『ヒムはとても綺麗な発音で話しますね』
そう言ってウルフ先生は笑っていた。
いつだったか、火村の研究室でウルフ先生とコーヒーを飲みながら話をしていた。
火村は所用で席をはずしており、その留守番をしていた処にウルフ先生が訪ねて来たというわけだ。いつもなら来客があったところで出迎える事はしないが、外からかけられた声が知った彼なら話は別だ。
勝手知りたるなんとやら、でコーヒーを出す位の事は私にも出来る。
ネイティブには程遠いが意思の疎通を図れる程には英語が話せる私に、ウルフ先生は極めて分かりやすい単語を選んでゆっくりと話をしてくれていた。
『そうですか?・・・確かに私に比べたら火村の英語はとても上手ですね』
はたしてきちんと伝わっているのか、不安になるがウルフ先生はやや大げさな身振りで頷くと独特の笑顔を顔いっぱいに溢れさせる。
『ええ!ネイティブと変わらないくらい流暢ですね。とても上品なブリティッシュイングリッシュです。ええと、なんて言うのか、言い回しがとても丁寧なんですよ、ヒムは。わかりますか?』
少し言いよどんだのは言葉の表現が難しかったからであろうか、たぶん「言い回し」であっていると思う。
私が「わかるよ」と頷くとほっとしたようにウルフ先生は続ける。
『あまりに流暢に話をするので、初めは本当にネイティブなのだと思っていました』
『まさか。火村は生粋の日本人ですよ・・・、たぶんね』
『・・・アリス。何がたぶん、なんだ?』
私とウルフ先生が顔を見合わせて笑いあっていると、所用で出ていた准教授が戻ってきたらしく少し疲れた声音が背後から聞こえた。
勿論、流暢な英語で。
私が振り向くと手に書類を抱えた火村がデスクにそれを置き軽く手をあげて「来てたのか、ジョージ」と挨拶をしているところだ。
コーヒーを入れるのだろう動く火村にあわせて身体を捩るようにして目線で追うと、一冊の本を私に渡してきた。頼んでおいた資料だ。
『ネイティブなジャパニーズの火村先生だって話をしてたんや』
『は?なんだ、それは・・・。それよりもジョージ、この間預かっていた資料だが・・・』
どうやら、仕事の話らしい。
小難しい単語が出てきて私はヒアリングを諦めて火村から渡された本を手に取るとぱらぱらと捲った。
直近くで話す二人は此処が日本だということを忘れるくらいに早口で話をしている。ウルフ先生も私と話をするときにはよほどゆっくりと話してくれていたのだろう、滑らかに話すそのスピードにはまったくついて行けない。
会話の中で時々文末を聞き取るのがやっとだ。いざ目の当たりにするといかに火村が流暢に話せるのかを知る。
そんなことを考えながらふと、先ほどの会話で覚えた違和感を思い出した。
ウルフ先生は、火村は綺麗なブリティッシュイングリッシュで話すと言っていた。
出会ったときには既に流暢に話が出来ていた、とも。
火村が留学をしていたのは事実だ。
学生の頃の学内選抜交換留学が1回と研究者という立場になってからが1回。いずれも短期間のものだった。まさかその短期間で流暢な語学力を身につけられるとは到底思えないが、現に話をすることが出来るのだから可能だったのだということになる。
でも、それにしても綺麗なブリティッシュ、というのはおかしくないだろうか。
火村が留学していたのはいずれも英国ではなく、米国だった筈。
アメリカ独特のスラングをというのならわかるが、イギリスの発音とアメリカの発音では微妙に違う。
実際に話をしてみれば私にもなんとなくわかるくらいだから、ネイティブであるウルフ先生が感じたのなら間違いではないのだろう。
気にして聴いたことなどなかったから、言われるまで気がつかなかったのだが・・・。
そして、唐突に思い当たった。
先日、偶然に見てしまったロンドンからの手紙。
確かに其れはなんの関係も無いのかもしれない。考えすぎなのかもしれない。
