真実と有用性 -4-



目に見えない、それでも確かに其処に存在している―――壁。

人は他人と分かり合おうとするのに、何故わざわざ壁を築いていくのだろう。


その壁はどんなものでもいい。
薄くても厚くても高くても低くても。

其処に自分の領域が保たれていればそれだけで何故人は安心するのだろう。


それなのに。


分かり合いたい、少しでも近づきたいと願っては歩み寄ろうと努力するのだ。
いっそのこと、溶け合ってしまいたいとさえ思い、切に融合を望むのだ。


それは、己では理解しがたい感情の矛盾。


人々が社会という世界を形成して生活をしている以上、まったくの孤独で人と触れ合う事無く生きていくのは到底無理なことだ。

社会に出て生活していくならある程度の他人との接触はいたし方の無いこと、そう割り切って今まで行動してきた。



無論、これからも他人とはうまく距離をとったままで生きていくのだと思っていた。
それが自分にとっての不変的な信念であると思っていたのだ。


だが、アリスと出逢って変わらないものなど何も無いのだと知った。

気がつけば傍にはアリスが居たから。

それも自分からアリスに近づいたといっても過言では無いのだから我ながら驚いた。
関係は徐々に深くなり、その距離は徐々に近くなっていく。
そして、いつの間にか出逢ってから10年という時間を共に過ごしていた。
幾度と無く肌を合わせ躰を重ねて、幾つもの季節を共に眺めてきた。
互いの癖や行動、好みといったものについてはきっと自分で思っているよりも遥かに詳しく知っているのだと思う。


それでも、やはり其れは存在しているのだ。

少し憔悴したような表情のまま、穏やかに寝息をたてるアリスを見つめ帳の下りた闇に紫煙を燻らせて手の中の封書を弄ぶ。

ばあちゃんも出掛けていて不在ということもあり、久しぶりの逢瀬は濃密なものとなった。
少し過ぎた締め切りも最後の追い込みで脱稿する頃だろうと踏んで“明日はどうする?”とだけメールを送った。

行けたら行く、という曖昧な返信であったが、本当に目途の立っていない時には実直に“行けそうに無い”という言葉が返ってくるから、十中八九来るだろうと予想していた。

こんなときアリスは決まって当日連絡などせずに直接下宿まで来る。

昼近くまでベッドの上に丸まって惰眠を貪った後に、もそもそと動き始めて家を出る用意をしてから此方に着くのはだいたい午後3時前後。
その日の気分に合わせた(勿論、アリスの食べたいものだ)手土産を提げ、鼻歌なぞを歌いながら駅からの道をのんびりと歩くのだろう。

アリスとの付き合いも長いもので、其れくらいの行動なら簡単に想像できる。

それを見越して煙草を買いに出たのだ。
勿論、ばあちゃんが出掛けることでアリスが直接部屋に上がるであろうことも。
開け放ったままの窓から吹き込む少し強めの風に、机の上の封書が飛ばされるであろうことも。

全て。


それでも、アリスは。
何も言わない、何も聴かない。

部屋へ帰ったとき、アリスは何も無かったかのような顔をして飄々と吹き付ける風に髪を遊ばせていた。

唇だけ、不自然に紅く染めて。

アリスは何かを強く思うとき、唇をかみ締める癖がある。
そうすると、決まって其処だけ朱を刷いたように紅く腫れぼったく染まるのだ。

不安を隠しきれず、揺れる瞳に紅い唇。

はじめのうちはその表情を見るたび、堪らなく満たされる感覚に自分でも驚いていた。

アリスを不安にさせる、それがほかならぬ自分だということに、ひどく安心するのだ。
穏やかで、柔らかい外見にそぐわず、アリスは一本芯の通った実直で揺るぎ無い強い面を隠していると思う。

自分の世界感をしっかりと持って周囲の声や出来事に左右されにくいのだ。

その、アリスが。

滅多な事で悩んだりしないアリスが、不安を隠しきれないのは自分の事について思っているのだ、そんな風に考えるだけで嬉しくなってしまう。

我ながら、子供じみた浅はかな独占欲だ、と思う。
時にはわざと、不安要素をちらつかせてみたくもなる。

俺は何をしているんだろうか。
そうまでして、アリスを苦しめてまで言えないなんて滑稽すぎる。

いっそ。
いっそ自分から言い出してしまえればいい、何度そう思ったか分からない。

それなのに、どうしても言いだす事が出来ないで居る。

不安なのだ。

告げてしまう事でアリスを失うかもしれない、そんなバカな事は無いと
分かっては居ても、どうしても考えてしまう。

俺は俺なのだと、果たして言いきることが出来るだろうか。

「バカな・・・」

言ってしまいたい、でも言いだせない。
ぎりぎりの選択で、アリスに答えを導いて欲しいと思う俺はなんて酷い男だろう。

自分が弱い事を棚に上げ、こんなことをしてまでもアリスに依存している。

でも、いまは・・・。

今、不安なのは誰だ?

手の中の封書は暗い室内では読むことは出来ない、それでも確かにアリスはコレを見たのだと思う。違和感はあったはずだ。でなければ、動揺などしないだろう。

それでも。
アリスは火村に問うことをしない。

いつだって、そう。
肝心な事は何も聴かないのだ。

一緒に居るようになって、夜中にあげる悲鳴に近い叫び声に気がつかない筈が無い。

それなのに、窺い見るアリスの背中は何も語らない。
何も、聴かない。

気になってなど、居ないのかもしれない。
そんな風にさえ思える位。

其れゆえ、時折確認してみたくなるのかもしれない。
子供じみた独占欲でもって、アリスの執着を。
その都度、馬鹿馬鹿しい、やめようとも思うのに・・・。

「・・・・・馬鹿馬鹿しいだろ・・・?なぁ、アリス」

かさり、と乾いた音をたて封書を机の上に出来た山に戻すとしどけなく横たわるアリスの躰にその身を寄せて抱き込むように眠りについた。

独り呟いた声はアリスに届く事無く。
変わることの無い闇がいつものように呑み込んで消してしまった。

変わらないものは、闇。

では、変わるものはなんなのか。
きっと答えは見えているのに。互いに見えない振りをしているのかもしれない。

自分が仕掛けた闇に。
アリスは、堕ちて来るだろうか?

柔らかい髪に頬を寄せ火村は意識を手放した。

その夜、夢は訪れること無く、叫び声が上がることは無かった。




Author by emi