真実と有用性 -7-


黒い影が響かせたノックの音に答えるべきなのか、一瞬逡巡したものの・・・アリスは『どうぞ』と答えた。

まあ、灰を捨てに行っただけなら火村はすぐに戻るだろう、入っていて貰っても差し支えはない・・・、筈。


あまり深く考えた訳ではないが、なんとなくそう思った。

ドアノブが廻るのを見つめながら、一応居住まいを正してみる。

開かれたドアの向こう側には長身の男が佇んでいた。

『・・・・失礼、此方火村博士のお部屋かな?』

入ってくるなり英語が飛び出して、内心ドキリとした。

先ほどまで厭というほどその件に関して考えていたからだ。

驚いて咄嗟には答えられなかったアリスに客人は訝しそうにして再度問う。

『もしかして英語がわかりませんか?』
『・・・いえ、少しでしたら話せますよ。失礼、ちょっと考え事をしていたので』

入ってきたのは私より身長が少し高いくらいだろうか、すらっとしているががっしりと体躯の良い東洋系の顔立ちの淡褐色をした瞳を持った40代くらいの男性だ。

その身には明らかに上質であると分かる三揃いを纏っていて、姿勢のよさからも紳士然としており上品・・・なのだが、彫りの深い顔は冷たいくらいの無表情で物腰の柔らかさとは裏腹に口調は酷く事務的だ。もしかしたら、機嫌があまりよくないのかもしれない。

火村の研究室を訪ねて来るくらいだからどこか大学に席を置く研究者なのだろうか。


見るからに切れモノ、という雰囲気に呑まれそうだ。



アリスは立ち上がると応接用のソファを勧め来客用に置いてあるソーサー付のカップにコーヒーを入れた。


『・・・すいません、火村はただ今席を外しています。直に戻ると思いますので・・・』
『ああ、どうもありがとう』

なんとなく、向かい合ってすわっているのもおかしいかと思い、所在無げに立っていると 今度こそ、聞きなれた靴音が響いて扉が大きく開くと火村が戻ってきた。



何をするわけでもなくただ、立っているアリスに驚きを見せるも、応接用のソファに腰をかけた紳士を見て火村は露骨に厭な顔をしてみせた。



そして、アリスにゼミ生用の椅子に座るように勧めると声も掛けずに紳士の前を素通りする。

どうやら、あまり歓迎できない来客らしい。



大学関係などで必要があって会う人間に対しては思いのほか丁寧な対応をする火村にしては意外な態度だ。

火村は手にした灰皿をデスクへ戻すと早速新しい煙草に火をつけて、忌々しそうに呟いた。




『・・・誰が此処まで来てもいいと言いましたか?何か御用ですか?』


珍しく不機嫌を隠そうともせずに辛らつに言い放った火村に少し戸惑ってしまうが
客人の紳士は気にもしない様子で軽く流して穏やかに返してくる。


『何度も電話にてご連絡を差し上げたのですが、生憎と繋がらなかったようですね・・・』
『・・・言ったはずだ。今後一切の干渉をしてくれるなと。其れが条件だっただろう?』



あからさまにむっとした様子で火村が告げると少しため息をついて紳士は私が出したコーヒーに少しだけ口をつける。もしかしたら気を使ってくれたのかもしれない。

普段は口にしないのかもしれない。『インスタントコーヒー』なんて。


『ええ。そのお約束でしたが・・・、今回は例外と思っていただきたい。だんな様、直々のお呼び出しです』

黙ったままで紫煙を燻らせる火村は一瞬、ぴくりと反応したような気がする。



よく聞き取れなかったのだが、誰かからの呼び出しらしい。今後一切の干渉、と言っていたが もしかしたら以前、なんらかの関連があった事なのかもしれない。

私の聞き取りでは確かかどうか自信が持てなかったが、おそらくそのようなニュアンスだと思う。



『呼び出しだろうとも答える気はない。お帰りいただこう』
『エーキ様。それではサーも黙っては居ますまい。・・・アリスという方もお連れしろと仰せつかっております。お判りいただけますか?』

『アリスを・・・?』
『左様でございます』



何故と訝しく問うた火村に、恭しく頷くと眼鏡の紳士はご検討を、と言い残して颯爽と研究室を後にした。残された私と火村はただ、沈黙を守って互いに思案に暮れていた。


先ほど耳にしたウルフ先生との会話とは明らかに違う、綺麗なブリティッシュに驚きよりも戸惑いの方が強い。たぶん、今の紳士は英国からの客人なのだろう。



そして、彼は火村のことを違う名前で呼んでいたのだ。

聞き間違いでは無い、とも言い切れないが確かに“エーキ”と言っていた気がする。


それは、あの封書の“間違っているかもしれない”つづりのイニシャルと同じ、E。
このタイミングでは偶然とはどうしても思えない。


火村はデスクのチェアに腰を下ろしたままで依然として白い煙を燻らせて厳しい表情で暗くなってきた表を見つめている。

その、険しい横顔は見たことも無いような憂いを帯びていてまるで違う人間のようにも見えてしまいアリスの心の中では考えたくない厭な事ばかりが、もやもやと立ち上る煙草の煙のように湧き出して燻っては思考を苛む。

おまけに、眼鏡の紳士が去り際に口にしていたのは紛れも無く自分の名前で。

それなのに名前を口にしたとき、紳士はアリスの方を見ようともしなかったのだ。連れて来いと言うアリス本人がそこに居るにもかかわらず、だ。



もしかしたら紳士が知っているのはアリスという名前だけなのかもしれない。

アリスを、といわれたことに対して意外そうにしていた火村には心当たりがあるのだろうか?
考えておけ、といっていたから火村のところには連絡があるのかもしれない。




あまりに急な展開にアリスは混乱して何をどうしたらいいのかわからなかったが
じっと黙ったままの沈黙に耐え切れずにアリスは重い口火を切った。



「あの・・・、火村・・・」
「・・・・ん?」

けだるそうに呟く火村の表情にアリスは心の中で湧き上がった疑問に対する追求心が急速にそがれていくのを感じてやっと開いた口を曖昧に濁して流してしまった。



明らかに低いテンションの火村にこれ以上煩わしい思いをさせてしまいたくない。

「ん・・・・、なんや。本も貰ったしそろそろお暇するわ。・・・今日はどないする?」
「ああ・・・・」



もしかしたら、今此処では聞けなくても下宿に帰って狭い部屋に二人きりになれれば
今度こそ聞けるかもしれないと、一抹の希望を託して訊いた。

それなのに、険しい表情をしたままの火村は少し伏せ目にして、それでも辛うじて優しい口調でアリスに告げたのだ。


「・・・今日は何時になるのか分からないから。すまんが、マンションへ帰ってくれるか?」
「・・・・そうなんや。わかった・・・、そうする」

火村が告げた言葉にただ惰性で動いて小さくじゃあ、と呟いて研究室を後にした。
どうやって歩いていたのか、わからなかった。



周囲には音が無くて、踏みしめている筈の地には感覚が無かった。

気がついたとき、アリスは自室の画面の前に居た。



其処だけがアリスの世界だったから。


Author by emi