(前略) 他にも兄弟ともに鉄炮の撃ち方を習っていて(先生は習字と同じく藤右衛門叔父}、明和九年(一七七二)六月七日、音羽町の角場射撃場
(かくぱ)で初めて実弾射撃を体験したことも一言ふれておきましょう。 当日の成績は、それぞれ十五発撃って七発が的中したよし。使った鉄炮は浜町の小野左大夫様からいただいたものでした。 さて、これだけ習い事が多いと、もちろんそれぞれ毎日というわけではありませんが、稽古日が重なることもあり、弟たちの生活は意外と忙しないものでした。こころみに明和九年(甚蔵十六歳、千蔵十三歳)の臼記から弟たちの或る数日を振り返ってみると、 三月二十三日〈甚蔵〉朝飯後出宅。算術と剣術の稽古に行く。八時(午後二時)前に八助(下男)を迎えに呼び、八助が来るのを待って、同伴して直ちに馬術の稽古へ。暮時前に帰宅。〈千蔵〉四時(午前十時)過ぎに剣術稽古に出かけ、七時(午後四時)過ぎ帰宅。弁当は昼前、八助に家から運ばせる。
六月三口〈甚蔵〉朝飯後、七助(下男)を連れて算術稽古へ。稽古が済むと今度は弓の稽古に行く。いったん七助を帰してから八時に迎えを坪び、馬術稽古へ。七時半(午後五時)帰宅。剣術稽古は欠席。
六月二十八日く甚蔵)朝飯後、千射(矢を千回射て的中数を競う会)の手伝いに出かけ、畳からそのまま剣術の稽古へ。八時過ぎに馬術稽古に行き、帰宅は暮時。〈千蔵〉四時から剣術の稽古へ。八時遇ぎ兄と一緒に馬術稽古に行き、暮時帰宅。
御覧のように、朝食を済ませて家を出たっきり、稽古事をハシゴして日が暮れるまで帰らないなんていう日も、珍しくありませんでした。 幕臣の少年たち、よく学びよく鍛える。少なくとも、武士の子だから直参だからと安心して無為な日々を送っていたわけでは全然なかったこと、よくお分かりになったと思います。
銃と花火と湘南海岸
文武諸芸の稽古に精を出していたのは、もちろん少年たちだけではありません。舘野家に養子に出た忠四郎叔父さん(父の弟で藤右衛門叔父さんの兄)などは、徳川御三卿の一つ田安家の近習番だった当時、殿様の「上意」で宝生流の謡を稽古させられましたし、一橋家附の幕臣だった父も、馬術や謡の稽古に精を出していました。 でも身内の中で稽古の必要性を護よりも感じていたのは、私たち姉弟の習字の先生、藤右衛門叔父さんではなかったかしら。
延享三年(一七四六)十一月、二十一歳の時に養子先の依田家に引越していった叔父さんの、慕臣としての役名は先手鉄抱組与力、鉄炮の手入れや射撃訓練が主なお仕事でした。射撃については、自分もかつては鉄炮組与力だった養父の左助さんが、叔父さんの練習ぶりに常々目を光らせていたから、養子の身にはつらいところ。叔父さんが三十歳の時には、ついにこんな家庭騒動すら起きてしまいました。
当時幕府は、幕臣の射撃技術向上をはかるべく、「鉄炮打見分」(射撃大会)を定期的に闘催していたのですが、この年、宝暦五年(一七五五)五月二十九臼の「見分」で、叔父さんは十発中六発的中という成績だったんです。的中率六割というとなんだか聞こえがいいけど、一緒に参加した配下の同心六人のうち四人までが皆中(十発十中)だったから、さあ困った。養子の不成績に激怒した左助さんは、実家の父(つまり私の祖父)に、「これも全て目頃の稽古不足から。一体どういうつもりなのか藤右衛門の気持ちを聞いてほしい」と喰ってかかり、一方祖父のほうはといえば、ただ、「尤も」と頭を低くするばかり。結局、叔父さんを懇々と諭したうえ、、今後は懸命に稽古しますLという誓約書に判を押させ、祖父と父が加判して(連帯保証人になって)左助さんに渡すことで、とりあえず丸くおさまったのでした。
