あの時、火村に尋ねる事が出来ていたら。
あの時、火村の部屋に行っていたら。
こんなにぐるぐると思い悩む必要などなかったのかもしれない。
簡単な事だ。
『あの人、誰なん?』
『ええやん。何時になってもええから部屋でまっとるし』
『火村、キミはいったい何者?』
訊けば、私は楽になれるだろうか。
私には訊ねるだけの『理由』があるのだろうか。
二人の関係が、世間一般的に認められた関係であったなら・・・。
臆せずに聴けるのだろうか。
もっと、と素直に言えるのだろうか。
指先だけは器用に繭を紡いでいるのに、思考は同じところをぐるぐると廻っている。
外界から離れた自室でだんだんとアリスは分からなくなっていた。
真実を知って苦しむのと、知らない振りをして苦しんでいるのは
果たしてどちらが楽なんだろう・・・。
私たちの関係は酷く曖昧で主観的な物だ。
友人であり、親友であり、そして恋人である。
だがそれは、私たちが相応に認識しているものではなく、もしかしたら私だけが一方的に思いこんでいるだけに過ぎないのかもしれない。
火村にとっての私はいったいなんなのだろうか。
大切にしてくれている。
愛してくれているのだと、そう信じている。
けれど。
私たちの部屋を一歩出れば、それは。
強い意味を持たない、友人としてのソレに戻る。
私たちが一緒に居る理由は何だ?
世間的に認められるものでもない。
確かな形を残せるものでもない。
それどころか、火村の立場さえ危うくしかねない。
それでも、ずっと一緒に居るのは。
『居心地がいいから』だ。
だからこそ、アリスはこんなにも固執している。
居心地がいい事、に。火村に煩わしいと思われたくない、と。
弱い、そう言ってしまえばそれまでだ。
感情に左右されて、何もかもが色を変えるなんて。
でも、火村。
私の生、その中にキミは確かに存在するんだ。
私が私として生きていく中で、キミの存在は・・・無くてはならないものにまでなってしまった。
感覚も感触も感情も無い世界でアリスは唯只管にじっと篭っていた。
もしかしたら、このまま世界が消えてしまうのではないかと思うくらい只管に。
ずいぶんと長い時間が経った気がするのに、朝は一度しか来ていなかったらしい。
時間の経過が分からない自室に篭っているとき、その世界を壊すように火村からのメールが送られてきた。
たった、1行の短いメール。
“今夜行く”
それだけがアリスに儚い夢を与える。
今夜という事はおそらく仕事を終えてからこちらに向かうのだろう。
それだと、だいたい10時近くなるはずだ。
曜日感覚の無くなった頭で壁のカレンダーと携帯の日付を確認するとどうやら、今日は金曜日らしい。
明日が土曜日で授業は無いはず、ということは今夜来て泊まっていくのだろうか。
今までは当たり前の事についてすら不安を感じてしまいアリスは自嘲気味に笑った。
自分が思っているよりもだいぶ参っているらしい。
暗い室内に煌々とした明かりを灯すPCの画面を暫くぶりに消すと室内の暗さに目がくらくらする。あまりの心労にモノを食べる気にもならなかったここ数日の疲労が体力の限界を超えているらしい。
それでも、ふらふらとする躰を引きずりながらなんとか体裁を繕う為に部屋を這い回った。
余計な心配を掛けたくは無い。その一心で。
なんとか部屋の中をまともに整えると連日の睡眠不足からかソファで転寝をしていたらしい。
換気の為に窓を開け放ったときには夕暮れの空が見えていたのに、朱色に染まった筈の部屋は暗い帳が覆っていた。
どれくらい、寝てしまっていたのだろう・・・。
未だ覚醒しきれない頭でぼんやりと思って、アリスははっと我にかえった。
そうや、火村が来るって言ってたんや。
慌てて時計を見ると時刻は11時近い。かなり本格的に寝入ってしまっていたらしく
これでは火村が来るのは時間の問題だ。
テーブルに置かれたままの携帯を確認するも、着信もメールもない。
もっとも、火村は来るという連絡をした以上、よほどのことが無い限りそのまま部屋まで来ることが多いのだけれど。
つい見てしまう。
わかっているのに確認してしまうのはアリスの癖だ。
今、どのあたりかとメールしようとも思うのだが、結局はいつも止めていた。
まるで催促をしているようでどうしても出来なかった。
最近思い出すのはそんなことばかりで自然とため息が漏れる。
いい加減やめよう――そんな自問自答も飽きるほど繰り返したと言うのに。
それでも、自身を宥める為に瞳を閉じた。
「・・・?」
と、部屋の中に違和感を覚えアリスは首を傾げて周囲を見回した。
いつもよりも、火村の煙草の香りが強い気がしたのだ。
火村の居ないときに寂しさを紛らわせるために火村が置いていった煙草に火をつけることもある。それでも余計に寂しくなることに気がついてから、このところは吸っていなかった。それにしては香りが強いような気がする。
訝しく思い見回しているとダイニングの椅子に見慣れたジャケットが掛かっている。まさか、と思う。思った矢先、リビングのすりガラスの扉に映る影を見て取りアリスは眼を疑った。
「・・・・ひむら?」
「ああ、起きたか。鍵、開いていたぞ?無用心だから締めとけっていつも言っているだろ、アリス」
ぽかんとして見つめるアリスに腕まくりを解きながら火村が近づいてくる。どうやら洗面所に居たらしい。
「火村、いつ来たんや?・・・ごめん、気ぃつかんかった」
「別にいいさ、今更。ああ、勝手に風呂、入れているからな。・・・・アリス、飯は?」
いつも辛うじてぶら下がっているだけのタイはジャケットと一緒に抜き去ったらしく開襟でラフに着ているシャツから逞しい胸元がちらちらと見えてなんとなく赤面してしまった。
その、火村の態度はいつもと変わらないように思えて。不安ばかりを拾ってしまう心をもてあましながらも何とか体裁を繕って笑って見せた。
「おなか、すいてないねん。火村は?食べた?」
「腹、減ってないって・・・。アリス、お前、ちゃんと食べたのはいつだ?」
「・・・・・ええと、今日・・・」
アリスの隣に腰を下ろした火村は何かを確かめるようにアリスの頬に掌を添えて逃げないように視線を真っ直ぐに合わせて聞く。
「アリス、今日って何時だ?・・・・何を食べたか言ってみろ」
「・・・・・なんで?ええやん、そんな事」
働かない頭では火村の執拗な問いかけに咄嗟に答えが出てこなくて、目を逸らしてごまかそうとするアリスの顔を大きな掌が包んでそれをさせない。
どこまでも見透かすような火村の漆黒の瞳に見据えられてアリスは泣き出したくなった。
「アリス、まともに食べてないんだろう?・・・・ここ最近だ。顔色が悪い。・・・痩せたな」
「・・・・・・違う」
見つめる火村の瞳はどこまでもクリアで穏やかな優しささえ垣間見える。
それが、堪らなく切なくて苦しくてアリスは目を閉じてしまいたかった。どうか、これ以上。
これ以上、私の心に触れないで欲しい。
キミがやさしく触れるたびに我慢して耐えてきた不安や疑問が抑えきれずに溢れ出してしまうから。
だから、お願いだ。
火村。
そっと唇をかみ締めて必死に耐えようとするアリスを見て火村は頬に触れたままの手を広げると、
長くしなやかな指で噛み締めた唇を解いて囁く。
「・・・・アリス。アリス、これ以上、自分を追い込むな」
Author by emi