鎌倉で大筒稽古に参加          トップ
1)砲術家としての五郎左衛門
 
与力として幕末を迎えた佐久間長敬が明治になって奉行所のあれこれを回顧した『江戸町奉行所事蹟問答』という著書がある。(人物往来社刊)
 
奉行所のしくみや牢獄の様子など江戸時代の法制を知る貴重な史料となっているが、この中に次のような記述がある。
幕末、南町奉行所の与力仁杉五郎衛門は砲術と軍学に長じていた。五郎衛門は門人も多く、品川沖で火術打の稽古などを行い、砲術家として聞こえた。

 文中の五郎衛門は五郎衛門の間違いである。 なぜなら仁杉家に五郎衛門という人名の記録はなく、旧幕府引継書には五郎左衛門が砲術に関っていたことを示す記録、たとえば鎌倉海岸で行われた砲術演習に参加した経緯を記録した

  「文化14丑年三月 組与力仁杉五郎左衛門於鎌倉大筒稽古自分用入用願候一件」
などという史料が残っている。
 更に、相模国高座郡羽鳥村(現在の藤沢市羽鳥)には砲術演習のために来た五郎左衛門に対する「宿泊請書」が残っている。

2)鎌倉海岸の演習に参加

 享保13年から始まった鎌倉海岸における砲術演習は、五郎左衛門の時代には隔年に実施されていた。五郎左衛門は少なくとも文化15年(1818)と文政9年(1826)の2回はこの演習に参加した事が残されている古文書で確認できる。
 このうち文化15年に行われた演習に参加したことを示すのが「旧幕府引継書」であり、文政9年の演習に参加したことを示すのが上記羽鳥村の宿泊請書である。

 2−1)文政9年の宿泊請書

 五郎左衛門が鎌倉大筒稽古のために鎌倉海岸に出張したときに宿泊したところを示す文書が見つかった。 藤沢市の三觜博氏所蔵文書のひとつで、相州高座郡羽鳥村の金六が名主八郎右衛門と連名で江川太郎左衛門の役所に提出した宿泊請書(写真 藤沢市史)である。
 
 「鎌倉鉄砲御用で鎌倉に来る仁杉五郎左衛門の宿泊について畏まって承知奉る」と江川太郎左衛門役所の手代に宛に提出している。 
 伊豆韮山の代官・江川太郎左衛門は幕領であったこの地域も管轄しており、更に海防、砲術については幕府の中でも重要な役割を持っていたので、鎌倉海岸における大筒・砲術稽古を取り仕切っており、その手代が演習に参加する役人、番士達の宿泊や食事などの面倒も見ていたものと考えられる。

   御請申一札之事

 一 仁杉五郎左衛門様                       御宿 金六

右者此度鎌倉御鉄砲為 御用被為遊 御越
御宿被仰付承知奉畏候、依之御請一札差上申処
依而如件

   文政九戌年五月
      相州高座郡羽鳥村
            御宿 金六
            名主 八郎右衛門

 江川太郎左衛門様御手代
    森田文平様
 高座郡羽鳥村は現在の藤沢市羽鳥、辻堂駅の東北にあたる地区。

 相模国風土記によれば戸数71で村の西北の界に東海道が通っているとある。

 海岸から2kmほど内陸にあり、鉄砲演習場には含まれなかったものの、演習のために江戸から出張して来る役人達の宿舎提供を命じられていた。

 藤沢市史によれば、享和年間には鵠沼村と羽鳥村などとの間に鉄砲場御用宿賄い金について論争があったとあり、更に天保元年閏3月には「大筒・鉄砲方の宿、鵠沼村より羽鳥・大庭の両村に変更」という記述が見える。




2−2)文化15年の砲術演習参加
 
 旧幕府引継書の中に「組与力仁杉五郎左衛門於鎌倉大筒稽古自分用入用差願候一件」という類集がある。
 方々の書架、書類綴りにある文書の中から関連する文書を書き写し、テーマ毎に纏めたのが「撰要類集」であり、町奉行所には「撰要方」という専任の役人がいた。