このにがい経験をきっかけに、叔父さんはその後射撃訓練に精を出したようで、八年後の「諸組与力同心撰人鉄炮十打見分」では、見事十発十中の成績を挙げています。この見分はただの「鉄炮打見分」ではなく、五年に一度、将軍の御鉄炮を預かる御持筒組を筆頭に、百人組、先手、火消、鉄炮方の諸組からそれぞれ代表選手を出して開催される、ごく晴れがましい舞台。それだけに叔父の左助さんも喜色滴面、家に来て叔父さんの好成績を盛んに吹聴して帰りましたし、幕府からも御褒芙として銀二枚が下賜されたということです。
それだけではありません。七月二十一日には配下の同心全員を自宅に招いて盛大に「皆中祝い」の宴を催すというので、家に主菜の冷麦を盛る大皿を借りに来たくらいです。
職務に関わる稽古といえば、鎌倉で行われた大筒等の射撃演習にもふれておかなければならないでしょう。これは八代将軍吉宗公の時代に始められた制度で、幕府の鉄炮方、大筒役、先手鉄炮組の面々が、鎌倉(といっても現在の行政区画でいうと藤沢市、茅ケ崎市に含まれる湘南海岸ですが)で火術演習を行うものでした。この「鎌倉大筒稽古」に、叔父さんは、やはり鉄炮組与力の依田大助さんと何度か参加しているのです。
日数は往復の旅行日を入れて十五、六日位。浜辺での演習には「遠打」(遠距離試射)、「近打」(近距離試射)など様々な種目があり、ここでも鉄炮打ち同様、成績が審査されたことはいうまでもありません。
試される側の緊張と気疲れ。でも鎌倉演習には、参加手当が支給されたほか、周辺に景勝地や名所旧跡も多いことから、小旅行としての愉しさもあったみたい。事実、宝暦四年(一七五四)、の十月、祖父母は依田大助さんの火矢演習の見物かたがた、一週間の日程で、金沢八景、藤沢遊行寺、江の島と観光していますし、明和二年(一七六五)一月、前年暮も押し詰ってまで御道具(鉄炮でしょう)修理の仕事に精を出した慰労に休暇を貰った叔父さんが選んだのも、やっぱり金沢(現・横浜市)から鎌倉郡、江の島をめぐる二泊三日の周遊小旅行だったとか。 それにこの演習では、火矢や大筒等の試射のほかに、火乱星とか雲龍と命名された揚火(蜂火)の打上げ訓練が行われ、これがさながら打上げ花火のように美しかったともいいます 峰火(のろし)が本当にうつくしいのかって? 本当ですとも。幕末の砲術家の一人棟居保春だって、元来軍事目的で調製された蜂火が「世の永く治るに随ひ、種々に風流奇術を好み、是に肝胆を砕く人多し」といって、その観賞花火と化したことを歎いているくらいですもの。
湘南の浜辺で打上げられる"花“の数々。あくまでお仕事とはいえ、この音と光の祭典は、疲れた叔父さんたちの心に一抹の爽快感を与えてくれたに違いありません。
補注
*鎌倉の鉄炮場は、享保十三年(1728)、享保改革の一環として新設され、大筒、石火矢など火砲の演習場として使われたが、射撃音で魚が沿岸に近づかなくなったり(漁業不振)、演習のために防風防砂林が伐採されて農業に少なからぬ影響が出たり(作物の被害)で、鉄炮場拡張にあたっては地域住民の反対運動も盛り上がった。、その後、海防強化の必要が唱えられ、寛政年間(一七八九−一八〇一)になると幕府は武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)にも新たに鉄炮場を設けた。(『鎌倉市史』近世通史編)。
*武術としての火術の遊戯化=花火化については、平戸藩の老侯松浦静山公(1760〜1841)も、『甲子夜話続篇』巻三で次のように慨嘆をもらしています。
予、年々夏秋の頃、佃の海上にて揚火あるを見物に往く、始は武術なれば心得にもと思ひ往しはなぴが、段々興さめて、今は慰に燗火戯(はなび)を看る心にてぞ行けり(中略)皆虚技を免かれず、唯見物の歓を助るのみ。此度も揚火を肴として酒を設けて瞭望せし中-・。
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