谷村官太郎(正養)は八右衛門家の人 玄関へ戻る | |||||||||||
仁杉家(八右衛門家)の過去帳に何故か、谷村正養(明治37年12月2日没)の名が見える。
与力の谷村家といえば、天保9年、「大塩の乱」の関連で五郎左衛門が南町奉行所の代表として大坂へ出張した時、谷村源左衛門が北町の年番与力として一緒に大坂に同行している。 過去帳に見える谷村正養はこの谷村源左衛門家の後裔と考えていたが、なぜ仁杉家の過去帳に記載されているのか長い間の疑問だった。 しかし、四番町歴史民俗資料館の滝口氏からいただいた南北会(旧幕時代の与力・同心およびその子孫の親睦会)の「規約および会員名簿」に 谷村官太郎 仁杉八右衛門 ニ男 という記述があり、北町与力・谷村官太郎は八右衛門家から谷村家へ養子に行った人である事がわかり、上記の疑問が解けた。 官太郎は、時代的には八右衛門家2代目・幸雄の子と推定できるが、仁杉家の史料の中にこの事実を示すものは見あたらない。 家系図によれば、幸雄には2男4女があり、長子・助之進は幼くして夭折、次男が幸昌となって3代目の家督相続しており、官太郎の記載はない。 この官太郎が後の谷村正養である事が次の資料で判明した。 四番町歴史民俗資料館の原胤昭旧蔵資料調査報告書(2)に収録されている与力の日記に原胤昭の頭註として 「官太郎は谷村官太郎正養」(4月8日の項) とある。. また、後述する「旧事諮問録」の中で谷村正養は自分の経歴について、 「(前略)・・・私は南の方で生れて、北の方へ養子にまいったのですが・・・(後略)」 と述べている。 官太郎と正養が同一人物であり、官太郎が八右衛門家から出た人であれば、仁杉家過去帳に谷村正養が登場する事もうなづける。 官太郎は与力時代の名で、明治になって正養と改めたようだ。 谷村官太郎 嘉永2年の町鑑を見ると、北町に二人の谷村姓の与力がいる。 前述の谷村源左衛門と谷村官太郎である。 与力には定員があり、与力が引退するか死亡しない限り、その相続者は与力になれず、与力見習い、あるいは本勤並に甘んじなければならない。 天保12年の町鑑では一人の与力と一人の見習与力だった谷村家が、その後、2人の与力となっているが、次のような事情による事が「旧事諮問録」の記述で判明した。 天保12年当時、谷村源左衛門は北町5番組の支配与力で年番方を勤めており、子息の栄五郎が見習与力だった。 その翌年の天保13年、南町奉行・鳥居忠輝の建白で、内与力(奉行の家来)に与力の扶持を与える事を廃止し、かわりに数人の新規与力が抱え入れられた。 この時に、栄五郎が見習与力から新規に与力となり、源左衛門、栄五郎の二人が与力として並立することになった。 仁杉家でもこの時、同様に八右衛門幸雄と五郎八郎幸昌の二人が与力として並立している。 しかし栄五郎には相続させるべき子がいなかったのか、仁杉家から養子を迎えた。更に、栄五郎は体が弱かったのか、あるいは若年のうちに死亡したのか、とにかく早い時期に官太郎が与力職を相続した。 これが何年だったか不明だが、嘉永4年12月25日付の下記文書(旧幕府引継書・北町七十冊物類集)があり、与力になったのは嘉永4年以前だったことがわかる。
一方、源左衛門は文化3年12月に養父・源左衛門の名跡を継いで以来、49年間与力を勤め、年番与力まで昇進したが、下の文書にあるように、嘉永7年10月、病気のため引退、養子八十八への相続を願出て、その通り許可されている。
こうして源左衛門と栄五郎の親子でニ系統の与力家となったのであるが、結局相続したのは両家とも他家からの養子であった。 谷村源左衛門 = 源左衛門(養子) = 八十八(養子) I 栄五郎(実子?) = 官太郎(養子) 官太郎はこの後、嘉永5年に人足改、赦帳撰要方人別改、安政2年には牢屋見廻などの役に付き、下の史料からわかるように、安政6年(1859)には、箱館産物会所掛に加えて本所見廻役も勤めている。
その後、慶應2年には御詮議方となっている。 谷村正養 官太郎は明治維新後は正養と名乗っている。 1)旧事諮問録 明治二十年代半ばに,旧幕時代の制度の実情が忘れ去られるのを惜しんだ歴史学者達が、旧幕府の役人だった故老達を招いて質疑応答を行い、この筆録を雑誌形式で刊行した。(右写真) 「旧事諮問録」という名で知られているこの記録集は、江戸幕府の制度と諸役職の実情を語る文献としては一番有名で、利用価値の高い歴史史料となっている。 この諮問録の中の第11回(明治25年4月16日)の質疑で、町奉行所与力の職務について語っているのが谷村正養である。 この中で正養は自分の家の事について、次のように語っている。 「(前略)・・・私は南の方で生れて、北の方へ養子にまいったのですが・・・(後略)」 「私の養祖父が年来出精に相勤めたというので、養父が息子でありまして、新規に町与力の明き跡へ新規に仰せ付けられましたが・・・私の家が二軒になっております。 本家の方ではまた養子をして、それが家督をするということになっております。 それで町方の方は同姓の者が大分います。」 「鳥居甲斐守という人が建白して、内与力という奉行の家来に扶持をやるのは不都合だというので、取り潰したことがございました。 私の養父などがその頃に見習を勤めておりました。新規に町与力になりましたのです。」 南北会の幹事を勤めていたが、明治35年、仁杉英が衆議院選挙に立候補することになり、南北会が会員に対して投票を呼びかける案内書を出している。 この時、幹事の一人である正養は、幹事団の中に名を連ねていない。この理由が案内書の末尾に次のように記されている。
3)舞踏家、能楽師 人名事典などを調べると、谷村正養は明治維新後は意外にも能楽の世界に転じ、観世流の能楽師として能楽の復興に尽くしていたようだ。 日本人名大辞典に次のような記述がある。
更に、観世流シテ方の梅若実日記(江戸幕府瓦解時に東京に残り、能楽を今に伝えた立役者の厖大詳細な記録)にも、びたび登場している。 例 明治21年10月23日 谷村正養へ向、再度素謡ニ断ヲ出す。 明治25年12月20日 本日配リ物ハ篠原長右衛門、・・・谷村正養、・・・ 明治29年9月18日 谷村正養ハ当分出席断リノ趣 明治31年11月24日 谷村正養被参席料ノ事ヲ申置。 明治37年3月29日 晴。風。谷村正養病気ニ付、見舞いニおみねヲ遣ス。 旧幕与力と能楽師、それも趣味の領域ではなく能楽復興に尽くした人。 同姓同名の違う人ではないかと思ったが、死亡した年月日も仁杉家過去帳の記録と同じであり、経歴は予想外だが同一人物と考えて良いだろう。 仁杉英の画帳に観世元滋(観世流24世家元)の書があるが、正養のツテで書いてもらったのであろう。 仁杉家のお宝 参照 |