旧幕府引継書「天保撰要類集」


「組与力仁杉五郎左衛門於鎌倉大筒稽古自分用入用願候一件
 この史料は、五郎左衛門が文化15年の鎌倉大筒稽古に参加した時、上司である町奉行岩瀬加賀守、および関連する役所とやりとりした書簡集であり、全部で276ページに及ぶ。
 これを読むと五郎左衛門が演習が行なわれる前年に参加申請をした時から、演習が終わって江戸に帰ってくるまでの経緯の詳細を知ることが出来る。
 
 この解読作業が終わったので、その概要を下記する。

 文化14年(1817)6月。
 この時、五郎左衛門は32歳になっており、一番組の序列2番、役職は牢屋見廻役であった。

参加申請 
 以前から御書院番頭戸田土佐守の与力村上源之允について荻野流の砲術を習っていたが、翌年(文化15年)の夏に鎌倉海岸で砲術演習がある事を知り、自分入用(自費)で参加したいと上司の南町奉行・岩瀬加賀守に申し出た。
 この月は誰かの御中陰(忌中)であったため、改めて7月に書面で演習参加を願い出ている。
 これに対し、奉行は町方与力が砲術演習に参加したことがない、などの理由により最初は難色を示したようだが、五郎左衛門は
  @昔は町方与力も砲術を習っており、八丁堀の組屋敷にもその名残があるが、御用向き多忙   のため自然に中断された。
  A元文3年、松波筑後守、石河土佐守が町奉行の時、与力・同心にも鉄砲稽古させていた。
などの例を挙げ、時節柄、町方も砲術の稽古をしておくべきだと町奉行に進言、許可を得た。

 翌15年正月、町奉行から砲術演習の責任者である植村駿河守(老中格)に五郎左衛門の演習参加を正式に要請した。 
 御先手鉄砲方や番方などのいわゆる武官でない町方が砲術演習に参加するのは異例であったため、先例として今は小普請組であるがかって御広敷添番だった小森清兵衛が鎌倉大筒稽古に参加しているという例書を添えている。 何事によらず先例が重要な時代であった。
 この申請は駿河守の承認を得て、演習参加が正式に許可された。

演習の日割
 五郎左衛門は当初、一貫目玉、三百目玉、百目玉の大筒稽古を予定し業書(計画書)を作成、2月朔日に幕府鉄砲方井上左太夫宅で行われた演習参加者の会合に参加した。
 井上左太夫の屋敷は西麻布、今のスイス大使館付近にあった。

    
 
 
この会合には演習参加10組の代表が集まり、演習の日割が決めらた。
 通常、演習は夏から秋にかけて行われており、この年は最初の組が3月14日に江戸出立することになった。
 五郎左衛門は10組の最後で8月24日江戸出立、9月10日まで往復を入れて16日間と決められた。 また、演習の終盤9月7日には幕府役人の見分を受けることも決まった。
氏名 江戸出立 帰府 日数 見分
斉藤 庄兵衛
同  重太郎
3月16日 4月1日 16日 3月26日
井上 左太夫
同  銀太郎
3月27日 4月22日  16日
葦名 傳十郎 4月9日 4月24日 16日 4月21日
佐々木傳左衛門
同  勘三郎
4月21日 6月17日 56日
小川 庄太夫 6月12日 6月27日 16日 6月24日
森  ■十郎
渡辺 庄左衛門
6月24日 7月9日 16日 7月5,6日
依田 大助
依田 大三郎
7月6日 7月21日 16日 7月17,18日
五井 権蔵
同  鉄次郎
7月16日 8月3日 16日 8月11日
坂本 源之丞 8月12日 8月27日 16日 8月24日
仁杉 五郎左衛門 8月24日 9月10日 16日 9月7日

