

 光  文政2年巳卯11月6日
 智  安政6年巳未8月20日

とある。
 これは幸雄の妻の名前と没年月日で、 「光」は先妻の戒名「順院殿法室妙照大姉」の頭字、同じく「智」は後妻の「明院殿操月貞光大姉」の頭字である。
 先妻はずいぶん若い時に妻を亡くなっている。 文政2年(1819)年といえば与力見習から一本立ちになった直後であり、おそらく結婚して間もない時期のことと思われる。後妻は幸雄の3年後、安政6年(1859)に没している。

町鑑に見る八右衛門幸雄・幸昌 (青字)

  和暦西暦   奉行   名前 番組(序列)  分課  年番方
文化15年(1818) 岩瀬加賀守氏紀 小原惣右衛門
由比源八郎
八右衛門幸■@
五郎八郎
幸雄A
5番組(3)
御詮議役
文政 5年(1822) 筒井和泉守政憲 中村又蔵
中村八郎左衛門
八右衛門幸■@
五郎八郎
5番組(1)

御詮議役
文政 9年(1826) 筒井紀伊守政憲 八右衛門幸■@
五郎八郎
幸雄A
3番組(1)

年番、同心支配役、御詮議役 中村八郎左衛門
仁杉八右衛門
天保 2年(1831) 筒井伊賀守政憲 八右衛門幸雄A
5番組(4)

御詮議役
中村八郎左衛門
原善左衛門
天保 9年(1838) 筒井紀伊守政憲 八右衛門幸雄A
5番組(4)

御詮議役 佐久間彦太夫
仁杉五郎左衛門
天保12年(1841) 筒井紀伊守政憲 八右衛門幸雄A
5番組(4)
籾蔵回り
佐久間彦太夫
仁杉五郎左衛門
天保13年(1842)
前期
鳥居甲斐守忠耀 八右衛門幸雄A
5番組(3)
歳番方、市中取締、日光 原鶴衛門
安東源五左衛門

仁杉八右衛門
天保13年(1842)
後期
八右衛門幸雄A 5番組(1) 同心支配役 佐久間彦太夫
仁杉八右衛門
天保15年(1844) 鳥居甲斐守忠耀 五郎八郎幸昌B 2番組(5) 佐久間彦太夫
仁杉八右衛門
八右衛門幸雄A
5番組(1)

同心支配役、歳番方
弘化 2年(1845) 遠山左衛門尉景元 八右衛門幸雄A 5番組(1) 同心支配役、歳番方市中取締御吟味役 佐久間彦太夫
仁杉八右衛門
五郎八郎幸昌B 2番組(6)
嘉永 2年(1849) 遠山左衛門尉景元 五郎八郎幸昌B 2番組(5) 村井當右衛門
仁杉八右衛門
八右衛門幸雄A 5番組(1) 同心支配役、歳番方、市中取締
嘉永 3年(1850) 遠山左衛門尉景元 八右衛門幸雄A
5番組(1)

同心支配役、歳番方
佐久間彦太夫
仁杉八右衛門
五郎八郎幸昌B
2番組(4)

町火消人足改
安政 2年(1855) 池田播磨守頼方

八右衛門幸雄A

五郎八郎幸昌B

5番組(1)


同心支配役、歳番方、御肴青物掛、非常取締掛、諸問屋組合掛、市中取締、古銅吹所見廻、 仁杉八右衛門
荻野政七
文久 元年(1861) 池田播磨守頼方 八右衛門幸昌B
同  英C

2番組(4)

御詮議役、赦帳撰要方、古銅吹所見廻