でも、一度なんらかの形で繋がってしまった思考の連鎖というものは、なかなかどうして自分では断ち切れないものなのだ。
特に、負の連鎖、不安の連鎖というものは・・・。
手の中の本は次々にページが捲られていく。
それなのに、ただ其れを眺めているだけで内容はまったく頭の中に入ってこなかった。筆を持っているときの集中とは違う、ぐるぐると渦巻くようなその思考は徐々に蓄積されていって結界寸前だ。それでも、疑問を溜め込むことに、不安を隠すことに慣れてしまった私は上手にその胸の混乱を隠すのだろう。悟られないように、・・・・火村が離れてしまわないように、と。
アリスの手元から乾いた音が規則正しく紡がれている。
ページが進んでいくように時間だけが過ぎていくのだろう。
ちらりと見る。
視界の端に映るアリスの姿に火村は少しだけ笑った。
火村は没頭している様子のアリスにはよっぽどの事でもない限り、話しかけることはしない。
用事が済むとジョージは早々に研究室を後にした。
その際にもじゃあ、と挨拶するジョージに上の空で返事を返したアリスを見て火村は首を竦めてみせた。
意識はどこかへいっているらしい。
そんなアリスには構う事無くしたいようにさせて、自分はたまっていた事務処理を片付けたり論文の資料を纏めたりして過ごした。
やがて、夕日が研究室を包み校内から聴こえてくる生徒達のざわめきも小さくなった頃、漸く浮上した様子のアリスを見てやっと声を掛けた。
「・・・・アリス、キリがいいなら休憩するか?」
「そうやね・・・」
まだ、少しぼやっとしたアリスを見やり火村は大きく伸びをして席を立つと置きっぱなしになっているアリスのカップにコーヒーを注ぎ手渡してやる。
勿論、自分の分には半分、ミルクを入れて。そうしている間にも日は沈んで朱色に染まった研究室の壁も徐々に紫に暗く染まっていく。
かちり、とライターで火をつけると大きく息を吸い込んでふと見た灰皿に出来た山にいつもの事ながら、うんざりする。
自分が吸ったとはいえ朝取り替えたばかりの灰皿には落としきれないような灰の山。
ちらりとアリスを見ると、カップを両手で持ってまだぼんやりとしているようだ。
意識がはっきりとこちら側に戻ってくるのにはもう少しかかるかもしれないな、と踏んで咥え煙草のまま灰皿の灰を捨てに研究室を出て給湯室へと向かった。研究室という場所柄、なるべく火の気を残さないように気を配ってわざわざ外の給湯室に捨てに行くように心がけているのだ。
「アリス・・・」
一応、声だけを掛け断りを入れておく。
目線だけをあげて答えるアリスに灰皿を掲げて見せると火村は灰を散らさないように静かに動くと扉を開けて出て行った。ちくたくと時を刻む時計の針の音だけが静かな研究室内に響いている。
まるで着実に忍び寄る足音のように聞こえて厭な予感を覚えた。
考えすぎ、だな。
そう独り呟いくと火村はそっと扉を閉めた。
コツコツ。
「・・・・・・?」
一体どのくらいの時間が過ぎていたのだろうか。
次にアリスの意識が浮上した時。
室内には誰の気配もしなかった。
ああ、またやってしまった・・・。
呆れるより前に「またか」と思うあたり相当まずいと思うが
それでも、どうしても治せない悪い癖、みたいなものだ。
火村は・・・、どこだろう。
そう思って視線を巡らせた時。
その針の刻む音に混じって明らかな靴音が聞こえた。
こちらに近づいてくるのだろうか、廊下をおそらく真っ直ぐに向かってくる音は火村のそれとは少し違う気がしてアリスは扉を振り返り見た。研究室の扉は上に細長いすりガラスが嵌っているのだが、其処に黒い影が映ったかと思うとコンコン、とノックの音が響く。
浮かび上がる黒い影に、漸くはっきりとしてきた思考の片隅で漠然とした不安を感じて・・・。
Author by emi