大筒の調達
 日程も決まったが演習に使用する大筒の調達で目算が大きく狂った。 当初は師匠の村上源之允が現地で使用した後にそのまま拝借するつもりでいたが、その村上が今年の演習には参加しないことになったのだ。 村上の上司である戸田土佐守が御書院番頭から大御番頭に代わったためである。
 このため五郎左衛門は演習に使用する大筒を自分で探さなければならなくなった。 演習に参加する諸組に手紙を出し、これこれの大筒を使用する予定があるか、使用後に拝借できるかという問い合わせを行ったり、幕府の武器庫にも問い合わせをした。
 この結果、結局一貫目玉はあきらめ、五百目、三百目は現地で御先手大久保伊予守組与力五井権蔵が使用した大筒を借り、百目の大筒は幕府武器庫から拝借出来ることになり、ようやく大筒調達のメドが立った。
 3月5日、竹橋御門の渡櫓で百目玉大筒一挺を貸り受け八丁堀の屋敷に持ち帰った。大筒に合った玉薬(弾薬)を準備するためである。 
 さらに輸送のための車、現地で使う幕、提灯から鋤、鍬、鎌や杭木などに至る雑具の調達に奔走した。
 
手伝
 砲術演習は一人では出来ない。輸送、発射の準備、弾がどこまで飛んだかの計測など、かなりの人数が必要である。 多くは現地で調達する事にしても気心が通じた助手が必要である。
 五郎左衛門は一緒に砲術を習っている与力見習の仁杉五郎八郎と同心の野村孫右衛門、今村左五衛門、筧彦四郎の3人を連れて行きたいと申請したが、奉行から許可が出たのは五郎八郎と同心一人だった。
 このため、五郎八郎と野村孫右衛門を連れて行く事とした。五郎八郎は吟味方与力・仁杉八右衛門(義兄)の倅で五郎左衛門の甥にあたり、後の八右衛門幸雄である。

手当
 更に寛政10年、文化7年に自費で演習に参加した者に手当金が支給された先例がある事がわかり、申請して5月1日に金千疋を受領した。「疋」は贈答や御祝儀に使う金の単位で千疋は2両半に相当する。 半年以上の間の準備と約半月間の演習参加に要したであろう費用に比べれば微々たる金額である。 この手当は自費参加者に払うものではなく、手伝や付き添いで行く者に支払われるものだったようだ。
 実際、演習に参加することは晴れがましい事であり、師匠や親、親戚などが付き添って行く事が多かったようだ。

日程変更
 7月になって何組かの演習が終わると天候などの関係で日割の見直しが行われ、五郎左衛門の日割は当初日程より2日早めて8月22日出立、9月8日帰府と変更された。
 なお、この年、文化15年は4月に改元され文政元年となっている。

出立準備
 8月21日、町奉行に明日出立の届を出し、且つ留守中の牢屋見廻役としての業務は代役を任命せず、北町奉行所の同役与力服部仁左衛門に委託する事とし、町奉行および牢屋奉行・石出帯刀に届け出た。 これも過去の例を調べ、70年前に養生所見廻与力・中村又蔵が、上州に住む老母が大病になったので見舞いのため10日間の休暇をとった時、特に代りの与力を立てず北町の同役与力・磯貝藤兵衛に託したという先例に基づいている。

出立 同心の病気
 翌22日、五郎左衛門一行は江戸を出立、その夜は保土ヶ谷か戸塚あたりに一泊したのか、翌日に鎌倉海岸に到着し、直ちに鉄砲御用の宿提供を命じられていた高座郡羽鳥村の旅宿に入った。
 この道中、手伝として同行した同心の野村孫右衛門が風邪を引き旅宿で寝込んでしまった。五郎左衛門は着到届けとともに、江戸の年番与力小原惣右衛門に宛て「兼而伺置いた代役」をすぐ出立させるよう要請した。 
 野村孫右衛門は江戸出立前から風邪気味であったのか、あるいは日頃から病弱であったのか、あらかじめ「野村が病気の際は直ちに代役を出立させるように」という書類を提出しており、代役は決まっていたようだ。 早速同心の今村左五兵衛が鎌倉へ出立している。

演習
 演習は500目玉は30町場、25町場、18町場、10町場、百目玉は20町場、10町場など色々な距離の目標に向かって発射、その都度どこに着弾したかを記録している。
 この記録は専門用語が多すぎて理解できない。
 この間、雨天の日は「鉄砲鋳立方を稽古」したとある。

見分
 そして演習の終盤、9月6日に御鳥見黒野弥五左衛門、御徒目付高城吉十郎が立会い見分を受けた。なぜ御鳥見が砲術演習の見分に出てくるのだろう。

帰府・大筒返納
 
9月8日、すべての日程を終了した五郎左衛門一行は羽鳥村を出立した。往路と違って大筒(500目玉など)を車に乗せての帰路だったから、2日間で江戸に帰るのは強行軍だったかも知れない。
 翌9日に江戸に着いた仁杉五郎左衛門は拝借していた大筒返納のため虎ノ門から江戸城内に入り半蔵門内の鉄砲蔵で返納し、更に空になった車を竹橋御門の蔵に返納している。

報告
 帰府翌日の10日、町奉行岩瀬加賀守から植村駿河守に稽古が無事終了した旨が報告された。
 また半月後の25日には江戸城蘇鉄之間で見分役の御鳥見黒野弥五左衛門、御徒目付高城吉十郎へ業書(演習結果報告書)を提出、翌26日にはその写を岩瀬加賀守に提出して、参加申請から1年3ヶ月にわたる「鎌倉大筒稽古」が無事終了した。

 この後、鎌倉演習に五郎左衛門が何回参加したか不明であるが、この8年後の文政9年の演習には参加したことが、上記「宿泊請書」で確認できる。
 この時も五郎左衛門は羽鳥村に宿泊している。


荻野流砲術
 五郎左衛門は御書院番頭戸田土佐守の与力村上源之允について荻野流の砲術を習ったとある。
 荻野流は、正保の頃に正木流ほか砲術十二流派を極めた荻野六兵衛安重を開祖とする和流砲術であり、寛文期(1661〜1673)に流派として完成し、子孫や弟子は大坂で流派をひろげた。 その後各藩から入門者が多く、江戸時代を通じて最も広まった砲術である。


 同流砲術家の坂本天山が文政年間に開発した「周発台砲架」は左右180度に自由旋回、俯仰も自在な砲架で、これを使用する画期的な砲術である。
 当時は最も進んでいる和式砲術であり、諸組の役人がこれを学んでおり、五郎左衛門は砲術を通じてこれらの役人とも交遊があった事がわかる。

大筒稽古の日記    小石川御家人物語
 
氏家幹人著「小石川御家人物語」という下級武士の日記にもとづき、そのリアルな生活を描いた興味ある本があるが、この中で親戚の御家人が鎌倉の大筒稽古に行ったという項があるので抜粋して紹介する。
 
この中に登場する依田大助とい人は五郎左衛門が参加した文化15年(文政元年)の大筒稽古にも参加している。


(前略)
他にも兄弟ともに鉄炮の撃ち方を習っていて(先生は習字と同じく藤右衛門叔父}、明和九年(一七七二)六月七日、音羽町の角場射撃場 (かくぱ)で初めて実弾射撃を体験したことも一言ふれておきましょう。

 当日の成績は、それぞれ十五発撃って七発が的中したよし。使った鉄炮は浜町の小野左大夫様からいただいたものでした。
 さて、これだけ習い事が多いと、もちろんそれぞれ毎日というわけではありませんが、稽古日が重なることもあり、弟たちの生活は意外と忙しないものでした。こころみに明和九年(甚蔵十六歳、千蔵十三歳)の臼記から弟たちの或る数日を振り返ってみると、
 
 三月二十三日〈甚蔵〉朝飯後出宅。算術と剣術の稽古に行く。八時(午後二時)前に八助(下男)を迎えに呼び、八助が来るのを待って、同伴して直ちに馬術の稽古へ。暮時前に帰宅。〈千蔵〉四時(午前十時)過ぎに剣術稽古に出かけ、七時(午後四時)過ぎ帰宅。弁当は昼前、八助に家から運ばせる。

六月三口〈甚蔵〉朝飯後、七助(下男)を連れて算術稽古へ。稽古が済むと今度は弓の稽古に行く。いったん七助を帰してから八時に迎えを坪び、馬術稽古へ。七時半(午後五時)帰宅。剣術稽古は欠席。

六月二十八日く甚蔵)朝飯後、千射(矢を千回射て的中数を競う会)の手伝いに出かけ、畳からそのまま剣術の稽古へ。八時過ぎに馬術稽古に行き、帰宅は暮時。〈千蔵〉四時から剣術の稽古へ。八時遇ぎ兄と一緒に馬術稽古に行き、暮時帰宅。

 御覧のように、朝食を済ませて家を出たっきり、稽古事をハシゴして日が暮れるまで帰らないなんていう日も、珍しくありませんでした。
 幕臣の少年たち、よく学びよく鍛える。少なくとも、武士の子だから直参だからと安心して無為な日々を送っていたわけでは全然なかったこと、よくお分かりになったと思います。

銃と花火と湘南海岸

 文武諸芸の稽古に精を出していたのは、もちろん少年たちだけではありません。舘野家に養子に出た忠四郎叔父さん(父の弟で藤右衛門叔父さんの兄)などは、徳川御三卿の一つ田安家の近習番だった当時、殿様の「上意」で宝生流の謡を稽古させられましたし、一橋家附の幕臣だった父も、馬術や謡の稽古に精を出していました。
 でも身内の中で稽古の必要性を護よりも感じていたのは、私たち姉弟の習字の先生、藤右衛門叔父さんではなかったかしら。

 延享三年(一七四六)十一月、二十一歳の時に養子先の依田家に引越していった叔父さんの、慕臣としての役名は先手鉄抱組与力、鉄炮の手入れや射撃訓練が主なお仕事でした。射撃については、自分もかつては鉄炮組与力だった養父の左助さんが、叔父さんの練習ぶりに常々目を光らせていたから、養子の身にはつらいところ。叔父さんが三十歳の時には、ついにこんな家庭騒動すら起きてしまいました。

 当時幕府は、幕臣の射撃技術向上をはかるべく、「鉄炮打見分」(射撃大会)を定期的に闘催していたのですが、この年、宝暦五年(一七五五)五月二十九臼の「見分」で、叔父さんは十発中六発的中という成績だったんです。的中率六割というとなんだか聞こえがいいけど、一緒に参加した配下の同心六人のうち四人までが皆中(十発十中)だったから、さあ困った。養子の不成績に激怒した左助さんは、実家の父(つまり私の祖父)に、「これも全て目頃の稽古不足から。一体どういうつもりなのか藤右衛門の気持ちを聞いてほしい」と喰ってかかり、一方祖父のほうはといえば、ただ、「尤も」と頭を低くするばかり。結局、叔父さんを懇々と諭したうえ、、今後は懸命に稽古しますLという誓約書に判を押させ、祖父と父が加判して(連帯保証人になって)左助さんに渡すことで、とりあえず丸くおさまったのでした。

 このにがい経験をきっかけに、叔父さんはその後射撃訓練に精を出したようで、八年後の「諸組与力同心撰人鉄炮十打見分」では、見事十発十中の成績を挙げています。この見分はただの「鉄炮打見分」ではなく、五年に一度、将軍の御鉄炮を預かる御持筒組を筆頭に、百人組、先手、火消、鉄炮方の諸組からそれぞれ代表選手を出して開催される、ごく晴れがましい舞台。それだけに叔父の左助さんも喜色滴面、家に来て叔父さんの好成績を盛んに吹聴して帰りましたし、幕府からも御褒芙として銀二枚が下賜されたということです。

 それだけではありません。七月二十一日には配下の同心全員を自宅に招いて盛大に「皆中祝い」の宴を催すというので、家に主菜の冷麦を盛る大皿を借りに来たくらいです。

 職務に関わる稽古といえば、鎌倉で行われた大筒等の射撃演習にもふれておかなければならないでしょう。これは八代将軍吉宗公の時代に始められた制度で、幕府の鉄炮方、大筒役、先手鉄炮組の面々が、鎌倉(といっても現在の行政区画でいうと藤沢市、茅ケ崎市に含まれる湘南海岸ですが)で火術演習を行うものでした。この「鎌倉大筒稽古」に、叔父さんは、やはり鉄炮組与力の依田大助さんと何度か参加しているのです。

 日数は往復の旅行日を入れて十五、六日位。浜辺での演習には「遠打」(遠距離試射)、「近打」(近距離試射)など様々な種目があり、ここでも鉄炮打ち同様、成績が審査されたことはいうまでもありません。

 試される側の緊張と気疲れ。でも鎌倉演習には、参加手当が支給されたほか、周辺に景勝地や名所旧跡も多いことから、小旅行としての愉しさもあったみたい。事実、宝暦四年(一七五四)、の十月、祖父母は依田大助さんの火矢演習の見物かたがた、一週間の日程で、金沢八景、藤沢遊行寺、江の島と観光していますし、明和二年(一七六五)一月、前年暮も押し詰ってまで御道具(鉄炮でしょう)修理の仕事に精を出した慰労に休暇を貰った叔父さんが選んだのも、やっぱり金沢(現・横浜市)から鎌倉郡、江の島をめぐる二泊三日の周遊小旅行だったとか。 それにこの演習では、火矢や大筒等の試射のほかに、火乱星とか雲龍と命名された揚火(蜂火)の打上げ訓練が行われ、これがさながら打上げ花火のように美しかったともいいます 峰火(のろし)が本当にうつくしいのかって? 本当ですとも。幕末の砲術家の一人棟居保春だって、元来軍事目的で調製された蜂火が「世の永く治るに随ひ、種々に風流奇術を好み、是に肝胆を砕く人多し」といって、その観賞花火と化したことを歎いているくらいですもの。

 湘南の浜辺で打上げられる"花“の数々。あくまでお仕事とはいえ、この音と光の祭典は、疲れた叔父さんたちの心に一抹の爽快感を与えてくれたに違いありません。

補注
鎌倉の鉄炮場
は、享保十三年(1728)、享保改革の一環として新設され、大筒、石火矢など火砲の演習場として使われたが、射撃音で魚が沿岸に近づかなくなったり(漁業不振)、演習のために防風防砂林が伐採されて農業に少なからぬ影響が出たり(作物の被害)で、鉄炮場拡張にあたっては地域住民の反対運動も盛り上がった。、その後、海防強化の必要が唱えられ、寛政年間(一七八九−一八〇一)になると幕府は武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)にも新たに鉄炮場を設けた。(『鎌倉市史』近世通史編)。

*武術としての火術の遊戯化=花火化については、平戸藩の老侯松浦静山公(1760〜1841)も、『甲子夜話続篇』巻三で次のように慨嘆をもらしています。

予、年々夏秋の頃、佃の海上にて揚火あるを見物に往く、始は武術なれば心得にもと思ひ往しはなぴが、段々興さめて、今は慰に燗火戯(はなび)を看る心にてぞ行けり(中略)皆虚技を免かれず、唯見物の歓を助るのみ。此度も揚火を肴として酒を設けて瞭望せし中-・。